七海くんと手を繋ぎたい


 『キミは優しいね』というのが名前の口癖だった。そしてそれを否定するのが七海の習慣だった。しかしそれは謙遜からなどではない。否定しなくては居たたまれない、ただそれだけの理由だった。
 七海は自身のそれが優しさなどではなく、諦めの悪さであると認識していた。彼女の気持ちが自分にないと分かっていて、どっちつかずの現状維持を望んだ。彼女から離れることも、打ち明けることもできなかった。とんだ小心者だ、と己を嗤うこと1年と半年。転機は残暑の厳しい9月に起こった。

 ──同級生の灰原雄が亡くなった。

 彼女の顔つきが変わったのはそれからだ。出会った当初は桜の花の似合う、頼りなげな少女だった。なのに彼が亡くなってから、強い意志のようなものが瞳に輝くようになった。彼女は呪術師として生きる覚悟を決めたのだ。現代最強の呪術師に弟子入りしたと聞いて、七海は彼女の心中を察した。
 彼女を変えたのは灰原雄であり、五条悟であった。……自分では、なかった。
 彼女を遠く感じるようになったのはその頃だった。呪術師の在り方に疑問を抱く自分と、対照的に前だけを見つめる彼女が眩しかった。眩しくて、眩しすぎたから──目を逸らした。
 初めから、違う世界の人間だったのだ。七海は一般家庭の出身であったが、名前は長く続く呪術師の家系の生まれだった。始まりから遠く隔たっていた。──だから、仕方のないことなんだ。夏の終わり、平凡な日常を否定した彼女に、ようやく諦めがついた。

 ──それなのに。

「『呪術師じゃなくてもいい』、か……」

 健やかな寝息を立てる彼女を見下ろし、溜め息をつく。……人の気も知らないで。そう悪態をつきたくなるが、寸前で首を振る。自分だって、彼女の本当の気持ちなどわかってやしなかった。勝手に察して、理解したつもりになって、手を離した。

 ──でも名前はその手を取ってくれた。呪術師じゃなくてもいい。それでもいいから、側にいてほしい、と。

 初めて彼女が泣くところを見た。泣いて、縋って、懇願した。他でもない、自分に。初めて、たったひとりとして望んでくれた。

「……灰原の代わり、なんですかね」

 否定はできない。少なくとも、彼の死が契機であることは確かだ。彼が亡くなり、先輩のひとりが呪詛師となり、……七海までもがこの世界から脱しようとした。情緒不安定に陥ったとて不思議じゃない。

「……だとしても、」

 七海は握られた手を見下ろす。眠っているはずなのに、名前の手からはほどける気配が感じられない。
 そんなことにさえ七海は喜びを感じた。他人から見たら些細なことかもしれないが、七海にとってはとても大きなことだった。何せ、初めて出会った時は握り返せなかった。その手が今、自分と繋がっている。──今度は、間違えずに済んだのだ。実感に、唇を引き結ぶ。
 望まれたから応えるのではない。許されたから、この手を離さないでいたい。例えこの先、道が分かたれたとしても。それでもいいと名前が許してくれたのだから、まだ当分、諦められそうになかった。





 校門に立っていると、やがて前方から騒がしい声が聞こえてくる。五条と、彼に応える名前の声。近づく気配に、七海の口許はひとりでに緩む。

「おかえりなさい、名前さん」

 そう言って迎えると、名前は僅かに目を見開いたあとに破顔した。

「ただいま、七海くん」

 一日ぶりに会う笑顔に、七海も微笑む。特級呪術師が同行していることを考えれば大した任務じゃない。そう頭では理解しているものの、無事な姿にホッとした。
 本音を言えば彼女には傷ひとつ負ってほしくない。しかし呪術師を続けていく以上、それが叶わぬ願いであるということも承知している。彼女が任務に出るたびに、不安に苛まれる心臓。でもその痛みごと受け入れると決めた。彼女に泣かれるよりはずっといい。七海は心底からそう思う。
 だから彼女の後ろで「ウゲェ」と嘔吐く真似をする先輩のことは目に入らなかった。

「わざわざお出迎えかよ。寂しんぼか?」

「おつかれさまです。お怪我はありませんか?一応家入先輩に見てもらった方が……」

「大丈夫だよ、どこも痛いところはないから。でもありがとう、心配してくれて」

「オイコラ無視すんなっ!」

 構ってちゃんの五条悟が名前にヘッドロックをかけるのを見て、七海は眉を寄せる。

「五条先輩、彼女は女性ですよ。離してあげてください」

 遠慮のない物言い、態度。そうしたものにかつては焦燥感と諦念を抱いたものだ。──けれど、今はちがう。
 七海はあくまで冷静に抗議を試みた。が、相手は落ち着きとは縁遠い男である。「あぁ?」と語気も荒く噛みつく様は、とても名家の跡取りとは思えない。しかし七海にとっては見慣れた反応である。特別、怯むこともなかった。

「じゃあ七海が代わりになってくれるって?」

「いいですよ、名前さんから離れてくれるなら」

 七海があっさり頷くと、さすがの彼もたじろいで見せる。

「……甘やかしすぎじゃね?」

「これが普通です」

 普通、なのだろう。たぶん、恐らくは、きっと。
 自信を持てないのは、七海にも経験がないからだ。誰かをこんなにも手放しがたく思うのは。大切にしたいと思うのだって、それが許されたことだって、すべてがはじめての経験だった。
 七海は名前を見た。名前も七海を見ていた。視線が交わると、彼女は不思議そうに小首を傾げた。でも笑みを向ければ同じだけの微笑みが返された。それこそが答えだった。……それさえあれば、よかったのだ。

「オエ〜ッ」

 拘束していた手をほどいて、五条は口許を押さえる。気持ち悪いだのなんだのとぶつくさ言っているが、これもスルーすることにした。そのうち彼も諦めてくれるだろう。その推測通り、五条は「つまんね〜」とぼやきながらひとりスタスタ歩いていく。

「五条先輩はいつも元気だね」

「いや、あれは元気というより横暴といった方が……」

 落ち葉の舞い散るなか、取り残されたのはふたり。晩秋の乾いた風に吹かれながら、ゆっくりと歩を進める。枯れ枝が鳴る音さえ心地いい。
 七海も名前も、口数の多い質ではない。言葉を交わすよりも沈黙を共有する時間の方が長いくらいだ。
 けれど名前はどこか楽しそうだった。楽しげに頬を緩め、「ふふっ」とちいさく笑みこぼす。その様子はあまりにも無邪気で、見ている七海までつられてしまいそうなくらい。

「どうかしましたか?」

 僅かに身を屈めて目線を合わせる。そうすると名前の透き通った瞳がきらきら光った。
 それが青みがかった黒色であることさえ、七海は初めて知った。きっと他にも、知っているつもりになっていたことはまだ沢山あるのだろう。そのひとつひとつを取り零したくないと思った。

「ううん、なんだかすごく、嬉しくなっただけ。七海くんはいつだって優しかったけど、最近は特に優しくしてくれるから……嬉しくなっちゃったの」

 そんな風に、彼女が思っていることだって。
 名前は気恥ずかしいというように頬を押さえた。でも小さな指先ではすべてを覆い隠すことまではできない。結果、指の間から朱色の肌が覗いて──七海は「そうですか」と平静を取り繕う羽目になった。

「では徐々に慣れていってください。これが普通なんですから」

「そう、なんだ……。これが、ふつう……」

 どこか夢見るような目で呟いてから。名前は「あの、」と眼差しを真剣なものに変えて、七海を見上げる。
 胸の前で組まれた手。引き結ばれた唇。──いったい何を言い出すのか。

「……手を、」

「手?」

「……繋がせていただいても、よろしいでしょうか」

 緊張した面持ちで、彼女はそう言った。
 ──どうして今さら敬語に?いや、そもそも理由が見えない。理由のないことをするような人ではないはずだ、彼女は。
 そんなことをぐるぐると考える七海は、十分、混乱していた。

「どうして、」

「どうして……そうしたくなった、から?」

 理由は名前自身にもよくわかっていないらしい。ことり、傾ぐ首。頼りなげな目は揺れていた。不安に、恐れに。
 その手を、七海は躊躇いなく握った。

「え、え……?」

「……そうしたいと言ったのはあなたでしょう?」

「そう、だけど……でも、七海くんに痛みが返ってこない保証はなかったのに」

「この程度で生じる《反射》なら痛みだって大したことないでしょう」

 七海はなんでもない顔をして、言う。
 たとえ痛みが生じたとしても構わない、そう思った。それよりも今この瞬間を求めた。永遠を望みながら、刹那さえも失いたくなかった。
 ひどく、欲深い心。『彼女が幸せであれば』と最初は思い、次は『そばにいられるだけでいい』と思った。そして今、それより先を願うことは罪だろうか?七海は彼女の手のひらの温かさを想った。

「七海くんは、優しいね」

 しみじみと言う名前に、「そんなことないですよ」と返す。けれどそれは居たたまれなさが理由ではない。

「繋ぎたいと思ったのは、私も同じですから」

 そう答えるためであった。