夏油先輩と夏の終わり


 朝、窓の外で死んでいるセミを見つけた。
 それはこの夏飽き飽きするほど鳴いていたセミであったかもしれないし、そうでないかもしれない。どちらにせよ、深い感慨はなかった。そしてそれは見知らぬ一般人の死を目撃した時と同じなのだろうと夏油傑は思った。
 無力なばかりか、他者の迷惑となるセミ。──非術師と、何が違う?

「……駄目だな」

 夏油は頭(かぶり)を振り、備え付けの冷蔵庫を開けた。大容量のペットボトルは底をつきかけている。日差しは時間が経つごとに鋭さを増していく。今日も暑くなりそうだ。溜め息がひとりでに零れ出た。
 ついでにアイスでも買おうか。そう思ったけれど、外に出るとその気は失せた。コンビニまで足を伸ばす気力はない。広い高専の敷地内、自動販売機まで歩いていくのがやっとだ。いっそ、呪霊の足を借りたいところですらある。
 水を二本買って、部屋に戻る。その道すがら、グラウンドに目をやるとふたつの人影が見えた。
 踊る白銀と黒色。前者はこの校内で唯一の色であったから、誰でもすぐにわかる。けれど後者に限っていえば候補者は幾人かいた。この国で黒髪は珍しい色じゃない。なのに夏油が一番に思い浮かべたのは後輩の少女であり、近づいてみればそれは確信に変わった。
 ──名字名前。呪詛返しを生業とし、様々な家と血を繋ぐことで生き長らえてきた一族の娘。そして近頃でいうなら、五条悟の楽しみのひとつ。そんな彼女が今、五条の手によって地面に叩きつけられていた。

「お〜い、もう終わり?よわっちーね、オマエ」

「……いえ、まだやれます」

 ふらりと立ち上がった少女は、肩で息をしながら顔を拭う。
 滴る鮮血。それは彼女の口端からであり、鼻からでもあった。よくよく見れば、擦り傷切り傷打撲痕、負傷の跡で体はボロボロだ。幾ら反転術式の使い手がいるとはいえ、さすがにやりすぎじゃなかろうか。
 「そうこなくっちゃね」と指を鳴らす五条を見て、夏油は歩を進める。彼に、ではなく、名前に向かって。

「……少し、休憩したらどうだ?」

「夏油先輩、」

「おい傑、今いいとこなんだから邪魔すんなよ」

 苦情の声は無視して、名前の口許の血を指で拭う。
 生々しい、鉄錆の臭い。夏油は彼女の肩を抱き、もう片方の手で鼻の付け根を押さえてやった。家入を呼ぶ時間はない。となれば鼻からの出血を止めるのが最優先だ。
 夏油としてはごく自然な行動。考えた末の最善であったのに、五条は「甘やかしすぎ!」と口を尖らす。

「コイツが俺を指名したんだから、傑は手ぇ出すなって!」

「だとしても、だよ。客観的に見てこれはいただけないな。せめて止血はしてあげなきゃ」

「騒ぐほどの出血量じゃないだろ。舐めとけば治るって」

 ドカドカとやって来た五条は鼻で笑うと、名前の顔を持ち上げた。「おい、」と制止の声を向けるも間に合わない。夏油の目の前で、彼は名前の血を──口端に伝う赤色を──拭い去った。宣言通り、その舌でもって。舐め取った上に、「マズッ」と顔を顰める五条を、夏油は信じられないものを見る目で凝視した。

「何やってるんだ、悟……」

「んー……、舐めたけど止まんなかったね」

 ……よくもまぁ、いけしゃあしゃあと。
 呆れるやら驚くやらで二の句を継げずにいると、されるがままだった名前がのんびりと口を開く。

「五条先輩にもできないことってあるんですね」

「あぁ?オマエほんっと生意気だな。もっぺんブッ飛ばされたいの?」

「いえ、喧嘩を売っているわけではなく……先輩も人間なんだなぁ、と。あなたなら舐めただけでも傷を治せるんじゃないかと、一瞬本気で思ったので」

「……それ褒めてんの?それとも俺、貶されてる?」

「……?先輩のことは尊敬してますよ」

「……あっそ」

 ──なんてことだろう。今度こそ本当に目を疑った。あの五条悟が、傍若無人を絵に描いたような男が、こんな可愛らしい反応をするなんて!
 射るような陽が降り注ぐ。炎天下に晒されたグラウンド。そして眼前には目許を朱に染め、そっぽを向く男がひとり。その熱が煌々とした日差しのためだけではないことを、この場においては夏油傑だけが理解していた。

 ──あぁ、目眩がする。

 知らなくていいことがこの世の中にはある。それは非術師の本当の価値であったり、術師の扱いの不遇さであったりした。──そう、今までは。それが夏油の心に巣食う唯一の澱(おり)だったのに、今この瞬間も、どうしてか心臓は戦慄いた。

「……少し、彼女を借りてもいいかな」

 友人が触れた箇所を袖口で拭ってやりながら、後輩の肩を抱き寄せる。
 薄い肩、小さな体躯。それはきっと多くの女性に共通するものであろう。けれど今はそんな当たり前のことをいやに意識させられた。

「んだよ、連れションか?」

 ニヤニヤと下品なジョークを飛ばす男は、彼女が女性であると理解しているのだろうか。
 改めて、名前の体を見下ろす。至るところに怪我を負った彼女を。今の夏油傑にとって、ひとつ下の後輩は、紛れもなくひとりの女性だった。

「……そうじゃない。ただ明日の任務に名字も連れていこうかと思ってね」

「そんなの傑ひとりで十分だろ。第一いまのコイツ、呪力すっからかんにしてあるから役に立たねーけど?」

「一晩休ませれば回復するさ。それに特級との任務は彼女にとってもいい勉強になる」

「そんなん何時でもよくね?なぁ、名前?」

「それは悟の決めることじゃないよ。名前、キミはどうしたい?」

 名前を呼んだのは無意識のうち。子どもじみているな、と傍観者の自分は苦笑する。この感情が対抗心、或いは独占欲と称されるものであるという自覚はあった。
 名前は迷っているらしかった。優しさの欠片もない男と、天秤にかけられている。それは思いの外夏油を苛立たせた。
 けれど最終的には「では夏油先輩、よろしくお願いします」と頭を下げてきたから、溜飲が下がった。五条悟の口汚い罵声も抗議も不平不満も気にならない。

「悟、」

「あ?」

「負け犬の遠吠えは見苦しいぞ」

 遠くに担任教師の姿を認めて、夏油は口端を持ち上げる。キレた最強の呪術師の相手は、教師に任せるのが一番だ。





 任務だ、と引きずられていく五条を見送ってから、寮の自室に戻った。名前も一緒だ。手当てが必要だろう、と言いくるめるのは簡単だった。家入は多忙だからと言えば、名前は何の疑念も抱かない。

「悟の相手は疲れるな」

 買ったばかりのペットボトルを開ける。一口、二口。飲んでから、未開封のもう一本と見比べ、しかし半分ほど残っている方を名前に差し出した。中途半端に残すよりはいいだろう。……そんなもの、言い訳にすぎないことは夏油自身がよくわかっていた。
 これは呪いだ。恐らくは、きっと。

「水、飲んだ方がいいよ」

「ありがとうございます、いただきます」

 素直な後輩は夏油の呪いに口をつける。
 かわいそうに。かわいそうな、名前。遠くでセミの鳴き声がした。まったくもって煩わしい。だからこんな柄にもないことを考えてしまうんだ。夏油は痛む頭で考える。水を嚥下する白い喉の動きが、やたらと目についた。

「今日はここで休んでいくといい。夕飯には起こすよ」

「はい。しっかり回復に努めます。夏油先輩の足は引っ張りませんから」

「そういうことは気にしないで。少しくらい手がかかる方が可愛いものだよ」

 よくもまぁ、いけしゃあしゃあと。
 友人に抱いた感想とまったく同じものを、今度は自分自身に向ける。その点でいえば似た者同士といえるかもしれない。だからこそ、名前のことは哀れに思う。
 「……夏油先輩は優しいですね」「そんなことないさ」……そんなことないんだよ。無知で愚かな名前。でもその愚かしさをいとおしくも思う。

「先輩の部屋、とてもきれいです。本棚まできちんと整理整頓されてて」

「ああ、片付いていないと落ち着かなくてね」

「なるほど。……あぁでも、ベランダでセミが亡くなっていますよ」

 名前は窓辺に立ち、死骸を指差す。風に晒され、羽をもがれた亡骸。けれど哀れだとは思わない。
 「放っておけばいいさ」だってそうだろう?これは人間じゃない。術師では、ないのだから。そんなものの死に、喜びも悲しみも感じるわけがない。
 無感動に突き放すと、名前は小首を傾げた。

「……夏油先輩は、セミが苦手なのですか?」

 どうしてそうなるのか。ズレた問いは、しかし案外核心をついている。彼女に、そんな気はないのだろうが。

「……そうかもしれないね」

 夏油は静かに肯定する。穢らわしい、醜悪ないきもの。視界にすら入れたくない。すべて、死に絶えてしまえばいい。そんな感情をひた隠しにして、優しい先輩の顔を取り繕う。
 すると名前は「可愛らしいところもあるんですね」と無邪気に笑った。

「では私が代わりに片付けてさしあげます。せっかくきれいにしていらっしゃるんですから、勿体ないですよ」

 「ちゃんと埋葬してあげますからね」と醜い死骸に語りかける彼女の方こそ、自分よりよほど優しいのだろう。夏油は思う。
 真昼の白々とした光が、少女の輪郭を柔らかく縁取っていた。それは一枚の絵画であり、窓枠は額縁の役割を果たしていた。夏油はそれをどこか遠くから眺めていた。泣きたいほど美しい光景だった。

「大丈夫ですよ、夏油先輩が苦手なことは私が代わりにやりますから。遠慮なく言ってください」

「ああ、」

 ありがとう、と応じた声が思いがけず震えて、名前には心配されてしまった。
 「そんなに苦手だったんですね」何も知らない彼女は、ぎこちない手で背中を撫でてくる。けれど夏油は否定も肯定もしなかった。黙したまま、慰めに身を委ねた。それほどに少女の温もりは心地のいいものだった。