七海くんと将来の話


 ──心地のいい、夢を見ていた気がする。

 目を開けると、どうしてか視界が揺れていた。それも一息ごとに、ふわふわと。身体が宙を漂う感覚。足許すら覚束ない、今。なのに不安だとは少しも思わない。むしろその逆で、

「……目、覚めましたか?」

「……七海くん?」

 名前は、目を瞬かせた。
 だがそうしても見える景色は変わらない。揺れる地平も、眼前に広がる黒色も。
 ──いや、違う。
 これは、制服だ。見慣れた高専の制服、その背中。自分を背負う人と、声をかけた人。どちらも同じ人物であると名前が気づくのには、幾らかの時間を要した。
 そして気づいた後で、名前は大いに狼狽えた。

「まだ動かない方がいい。覚えてますか?あなた、グラウンドで倒れたんですよ」

 完全に預けきっていた身を慌てて起こそうとする。と、察した彼に制止の声をかけられてしまった。落ち着き払った、平坦な声に。導かれ、名前はゆっくりと記憶を辿った。
 いやに重い体は呪力を使いきったせいだ。そしてそれは五条悟との修行の中で起きたこと。術式を制御するために、まずは呪力のない状態に慣れさせる。彼はそう言っていた。そしてその体のまま彼から体術を教わっていて──そこから先の記憶が、名前にはなかった。

「……そういえば、そうだった、かも」

「かも、じゃなくて事実です」

「……ごめん」

「いえ。……ただ、無茶はしないでください」

「うん、……ありがとう」

 また『ごめん』と言いかけて、少し考えてから言い直した。七海は何も答えない。でも背負う腕に力がこもった。ちゃんと聞いてくれている、それが今は何より嬉しかった。
 名前は改めて辺りを見回した。寮へと続く並木道。かつては華やかだった桜の木も、今は枯れ葉を散らすばかり。隙間風に吹かれ、寂しい様相となった枝はまるで泣いているみたいだった。
 これが七海くんの見ている世界なんだ、と名前はぼんやりと思った。常よりも高い視界。晴れ渡る空に近づいたはずなのに、けれど絶対に届かない。それが余計に寂しさを募らせて、胸が痛いような気持ちにさせられる。そしてそれは名前が彼に対して抱いているのと同じ感覚だった。
 道は分かたれたと思っていた。夏の終わり、彼が呪術師以外の未来を考えているのだと悟ったとき。彼は違う世界のひとで、どう足掻いたってこの隔たりは埋められないのだと納得した。……その、つもりだった。

「……七海くんは、優しいね」

 「でも、もういいんだよ。私のことなんか、放っておいてくれても」優しくされると、離れがたくなる。寂しいなんて思いたくないのに、言ってはいけない言葉まで言ってしまいそうになる。
 特別、悲しむことじゃない。名前には名前の、彼には彼の人生がある。呪術師になろうがなるまいが、どちらがより優れているなんてことはないはずだ。むしろ普通の人生を送る方がよほど幸せなのかもしれない──それくらい、名前にだって察しがついている。

「……優しくなんか、ありませんよ」

「……それじゃあ七海くんはとびきり意地悪なひとだってことになるね」

 なのに、あぁ……、どうしてこの口は、こんな酷い言葉を紡ぐのだろう。
 大きなものが押し寄せてくる予感があって、名前は唇を噛んだ。力を込めてさえいれば抑え込めると思った。それに呑まれてしまうのはとても恐ろしいことだった。
 「酷いよ、七海くん」けれど一度決壊した川に歯止めは利かない。「どうせ遠くに行っちゃうのに。灰原くんも、キミも。私を置いていっちゃうくせに、」
 零れ出る言葉は洪水のよう。ひたすらに七海を、そしてここにはいない灰原を責め立てる。ずっとずっと、夏の終わりから抑え続けていたものが、一気に溢れ出した。

「ごめんね、ごめんなさい……、でも私、このままじゃキミの幸せを祈ってあげられない。だから、お願いだから、」

 突き放してほしい。希望など一ミリも抱かなくて済むように。そう願うくせ、名前の手は彼の首に回ったまま。息すら奪いかねないほど必死に、名前は彼の背で啜り泣いた。
 こんな風に泣いてしまうのは初めてのことだった。だからどうしたら止められるのかもわからなかった。泣きたくなんかなかったのに、彼の背中を汚してしまうと頭の片隅では案じているのに、なのに体だけはままならない。

「……すみません」

 けれど七海は名前の願いを叶えてはくれなかった。別れも、永遠も。どちらも約束してはくれなかった。名前に与えられたのは、彼の静謐な声だけだった。

「私はきっと、あなたの言う通り酷い人間なんでしょうね。卑怯で、残酷で、だからあなたの言葉に嬉しいなどと思ってしまう。あなたにそんな気はないと、知っているのに」

 彼は笑っているようだった。でも言葉通りのものじゃない。喜びからではなく、何かもっと別の──冷ややかな空気を名前は感じていた。けれどそれ以上のことはわからない。こんなにも知りたいと思っているのに、離れたくないと思っているのに、背中からではその表情すら窺い見ることができなかった。
 だから代わりにその肩に顔を埋めた。今日この瞬間のことを忘れたくなかった。永遠が叶わないなら、せめて思い出だけは鮮明に残しておきたかった。彼の背が想像よりもずっと広くて、頼りがいがあることを。その心地よさを、同じ目線で見た景色を、寂しさも胸の痛みも、すべて覚えておきたかった。

「……呪術師じゃなくてもいいよ」

 そしてそんな風に思うのは、彼が《七海建人》であるからだ。呪術師だとかたった一人の同級生であるからだとか、そんなものは本当はどうだってよかった。この温もりを失いたくないのだと認めてから、ようやく理解した。

「呪術師じゃなくてもいい。違う世界の、遠い存在でもいいから。忘れないで、私のこと。私も絶対、忘れないから」

 これは呪いだ。今この瞬間に彼を縛りつける、呪いの言葉。呪言師ではないけれど、でもこの言葉には強い力がある。わかっていて、それでも名前は諦めきれなかった。

「……卒業にはまだ早いですよ」

「うん、でも今伝えたいと思ったから。早いっていうなら何度だって言うよ。卒業まで、しつこいくらい。嫌になってもやめてあげないから」

「……嫌になることなんてないですよ、絶対に」

 それでもいずれ終わりは来る。並木道を抜け、寮の玄関をくぐり、階段を上がればその先は終点。七海は名前の部屋の前で立ち止まり、肩越しに名前を見た。
 「着きましたよ」「うん」「……休まなくていいんですか」「うん」……これは、我が儘だ。だってこんなに触れ合えるのは、術式が発動しないほど呪力が枯渇した今しかない。
 だから離れがたくて、名残惜しくて、名前は彼の首筋に頬を寄せた。気分はさながら母親に甘える子どもだ。尤も、そんな記憶など名前にはないから想像でしかないのだけれど。
 でも、家族になるなら七海くんみたいな人がいい。何とはなしに浮かんだその想像が、考えれば考えるほどしっくりきた。彼が家族だったら、どんなに安心できたろう。それなら彼が呪術師でなくなっても、不安に駆られることはなかったのに。

「……仕方ないですね」

 そんな名前に。七海は溜め息をついてから、一言。

「どこにも行きませんから。あなたが眠るまでは、どこにも」

 いつもよりも柔らかな語調で彼は言って、そっと名前を下ろした。そうした後も、彼は立ち去らない。どこにもいなくならない。名前の前に立って、少し困ったような顔で、微笑んでいた。

「眠っている間は?起きた後は一緒にいてくれないの?」

「そんなに付きっきりだと飽きますよ、あなたが」

「飽きないよ、七海くんが約束してくれるなら」

 だからつい、甘えてしまう。今まで言ったことのないような、自分勝手な望みを求めてしまう。
 実際、飽きるはずもないと名前には断言できた。だって、家族が家族であることに飽きるなどとは聞いた試しがない。家族とは離れていても共にあるものだ。名前の知るどんな物語の中だってそうだった。だから絶対の自信があった。
 でも彼の方はちっとも信じちゃくれない。「本当ですかね」と眉尻を下げる。……家族だったら信じてもらえたのだろうか。そう考えると、途端に彼の家族が羨ましく思えた。

「いいよ、証明してあげる。きっと先に音を上げるのは七海くんの方だから」

 名前は彼の手を握って、笑った。体はくたくただったけれど、こういう勝負なら大歓迎だ。だってこんなにも心が浮き立っている。秋の始め頃には隙間風が痛いくらいだったのに、今は春かと見紛うばかり。窓から見える落ち葉の散りゆくさまも、桜吹雪ほどに鮮やかで、美しかった。──彼が隣にいてくれたから、なおのこと。