五条さんと裸エプロンの話T
朝目覚めると、枕元にはラッピングされた袋が置かれていた。訝しみつつも開封すると、そこからは折り畳まれたフリルたっぷりの布が姿を現した。
「なんですか、これ」
「何ってエプロンだよ。え?もしかしてエプロンも知らなかったりする?」
「……どうして五条さんがうちにいるんですか」
やたらと少女趣味なエプロン。それを広げ、呆然とする名前の横。当然といった顔でベッドに入り込んだ男は、「いちゃ悪い?」などと宣う。
が、しかし、家主の許可なしに侵入することが、悪以外の何ものであるというのか。つくづく倫理観がおかしい。名前は額を押さえる。なんだか目眩がしてきた。
「少しは喜べよ。せっかくのクリスマスプレセントだってのにさぁ」
「はぁ……それは……どうも…………」
尊大な態度、傍若無人な台詞。しかし慣れきってしまっている名前は、今さらそんなことには突っ込まない。プレゼントなんて頼んでないのに、と内心でぼやくだけ。
そんな名前に対し、「よし、じゃあ早速着てもらおうかな」と、五条はにんまりと笑った。
「……私が、これを………?」
「他に誰がいんの?」
「……五条さんとか」
「なんでだよ。いやまぁ確かに?俺は完璧だからね、似合わないものなんてないんだけどね。でもそれはちょっと違うでしょ?」
「ですが……、他のエプロンではダメなんですか?」
名前は改めて手元のエプロンを見つめた。
形は一般的なバッククロスタイプのもの。問題は、肩紐や前だれ部に過剰なほど取りつけられたフリルである。むしろエプロンというよりフリルの方がメインではなかろうか。これが料理をする上で必要なものだとはとても思えない。
名前にとっては無駄な装飾だったが、彼の方は頑なだった。
「ダメ。これじゃなきゃ意味がないの」
「……そんなにお好きとは初めて知りました」
「いや、別に好きじゃねーけど?」
「…………」
「ただこないだ見たAVが結構よくてさ、試してみたくなっちゃった♡」
きゃっ、と女児のようなポーズを取るが、言っている内容はまったく可愛くない。俗人的で、品のない台詞、単語。耳慣れないそれに、一瞬、名前の思考は停止する。
やっと意味を理解した時には、名前の顔は真っ赤になっていた。
「……〜〜っ、えっ、映像作品と現実を混同しないでくださいっ!そんな理由ならなおのこと着ませんから!」
「ええ〜っ!良い子の悟くんにクリスマスプレゼントもくれないの?」
……今さら、上目遣いで見つめられても。先程の品性に欠ける台詞のお陰で、どんなに整った容貌を持っていても少しも神聖なものに見えない。
「そもそもいらないって仰ったのはあなたの方ですよね」名前は冷めた視線を返す。
そう、彼に言われたのはまだ記憶に新しい。『今年は特に欲しいものもないから』と彼が言ったから、昨晩の名前は伏黒家で穏やかな夕食の時間を過ごした。
なのに翌朝、起きたらこれである。こんなことなら伏黒家に泊まればよかったと、名前は後悔し始めていた。
「俺、過去は振り返らない主義なんだよね」
「またそういうことを……」
「おねがいおねがいおねがい〜!!変なことしないからさぁ〜!」
「わっ、」
──しまった。そう思った時にはもう遅い。
不意をつかれ、飛びかかられた名前は、彼の手が浴衣の衿にかかるのを感じてようやく慌てふためく。
けれど「こらっ」と抗議の声を上げたところで、素直に言うことを聞いてくれるはずもなく。解かれた帯を手にしたまま、彼はにっこりと笑う。
「それなら名前が好きな方選んでよ。いま脱がされるか、それとも裸エプロンで我慢するか」
「最悪の二択じゃないですか……」
「俺はどっちでもいいけどね」
そりゃあそうでしょうね、と名前は嘆息する。どちらにしても彼の思い通り。そんなのはいつものことだ。……いつだって、彼には逆らえない。
「……絶対、変なことはしないでくださいよ」
だからこの時も、そう念を押すことしか名前にはできなかった。
「って、言ったじゃないですか!」
けれどそんなものに意味はなかった。少し考えればわかることなのに、まんまと乗せられてしまった。名前は己を組み伏す男を睨み据える。
しかし彼はといえばますます笑みを深めるばかり。
「うん。だからマニアックなプレイはしてないでしょ?」
「私からすればこれも十分変態的な趣味です……」
脇にある卓袱台には先刻まで朝食が並べられていた。それも名前が作って、彼に食べさせてあげたものだ。……すべて、裸エプロンなどという恥ずかしい格好のままで。
『あーんってして』と言うから、そこまでやってあげたというのに、この仕打ち。畳の上で無様に転がるしかない自分が情けなくなってくる。
「あっ、それいいね。もっかい言ってみてよ。『悟さんの変態』って」
「……悟さんの、ヘンタイ」
「ありがと。そんな変態の要望に答えてくれる名前が好きだよ」
「うれしくない……」
嬉しくないはずなのに、『好き』の一言だけで許せてしまう、ような。そんな気になる自分はきっと『チョロい』人間なんだろう。わかっているのに、名前の抵抗は鈍い。すべてを見透かす蒼い瞳に見下ろされると、体から力が抜けていってしまう。
──ぜんぶ、この目がいけないんだ。たぶんきっと、絶対に、そう。
「ひぅっ、」
エプロンの裾から差し込まれた手が太股の内側に伸びる。ひと撫で。指先が掠めただけで、引き攣れに似た声が洩れた。
──あぁ、嫌な予感しかしない。
細められた目に、名前は唇を引き結ぶ。
「名前はほんと、いい反応するよね」
「ふっ、普通です……!誰だって不意をつかれたらこうなるもの、でしょう……?」
「うーん、どうだろ?普通っていうのも俺にはよくわかんないし」
……言われてみれば、確かに。名前も彼以外を知らないから、《普通》というものがわからない。
首筋を食む唇に身を捩らせながら、名前は思考を巡らす。
「……で、では、」
「ん?」
「あの、悟さんの観た、え、……映像作品では、どのような反応をしていたのですか?その、女性の方は……」
「えー?そんなの聞いてどうすんの?」
肌をいたぶるのを止め、彼は小首を傾げる。いとけない、そんな仕草。けれど唇を舐める舌の赤さは鮮烈で、その落差に不覚にもどきりとさせられる。
そんな自分に狼狽え、名前は視線を泳がせた。
「だって、悟さんはそれが気に入ったのでしょう?ならば私も……どうせならあなたの満足のいく形にしたいですから」
「…………」
羞恥を抑え、訊ねたにも関わらず、返されたのは長い沈黙。怪しげな動きをしていた手も、エプロンと肌の間で静止している。名前を見下ろす目も小さく見開かれたまま。その蒼色に、名前の意識は吸い込まれてしまう。
はじめに星の瞬きがあった。星が生まれ、流れ、名前の元に降り注いだ。その中で意識は溶け、流れ落ち、蒼色の中へ還っていった。
それは奇妙な感覚だった。瞳から溶け出し、混ざり合う。ふたつはひとつで、それ以外の何ものでもない。そんなことはあり得ないのに、目の前のひとが自分自身であるような錯覚が起こっていた。
名前は唇を震わした。今この瞬間、世界には永遠が溢れていた。口を開くことすら躊躇わされる永遠が、そこには存在していた。
「……あの、悟さん?」
「………………」
「……あっ、もしかしてこういうことを聞くのはマナー違反でしたか?すみません、私、どうもこういうことには疎くて──っ、……?」
その感覚が心地よくて、──あまりに心地いいから怖くなって。口早に言い募ると、不意に影が落ちた。
覆い被さるようにして折り曲げられた長身。その中にすっぽりと抱き込まれた名前の身体。腕の中で、名前は目を瞬かせる。
窺い見ようにも、横目では眩しいほどの白銀しか視界に入ってこない。彼がどんな顔をしているのか。……わからないから、不安になる。
「どうしたんですか、具合でも悪いのですか?」
「……うん」
「ではベッドに戻りましょう?こんなところで横になっていては良くなるものも良くなりません」
「……やだ」
「やだ、って……」
一言、二言。返された語の簡潔なこと、その声のか弱きこと。お喋りで喧しいほどが彼の常であったから、《らしくなさ》に名前は戸惑う。
先程までは元気そうだったのに、いったいどうしたというのだろう?本当に急病だったら──最強の呪術師とはいえ、病原菌には敵わないはずだ。細菌、もしくはウイルスの類いだったら?もしも──もしも、誰にも治せない病にかかってしまったら?
想像は嫌な方にばかり進み、名前は半分涙目になっていた。早く病院に連れていかなくては。それだけを考え、拘束を振りほどこうとして──そこで名前は、太股に押し当てられた熱の存在にようやく気づいた。
「えっと、……悟さん?」
そっと呼び掛けると、これまでぴくりともしなかった彼の頭が持ち上がる。眩しいほどの白銀、星々の瞬く瞳、──そして、僅かに上気した頬。目許を赤らめたまま、彼は苦しげに柳眉をつり上げた。
「……いい?これは、名前のせいだから。別に俺がいつも余裕ないってわけじゃないから。そこんとこ、勘違いしないでほしいんだけど」
そう言いながらも、名前の唇を塞いだその動きは早急で、名前にはなんの抵抗の余地も存在していなかった。