灰原七海とゲーセンに行くT


 呪術師を育成する学校とはいえ、四六時中呪いを相手にしているわけではない。高校生として基礎的な学力を身につけることも当然求められる。
 そしてそれは、時として呪いを祓うより疲労感を伴うこともあった。

「頭がぐらぐらする……」

「僕も……急に力が抜けたよ……」

 今年初めての中間試験を終え、名前と灰原はすっかり燃え尽きていた。
 涼しい顔をしているのは七海だけだ。一夜漬けなどという愚行に走らざるを得なかった二人とは違い、真面目な彼は常日頃から予習復習を習慣づけている。
 そんな彼は机にへばりついている二人を置いて、静かに席を立つ。3人しかいない教室に響く、椅子を引く音。顔を上げたのは二人ともで、しかし口を開いたのは灰原だった。

「あれ、七海もう帰るの?」

「ええ、自己採点もしなければならないので」

 当然だろうと言った七海に、二人揃って首を傾げる。
 自己採点。……そんなもの、進んでやる人がこの学校にいるとは思わなかった。そう言いたげな顔である。
 思えば名前は根っからの呪術師であったし、灰原は過去を振り返らない主義だ。故に二人と七海の間には埋めがたい溝が存在していた。

「七海は真面目だなぁ」

「うん、こんなに頭使った後なのにまだ勉強できるなんてすごい」

「そうそう、尊敬しちゃうよ」

「だよね、私なんて当分教科書を読み返したくないよ」

「あー……そういえば昨日の夜は英語のノートが見つからなくて焦ったっけ」

「結局見つかったの?」

「ううん、ダメだった。せっかく七海のを写させてもらったのになぁ。たぶんそのうちどっかから出てくると思うけど」

 ……のんびりとした二人の会話に、七海は溜め息をつく。まったく違う生き物を相手にしている気分だった。
 そしてそのうちのひとりである灰原が、「そうだっ!」と手を叩いた時、嫌な予感が込み上げた。

「この後は実習もないし、3人で遊びに行かない?お疲れ様会ってことでさ!」

「なに勝手に私を頭数に入れてるんですか……」

「仲間はずれはよくないからね!」

 灰原は屈託のない笑顔を七海に向ける。善意しか感じられない眼差し、表情に、七海は返す言葉を見失う。拒絶するのは容易いが、それはどうしたってできなかった。
 七海にできるのは「そうですか」という曖昧な返事のみ。否定することからも肯定することからも逃げ出した。
 その横で、名前は不思議そうな顔で灰原を見た。

「お疲れ様会?……って、どんなの?」

「うーん、……ゲーセン行ったり、ご飯食べたりかなぁ?」

「げーせん……」

「あっ、もしかして名前は初めてだったりする?色んなゲームとかが楽しめるところだよ」

「……よくわからないけど、楽しいところなんだね」

「もちろんっ!」

 いや、それは人それぞれだろう。灰原にとっては楽しくても、そうではない人だって当然いる。
 自分の場合はもちろん《そうではない》人間の方だ、と七海は思う。ゲームセンターなど何が楽しいのかわからない。騒がしいばかりで、名前には似合わないだろうとも思った。──図書館や美術館など、静けさの中にこそ彼女はふさわしい。
 名前の凪いだ眸を横目に、けれど七海は言葉を呑み込んだ。賢い彼はその台詞が水を差すものであると理解していた。……悲しいほどに、彼は聡明だった。

「それじゃあなおさら行かなくちゃ!今日は名前のゲーセンデビュー記念日だね!」

 結局、こうなるのだ。
 張り切る灰原に急き立てられ、名前は荷物を纏める。その手を、なんの躊躇いもなく握れるのがこの灰原雄という男だ。
 初めて会った日に、七海が握り返せなかった少女の手。『術式が発動しなくてよかった』と彼女が密かに胸を撫で下ろしていることも、ささやかな触れ合いから喜びを感じていることも、灰原は知らないのに。何も知らないはずなのに、彼は易々と名前の望みを叶えてしまう。──すべてを察しているにも関わらず何もできないでいる、七海のその目の前で。

「ほら行くよ七海!」

「──仕方ないな」

 けれど彼を嫌いになることなどできなかった。七海にとって灰原は既によき友人であり、仲間だった。羨む気持ちと同じだけ、好ましいとも思っていた。だから──そう、すべては仕方のないことだったのだ。





 ゲームセンター、という施設の存在自体は知っていたが、実際に中に入るのは初めてかもしれない。よくわからない機械音や電子音、安っぽいBGMに晒されながら七海は辺りを見渡す。
 平日のこんな時間に来店する客など、同じくテスト期間中の学生くらいなものだ。そう思っていたけれど、存外大人の姿も多い。そういった人たちは各々独自の世界に没入している様子だったので、あまり近づかないようにしようと思った。たかがゲームに鬼気迫る様は、七海にとって理解できない代物だった。
 名前は名前であまり他の客の姿は目に入っていないらしい。それよりも見慣れない機械の群れに圧倒されるのでいっぱいいっぱいの様子だった。

「これ、この機械はなに?」

「ああ、これはUFOキャッチャーだよ。あの銀色のやつで景品をつまんで穴に落とすってゲーム。単純そうに見えて結構奥が深いんだ」

「そうなんだ……。式神を使えば簡単に取れそうだけど」

「あはは!確かにそうかもしれないけど、これはゲームだから。呪力使うのはナシね!」

 灰原は「試しに僕がひとつ取ってみせるね!」と腕をまくった。
 気合い十分。自信たっぷり。百戦錬磨の顔でコインを投入した灰原だったが。

「うん!これは無理だね!」

 数回プレイしたあと、あっさり放たれたのは敗北宣言。彼は満面の笑みで降参を示した。

「先程の自信はなんだったんですか……」

「熟練者って感じの顔してたのに」

「うーん、今日はイケそうな気がしたんだけどなぁ……。じゃあ次は七海がチャレンジしてみてよ!」

「は?」

 まったく脈絡のない流れに、七海は思わず眉根を寄せる。

「『じゃあ』って何ですか、『じゃあ』って」

「だって七海、こういうの得意そうだから……」

「どんなイメージですか、それ」

 呆れるも、灰原と名前、二人に期待の眼差しを向けられては固辞することもできず。1度か2度やってやれば満足するだろうかと思い、七海はコートロールボタンに手を置いた。もちろん、「期待しないでくださいよ」と言っておくことは忘れない。実際、灰原のような自信など欠片もなかった。

「すごい!すごいよ七海!」

「うん、鮮やかな手際だった……!」

 だが無欲ゆえだろうか。3回のチャレンジで、景品はあっさりと転がり落ちてきた。二人は驚きに目を見張り、盛大な拍手を送ってくれるが、一番驚いているのは七海自身だった。あまりに呆気ない結末、このゲームの何が面白いのかわからないまま終わってしまった。

「これ、どうするんですか」

 景品は抱えるほどの大きさのぬいぐるみだった。七海でも見たことのある動物の姿をしたキャラクター。女子が好みそうなもの、という認識のそれは普段の七海とはあまりに縁遠いものである。お陰で手にした今もなんだか落ち着かない。
 自分が持っているべきものではないと、七海は最初灰原に差し出したのだが、「え?僕はいらないよ?」と逆に不思議がられてしまう。……なぜだ。言い出しっぺはあなたじゃないですか、と言いたいところ。
 しかし続く言葉に──つまりは灰原の言った、「名前にあげたら?」という言葉に、七海は固まった。
 それは、考えていなかった。というより考えないようにしていたか。七海にとって彼女に物を贈るというのは、ひどく気恥ずかしく、特別な意味を持つように思えてならなかったのだ。

「──いりますか?」

 でもそう提案された手前、聞かないわけにはいかない。意識しないわけにはいかない。七海は渇いた喉で名前に問いかけた。
 それは想像よりもずっと簡素で、素っ気ない響きをしていた。言ってから、七海は後悔した。どうしてこんな言い方をしてしまうんだろう。本当はきっと、彼女に受け入れてもらいたいだろうに。どうしてうまくいかないのだろう。目の前の少女の唇が動くのが、いやにゆっくりと見えた。

「……うん」

 名前は七海が差し出したものを受け取った。受け取って、大事そうに抱き締めた。

「大事にするね。ありがとう、七海くん」

 彼女はいつも、控えめに笑う。花が綻ぶように、咲きそめのバラのように。微笑む彼女を見るのは、未だに慣れない。心底から嬉しいという時にしか見れない表情であると知ってしまったから、余計に。
 「いえ、」見ていられなくて、七海は目を逸らした。

「私が持っていてもどうしようもないので」

 それは見え透いた言い訳だった。
 どう表現しようと七海は彼女にプレゼントを贈り、彼女はそれを受け入れてくれた。要するにそういうことだ。結果として、彼女は自分の行いによって笑顔を見せてくれた。灰原が手を握ってくれた時のように、心からの喜びを表してくれた。──七海にとっては、それがすべてだった。