夏油先輩を元気づけたい


 こういう時に必要なのは食べることだと誰かが言った。食べ物を口に入れて、咀嚼して、飲み下す。機械的でもいい。生きていくためにはものを食べるという行為が何より重要なことなのだ、と。
 それが正しいことなのか名前は知らない。知らないけれど、実際に名前は生きている。食べ物を口に入れて、咀嚼して、飲み下す。その繰り返しの果てに、今も息をしている。だからきっと間違ってはいないのだと名前は思った。

「傑のやつがさぁ、ソーメンの食い過ぎでゲッソリしちゃってんの。ウケるよね」

 夏のある日、五条悟はそう言っていた。「夏バテだってさ」その話のどこに笑いどころがあるのか名前にはわからなかったが、「そうなんですね」と頷いておいた。夏油傑は名前の一年先輩だ。とても優秀なひとで、その時の名前に彼を心配する気持ちはなかった。
 この台詞を思い出したのはおよそ一月(ひとつき)経った後のことだった。暦の上では夏の盛りを過ぎていたが、厳しい残暑が続いていた。

 ──そんな晩夏の頃、名前の同級生がひとり、亡くなった。

 三日ほど経ってから、名前は夏油傑のことを考えた。不意に五条の言っていた言葉がよみがえった。夏油先輩は大丈夫だろうか、と思った。自分よりもずっと優秀なひとのことを、はじめて心配した。
 彼は生きているだろうか、と自室のベッドで名前は考えた。食べ物を口に入れて、咀嚼して、飲み下す。その行為を行えているだろうか。じりじりと気温の上がっていく部屋の中で、考える。
 今朝見た夢には、在りし日の灰原が現れた。彼が夏油のことを慕っていたのを、今更ながらに思い出した。どうして忘れていたのだろう?思い出してしまった今、頭にこびりついて離れなかった。
 名前は起き上がり、着替えた。今日は休日だった。姿見の前で名前は自分の顔をまじまじと見た。顔色が悪いのは今に始まったことじゃない。目の下にうっすらと浮かぶ隈のことは気にしないことにした。たぶん、先輩だってそうするはずだ。いま一番気がかりなのは、彼が暇をしているかどうかである。

「悟なら任務で出ているよ。恐らく今日の午後には帰ってくるだろうが」

 部屋を訪ねると、開口一番にそう言われた。何故だろう。名前は静かに首を振る。

「いえ、今日は夏油先輩に用があって。お時間、ありますか?」

「私にかい?まぁ暇は暇だけど……珍しいね」

 夏油傑は一見なんの変わりもないように見受けられた。思慮深い眼差し、仲間に見せる柔和な笑み。以前も今も、変わらないもの。
 だけど少し疲れた顔をしているな、と名前は思った。擦れた空気、とでも言うべきか。かさついた声がその印象に拍車をかけた。
 名前は少し悩んでから、「灰原くんが、」と口火を切った。途端、ぴくりと動く夏油の眉。それを無視して、名前は一枚のチラシを彼の前に広げた。

「彼が以前に一緒に行こうって誘ってくれたところに付き合ってもらいたいんです」

「……私に?」

「はい、夏油先輩に」

 滲むのは困惑。彼は微かに眉を下げ、「そういうのは悟の方が喜ぶんじゃないか」と言う。現代最強の呪術師は極度の甘党だ。だから彼の指摘は正しい。正しいけれど、それでは意味がないのだ。
 名前は「私はあなたがいいんです」と告げた。「夏油先輩でなきゃダメなんです」見開かれた双眸には、必死さすら窺える子どもの顔が映っていた。

「灰原くんが慕っていたのは、あなただから」

 それがだめ押しだった。彼の名前を出されては断れない。名前の予想通り、夏油は「……わかった」と降参の意を示した。少し困った風な笑みが印象的だった。





 なんとかというホテルのラウンジでそのスイーツビュッフェは開催されていた。どこもかしこも見渡す限りきらびやかで眩しい。それは日差しのためでも、華やかな装いの女性客のためでも、賑やかな空気のためでもあった。
 名前としては何度来てもこういう場は慣れない。根がそういう風にできているのだ。けれど夏油は物怖じせずテーブルについた。そういうところは灰原に似ている。彼も躊躇う名前の手を引いてくれた、……いつだって。

「夏油先輩はよく来るんですか、こういうところ」

「いや、悟や硝子の付き添いでくらいかな。君もそうなんじゃないか?」

「ええ、いつも灰原くんには助けられていました。そうでもしてもらわなければ気後れしてしまって、どうにも」

 彼の死については触れなかった。夏油も「そうか」とだけ答えて、僅かに目を伏せた。
 彼は悲しいともつらいとも苦しいとも言わなかった。そういう感情などとうに捨てたという顔で、コーヒーカップを傾けた。彼の取り皿はきれいなままだった。横たわる空白が、そのまま彼の心を表しているようだった。
 名前はゼリーの乗った小皿を夏油の前に置いた。ラムネの澄んだ色が美しいゼリーだった。「夏油先輩も、少しは食べてください」名前が言うと、彼はまた困った様子で微笑んだ。

「すまない、食欲が湧かないんだ」

 嘘を言っているようには見えなかった。「夏バテなんだよ」だが何てことない、と彼は続けた。「この夏さえ過ぎ去れば」そうすればすべてが元通りになるのだと、どこか遠くに目を馳せて言った。彼は嘘をつくような人ではなかった。
 でも名前には信じられなかった。何もかもが元通りなんてあり得ないことだった。だって灰原は死んでしまった。この年の眩しいばかりの夏は永遠に喪われた。この先何年経ったとしても暗い影が落ちていることだろう。

「……それでも、食べなくちゃいけないと思います」

 でも何より重要なのは、遺された者がこれからの未来を生きられるかどうかだ。
 食べ物を口に入れて、咀嚼して、飲み下す。機械的でもいい。肝心なのは最初の一歩だと名前は思う。生きようという意思が重要なのだ。どの道、我々はどうにかして生きていかなければならないのだから。

「こういうのが苦手なら、別のところでもいいです。どこへでも私が連れていきます。だから何か食べてください。食べなくちゃ、人間は生きていけないんですから」

 偉そうなことを言っている自覚はあった。この主張がまるで見当違いかもしれないという疑念も。彼を怒らせるかもしれないという不安も名前は感じていた。
 そしてそうしたものの一切を抑えて、名前は夏油を真っ直ぐに見つめた。目の前に座る、自分よりずっと賢く、強いはずのひとのことを。

「……後輩に諭されるとはね」

 彼は静かな口調で言った。冗談めかした台詞。でも名前を否定するのでも拒絶するのでもない、それ。彼はこの店に来て初めてスプーンを手に取った。

「君だって酷い顔をしている。鏡は見たかい?」

「夏油先輩もなかなか失礼なことを言いますよね。でも顔色の問題で言うならあなたには言われたくないです」

「まぁ、たしかにな」

 夏油はちいさく笑った。
 ゼリーはほんの三口ほどでなくなった。それから彼は名前の前にあった小皿をひとつ持ち去った。なんの断りもなく、当然といった顔で。苺の白玉あんみつを名前から奪った上、彼は「甘いな」とだけ感想を溢した。
 名前は文句を言おうとして、やめた。少しだけ、彼が泣きそうに見えた。この瞬間、名前の目に映る彼は、17歳の子どもだった。

「悟の指導が厳しすぎるんじゃないか?悟はまぁ、楽しそうだけど」

「大丈夫ですよ、厳しくしてほしいと言ったのは私なので」

「そうか、なら私が口出しすることじゃないな」

「……だから時々、慰めてくれるとありがたいです」

 名前の言葉に、彼は驚いたように目を数度瞬かせた。そのあとでくしゃりと笑って、「悟に妬かれるのはごめんだよ」と言った。

「でもまぁ、時々なら」

 悪くないかもしれない、と続けた彼はもう遠くを見てはいなかった。相変わらず疲れた顔をしていたけれど、その目にはしっかり名前が映っていた。──手のかかる、後輩の姿が。