伏黒甚爾に揶揄われる
パパ黒が何故か生きています。
教室を出て、ちいさく息をつく。
何せ個人面談を保護者として受けるのは初めてのこと。呪術師の仕事以外で小学校に来たのも久しぶりのことであったから、なおのこと緊張感は高まっていた。
見知らぬ土地、見知らぬ人。……そういうものは、どうしたって苦手だ。
「……終わったのか?」
「恵くん、」
そんな名前を待ち構えていたのは、幼さの残る少年の声。短く切った黒髪が揺れ、丸く大きな眼が名前を見上げる。
「待っていてくれたんですか?」もう姉と一緒に帰宅したかと思っていた。名前がそう言うと、少年はふいと目を逸らす。
「……図書室に、用があったから」
淡々とした言葉と、裏腹に赤らむ目許。彼が素直でないことなど重々承知。でも名前は意地悪な先輩とは違って、少年を揶揄うことはしない。「そうですか」と頷いて、喜びは胸のうちに秘めることにした。
「でも恵くんがいてくれて助かりました。どうにも緊張感が抜けきらなくて……キミの顔を見たらホッとしてしまいました」
嘘じゃない。本当に、恵の顔を見たらようやく自然に笑うことができた。彼の担任と話している時だって笑顔は意識していたが、それはきっと歪なものであっただろう。
先生に悟られていないといいのだけれど、と不安を抱きつつ、名前は右手を差し出した。
「さ、一緒に帰りましょう?」
「……ん」
小さな頷きも、柔らかな左手も、何もかもが愛おしい。
少年と手を繋ぎながら歩く道は、来たときよりもずっと輝いて見えた。
「……しまった、醤油を買い忘れてしまいました」
津美紀の待つ家が見えてきたところで、名前ははたと立ち止まる。そして恵に「すぐ戻りますから」と声をかけ、優しく手をほどいた。
……芝居がかった仕草になってはいないだろうか。
ドキドキしながら反応を待つ。が、恵は「わかった」とあっさり応じた。どうやら違和感はなかったらしい。それはそれで抜けていると思われているようで引っ掛かるが、今回ばかりは有り難い。
名前は少年が家へと入るのを見届けてから、裏路地に入っていった。
「……相手が実の息子とはいえ覗き見は感心しませんね」
下町の、細い道。夕暮れ時のオレンジが古びたアパート群を染め上げている。その影、黒々と伸びる闇の中に、名前は声をかける。辺りに人影はない。だから返事だってないはずだった。
「酷い言い草だな。我が子の成長が気になるのは親として当然だろうが」
けれど声がした。暗がりの奥、ゆらりと蠢く影。それは闇より深く、夜よりも濃い。伏黒甚爾は、冴えざえとした夜の匂いを纏う男だった。
笑うその人を、名前は静かな目で見返す。
軽薄。そう言い表せるのは、五条悟と同じだ。だがだからといって二人の男が似ているとは名前には到底思えなかった。
だって、五条悟には黒よりも白の方がよほど似合う。……反対に、伏黒甚爾は夜の中でしか生きられない。そういう男だと、名前は知っている。
「ならば親としての務めを果たしては?尤も、恵くんの方はあなたを必要としていないようですが」
「ああ、お陰さまでな。立派な呪術師になれそうで何よりだよ」
「……会話が噛み合っていないように思えるのは気のせいでしょうか?」
「俺は楽しいぜ、オマエとの会話」
影の中で甚爾は笑う。楽しい、という言葉を肯定するかのように。
「……?趣味が悪いですね」
けれど名前は首を傾げる。
酷薄な笑みを浮かべる男が愚にもつかない応酬を楽しんでいるなど、とても信じられなかった。だから揶揄いの一種であるか、本心からであるならよほどの変人なのだと名前は思った。
たぶん、笑いのツボがずれているのだ。現代最強の呪術師があんな性格をしているのだから、さもありなん。最強の呪術師殺しだって想像を越えてくるのは当然のこと。そう、名前は真剣に考えた。
──けれど。
「……くっ、」
一瞬の間を置いて、甚爾は腹を抱えた。でも名前は何もしていない。何かしようとしたところで、今の実力ではこの男に遠く及ばないのは確かだ。だから、名前が危害を加えたからじゃない。
なのに甚爾は腹を抱えて──笑っていた。
「いいな、オマエ。やっぱり面白いよ」
「はぁ……?」
これは賛辞と受け取ってもいいのだろうか?迷った末、名前は「あなたは変わっています」と返した。人付き合いの不得手な自分を面白いなどと評するとはこの男、変わっているとしか思えない。
「よくわかりませんが、暇潰しになったのなら何よりです。その調子で人様の迷惑にならない遊び方を覚え、悪事の片棒を担ぐなどといったことが今後ないようになればなお良いのですが」
これは伏黒甚爾という男の未来を心配してのことではない。名前が気にかけるのはその息子、恵のことだけ。縁を切っているとはいえ、ふたりが親子であることに変わりはない。だから父親である甚爾に、まともな職についてほしいと思うのはごく当然の成り行きだ。
「ほお?」
しかし男は寄りかかった壁から身を起こすと、器用にも片眉を持ち上げた。
──嫌な、予感がする。
それは直感であり、本能であった。けれどだからといって──いや、だからこそ背を向けるわけにはいかない。背中を見せたら食い殺されてしまう。それが自然の摂理だ。名前は後退りそうになる両足を踏み締めて、男の鋭い双眸を見つめ返した。
そんな名前を前に、ゆらりと伸びる影がわらう。
「つまりは俺の玩具になってくれるってわけだな?名字名前──オマエが」
「あなたのようなバカ力の持ち主、玩具にされたらこちらの身が持ちませんよ」
「そりゃ言葉の綾だ。第一んなヤワな体してねぇだろ」
「あなたが私の何を知っているというのですか」
「──なら、教えろよ」
平静を崩さないでいると。焦れたように、男の方から手を伸ばす。伸ばされる手が、暗がりから這い出てくる。闇より深く、夜よりも濃い。その影が、名前の腕を引き、耳許に唇を寄せる。
「なぁ、名前。教えてくれよ、オマエは今、何を考えてる……?」
掠れた声が、耳朶を打つ。背筋を走るのは恐怖か、嫌悪か。……或いは?
名前は考える。「そう、ですね……」考え、ようとする。
なのにそれを阻むのは問いを投げ掛けた張本人。男のかさついた唇が、咎めるみたいに名前の耳を柔く噛む。
それは名前にとってまったく未知の感覚で、
「あの、淫行条例はご存じでしょうか?一応私、未成年ですので……言動には注意した方がいいかと、」
術式を発動するよりも早く。身を捩り、男の舌から逃れた末に紡ぐのは、一番の懸念事項。可愛がっている子ども、その父親を犯罪者にしないことが今の名前にとって重要なことだった。
それは甚爾自身のためでもあったのに、彼は興ざめだとばかりに溜め息をつく。拘束の手は、既に解かれていた。
「……なるほどなぁ。こりゃ五条の坊も手を焼くわけだ」
「五条先輩がどうして出てくるんです?」
なんだか責められているような気がして、名前は眉を寄せる。
五条悟は名前の尊敬する先輩だ。彼には修行をつけてもらっている。その点でいえば『手を焼いている』という表現もあながち間違いではない。だがそれをどうしてこの男に指摘されなきゃならないのだろう?
「先輩は嫌なら嫌とはっきり言ってくださる方です」だから責められる筋合いはない、と名前は言ったつもりだったのだけれど、甚爾は「へえ?」と適当に相槌を打つ。どう考えても完全に受け流されている。話を振ったのは彼の方なのに!
「まぁいい。ますます興味が湧いた」
「私はますますあなたという人がわからなくなりました」
気に食わない。腹立たしい。でも、実力は認めている。そして何より、この男は伏黒恵の父親だ。いつか親子の再会が果たされる日が来るかもしれない。そう思うと、下手なことはできなかった。
もどかしい気持ちで眼差しを鋭くする名前に、しかし男はひらりと手を振る。
「じゃあな。条例に引っ掛からない歳になったらまた会おうぜ」
そんな戯れ言を残して、伏黒甚爾は姿を眩ます。
たぐいまれな身体能力。もっと有効活用すればいいのに、と名前は残念に思う。これで言動がもう少し真面目だったら、教えを請いたいところだった。
……とはいえ、実の息子に見放されているというのには少し、同情する。
先刻の揶揄いも息子と触れ合えない寂しさ故のものかもしれない。……そう自身を納得させた名前だったが、この日以降も気紛れにやって来てはちょっかいだけをかけていく男に、同情心も薄らいでいくことになる。
けれどこの時の名前にとって、伏黒甚爾という男は《恵の父親》であり、《理解不能の男》でしかなかった。