岸辺露伴と

 岸辺露伴は「僕はこれを取材の一環と定義している」と言った。

「僕は漫画家として君という人間に興味がある。康一くんのような平凡な非凡さ――これは主人公に求められる性質だ――はないが、脇役としては君のような人間もうまく使えば味になる。清貧、貞淑、服従……旧時代的なつまらなさが逆におもしろい。まぁ康一くんとは比べるべくもないが――あぁ、はやく康一くんに取材したい」

 まだ包帯は取れていないというのに饒舌なことだ。いっそ感心してしまう。その康一くんから借りた漫画を読みながら、名前は言った。「先生はホントに康一くんが好きなのね」と。

「スキだとかキライだとかそういう話じゃあない。君だってたとえば……何かあるだろう、心を掻き立てられるものが。これを表す適当な語彙が欠落しているから――なにぶん具合が悪いものでね――表現が稚拙極まりないものになっているが――そうしたものを前にして人は立ち止まれるか?答えは否!そうだろ?」

「つまり先生は康一くんのことがとっても好きってことでしょう?」

「違うッ!まったく!なんで君って人は話が通じないんだ!」

 敬語は2回目の訪問の時に使うのをやめた。露伴の漫画を読破したのはそれから3日後のことだ。(徹夜して漫画を読んだのはこれが初めてだ。そう伝えると、「僕の漫画なんだから当然だろう」と露伴は言った)今は康一から勧められたものを読んでいるが――しかし熱量が違う。いっそ暴力とでもいうべき力強さが露伴の漫画にはあった。
 「ところで、」岸辺露伴は咳払いをして、膝に置いた画集(これは名前が買ってきたものだが、名前の選択によるものではない。岸辺露伴直々の要望だ)を閉じた。だから名前も漫画から顔を上げる。露伴の顔中を覆っていた包帯はあらかた解かれ、裂傷が姿を見せていた。それらの傷口は最近酷く疼くようで。質の良い睡眠がとれていないのだと血色のいい顔で仗助への恨み言を募らせる日々。全治1ヶ月なんて露伴は言っていたが、思ったより回復は早そうだ。そんなことを思いながら、病院着の露伴を眺めた。その向こうには大きな窓があって、初夏の日差しが乱反射していた。

「今日も承太郎さんはご機嫌かい」

 だから。
 目が眩んだ。
 ――室内に籠もる紫煙。杜王グランドホテル。背を向けた男。324号室。幼馴染みのしかめ面が鮮やかに蘇る。

「……煙草の消費量が2割増しになる程度には」

「なるほど」

 岸辺露伴は目を細めた。にい、と片方の口角だけ持ち上げて。わらった。
 器用なことだーー名前は陰険な漫画家を睨みつけた。

「先生はいじわるね」

 そんな言葉もどこ吹く風。天上天下唯我独尊岸辺露伴。彼は一向に気にしない。「失礼なヤツだな」とか言うくせ顔は笑ってる。「そういえば……」しかも自分から話を振っておいてさっさと方向転換してしまう。

「君はカトリックだったか」

 岸辺露伴の思考回路はどうなっているのだろう。1の次に2も3も飛び越して10くらい先に繋がっているみたいだ。ゼッタイどこかおかしいに決まってる!1度全身隈無く検査した方がいい。なんらかの病名がつくはずだから。
 ……などと思ってることは置いておいて、名前は頷いた。

「えぇ、そう。敬虔な教徒ってわけじゃあないのだけれど。それでも一応カタリナって名前があるのよ」

 別にすすんで入信したわけじゃない。父も母も祖父も祖母もその前も……みんなそうだから名前も名をいただいた。こうあってほしい。そんな願いを託されて。
 「すると……」岸辺露伴の目が記憶を辿るように上向く。トントン。人差し指が本の表紙を弾く音。トントン、トントン。それに合わせて、名前も還る。28歳の名前。22歳の名前。そして、17歳の名前へと。
 ーーもうかえらない、素晴らしき日々へと。

「シエナの?それともアレクサンドリアの?」

 砂漠の夜。埃舞う町。笑う友。翠の海。そうしたものから引き戻したのもやはり岸辺露伴だった。
 シエナ。アレクサンドリア。一瞬、なんのことだか分からなかった。名前は目をしばたたかせた。そうすると海は溶けて透明な白に塗り替えられる。爽やかな陽。滲む新緑。「後者だけど」答える声はどこか遠い。

「……なるほど」

 得心がいった。そんな感じで、今度は愉しそうに笑う露伴。それを見ていると、ようやく意識が体に馴染んだ。ここにいるのは17歳の名前じゃない。体はどうであれ、心はもうずっと先を歩んでしまったのだから。
 「腑抜けた顔をするな、鬱陶しい」露伴は辛辣に言う。厭なものを見た。そんな風に歪んだ顔。

「失礼な人」

 さっき聞いたばかりの言葉を返しながら、しかし名前は安堵していた。岸辺露伴は失礼な男だ。でもそれが今の名前にはちょうどよかった。だって善良な人はこうやって突き放してはくれない。優しい人は名前に寄り添おうとしてしまう。寄り添ったら、あとは堕ちるだけなのに。停滞。沈殿。そんなものに誰かを巻き込むのはもう懲り懲りだ。

「頼みがある」

 岸辺露伴がそう言ったのは名前が席を立った時だ。珍しい。明日は槍どころの騒ぎじゃないわ。なんて思わないこともない。だって岸辺露伴はいつも前置きなしに言いつけてくるのだから。次は何それを用意しろだのなんだの、子どももびっくりのワガママぶりだ。
 けれどもそれを聞くのが名前の仕事のひとつであったりするので、「いいわ、もちろん」なんて安請け合いしてしまうのも仕方がない。言い訳するならそれまでの要求は決して難しいものでなかったのだ。だから今回も漫画家らしい頼みごとなのかしら、なんて名前は思っていた。いや、事実それに間違いはない。間違いはないのだけれど。

「イタリア行きのチケットを2枚、頼んだぜ」

 こう来るとは思わなかった。イタリア行き。チケット。ここまではいい。よくないのはそのあと。2枚、ーー2枚ですって?
 「もちろん君の分さ」いやいや。なんで私がイタリアに行かなくっちゃあならないっていうのよ。「そりゃあ僕の体を見りゃ分かるだろう」バカか、君は。岸辺露伴は名前を哀れむ。「旅行における面倒ごとの一切は君に任せる」彼は名前を使用人かなにかと勘違いしてやしないか?

「僕を誰だと思ってる?漫画家岸辺露伴だ。漫画家に必要なものはなんだ?取材だ」

 単純明快。確かにそうだ。岸辺露伴は漫画家だ。漫画家には資料が必要だ。資料を得るには取材しなきゃいけない。そして岸辺露伴は怪我をしている。その怪我の原因はーー

「……わかりました、わかりましたよ」

 名前は降参した。両手を挙げて無抵抗の意を示した。そうしてやっと岸辺露伴の赦しが得られた。まったく、人使いが荒いったら!
 しかしまぁこの男にある種の運命を感じたのは名前だから受け入れる他ない。名前が足を進めるために。幼馴染みを解放するために。変わると決めたのだから、こんなところで根を上げたりなどできない。これぐらい横暴で強引なくらいがいいのだから。
 とはいえ障害はある。まず1つは財団に休暇の要請をすること。これは説明さえすれば通るだろうからさしたる問題はない。
 問題なのは空条承太郎の許可を取ることだ。10年前からあまりに過保護になった幼馴染みのことだ。反対されるのが目に見える。そこで名前が折れずにいられるか。幼馴染みの優しさを振り切れるか。
 問題はそこにあった。