序章


 医務室を訪れた五条悟に──正確にはその手に抱かれた少女に、家入硝子は目を見開いた。

「……それ、名前か?」

「他の誰に見える?」

 少女を横抱きにしたまま、五条は笑う。「僕が見間違えるとでも?」晒されたままの六眼が、少女を見下ろす。愛おしげに、──しかしぞくりとする冷たさを孕んで。
 愛憎入り交じった表情に、家入は溜め息をつく。……かわいそうに。そう哀れむのは五条に対してではない。固く目を閉ざしたままの少女に向けてである。最悪な男に囚われてしまったというのに、彼女はそれを知る由もない。昏々と眠り続けている。そんな彼女を哀れだと思う。

「怪我してるから治してくんない?」

「怪我を負わせた、の間違いだろう」

 家入は職業柄血の臭いには敏感だ。一瞥しただけで少女が負傷しているのには気づいていたし、その原因が目の前の男にあると見抜いてもいた。……五条悟の方が、無傷であるということも。
 この男は意中の少女相手にだって手を抜かない。派手な命のやり取りをしてきたのは明白だった。
 けれど五条は悲しげな顔を作って、言う。

「僕の心の痛みに比べればこんなの怪我のうちに入らないでしょ」

「暴論。それを名前に向けるのはお門違いだ」

「けど僕も名前から一発キツいのもらってるしねぇ。見てよこれ、腹に穴空けられるのなんて久しぶりだよ」

「ピンピンしてるくせに何言ってんだか」

 家入はデスクに頬杖をついて、やれやれと首を振る。五条はわざわざシャツを捲って腹を見せてくれているが、そんなものに興味はない。「もったいない」と彼は口を尖らせるが、『どこまで自己評価が高いんだか』と呆れるだけである。ちなみに腹に空いた穴なんてものは、五条自身の反転術式で治療済みである。確認するまでもない。
 ただ少し意外に思ったのは、そこまでの傷を負うほど追いつめられたのか、という点。記憶にある限り、確かに少女には才能があったし技を磨く努力も怠っていなかった。あのまま《何事もなく》成長していたなら、もしかすると彼と肩を並べられるほど強くなっていたかもしれない。
 けれどそれはあくまで可能性の話。彼女が《何事もなく》高専を卒業することはなかったし、この十年、五条悟は以前よりも更に最強の座を強固なものにしていた。当時のままの名前に、果たして彼を追いつめるまでのことができただろうか?
 家入は、幼さの残る寝顔を見つめて、席を立った。

「とりあえず五条は名前を私に寄越しな。そんな格好じゃ診れるもんも診れない」

「えー、ヤだ」

「駄々こねるな。どう考えたって普通の状態じゃない。よく確かめないと」

「名前は名前だよ。これ以上何も調べることなんてない」

「……十年前と何も変わっていないっていうのに?」

 ──そう、名前は十年前のままだった。高専を卒業する直前、任務先で失踪した当時と変わらない、十代の少女として五条の腕の中に収まっていた。まるで彼女だけ時間の流れから取り残されてしまったかのように。或いはタイムスリップでもしてきたみたいに。
 そんな怪異の話は聞いたことがないし、彼女が最後に携わった任務でもそういった現象は見受けられなかった。特級呪霊と遭遇し、敗れたか──もしくは夏油傑のように自分から姿を消したか。ともかく名前の失踪はそのようにして処理された。
 しかし五条は相も変わらず彼女を抱いたまま。「そんなの些末なことだよ」と言い放って、ベッドに腰かける。

「名前は帰ってきた。ちゃんと、俺のところに。……それがすべてだ」

 彼が名前の頬を撫でる。その指先の、なんと優しげなこと。声音の甘さも相まって、恋人との感動の再会といった様相だ。その優しさを素直に表現したらいいのに、と家入はぼんやりと思う。言っても無駄なので口に出すことはしないが。
 五条の意思が固いことを知って、家入は抱かれたままの名前の体を検める。肋骨は一部折れているし、足にだってヒビが入ってる。青アザ、打ち身なんてものは数えるだけ無意味だ。だが生死に関わるものは少ない。致命傷を与えるより無力化を優先したのだろう。手を抜いていても最強が最強であることに変わりはない。

「それで?」

「ん?」

「久しぶりの名前は何か言ってたか?まさか問答無用で連れ去ったわけじゃないだろう?」

「…………」

「……そのまさか、か?」

 あらかた治療を終えて立ち上がると、眼下の五条は珍しく沈黙した。だから家入は天を仰ぐ。

 ──言葉もろくすっぽ交わさず、連れ去ったのか。

 現状年齢差もあるせいで、ただの誘拐犯にしか見えない。五条の方にどんな葛藤や愛憎があるかなんて、端からはわからないものだ。多くを見てきた家入とて、五条のやり口には引き気味である。
 頭を押さえる家入に、五条は「いろいろ事情があるんだよ」と眉を寄せる。しかし反論が小声であったことから、彼自身にも思うところはあったらしい。名前の肩を抱く手に、力がこもる。

「……こいつ、全部忘れてたんだよ」

「は?」

「だから、全部忘れてたんだって。僕のことも、それ以外のことも」

 「まぁ僕のことだけ忘れてたら半殺しにしてたけどね」などと冗談とも本気ともつかないことを言っている五条を無視して、家入は思考を巡らす。よくよく見てみれば、名前は見慣れない制服を身に纏っていた。この十年、呪術師ではない人生を歩んできたのだろう。血の気の失せた顔に、一層憐憫の情が湧いた。
 ──すべてを忘れた彼女にとって、真の幸福とはなんだろう。

「……名前なのは間違いないんだよな?」

「だーかーらぁ、何度も言わせるなって。六眼で視たし、視なくてもわかるよ。体も心も僕たちの知ってる名前じゃないけど、こいつは名前だ。僕の待ち望んでた名前なんだよ」

 それは記憶をなくした名前にとって酷なことではないだろうか?──家入はそう思ったけれど、指摘することはやめておいた。
 瞬間、家入の脳内を駆け巡ったのはこの十年の記憶だった。名前が行方不明になったと知らされた時の焦燥、彼女は死んだと失踪宣告を受けた時の怒り。家族や友人すらも受け入れた中、五条悟は孤独に生存を信じ続けた。その姿を、家入はずっと見てきた。
 だからこの件に関しては口を挟まないでおこう。せめて、今だけは。……柄にもなく、そう思った。

「なんでもいいけど、私を痴話喧嘩に巻き込むなよ。昔っからお前とやり合った後の名前を治療するのは面倒だったんだ」

「それは名前次第かな。大人しくしててくれたらいいんだけど、こいつ、顔に似合わず跳ねっ返りだからなぁ」

 「少なくとも、僕以外には傷つけさせないよ」五条はいけしゃあしゃあと続ける。「他の誰にも、《上》の連中にも」口許は弧を描いているが、目は笑っていない。下手に手出ししようものならぶっ殺す。顔がそう言っている。
 けれどそれくらいの意志がなければ守れないだろうと家入も思う。一度は死んだとされた娘。それが当時の姿のまま、記憶だけを失って帰ってきたのだ。おまけに今まで普通の生活を送っていたとなれば、呪術界を裏切ったと見なされてもおかしくない。保守的な上層部などは彼女の処刑を求めてくるだろう。それを阻むことができるのは、最強の男以外他にいない。

「守ってやれよ。今の名前にはお前しかいないんだから」

「守るさ、もちろん。……今度こそね」

 五条は名前をきつく抱き締めた。ここには彼と家入以外、誰もいないのに。それでも決して手を離そうとはしない彼は、何かを恐れているようだった。何かを──再びの、喪失を。飄々とした姿勢を崩さないが、負った傷の深さは家入にすらわからないことだった。
 とりあえず家に帰るという五条を、家入は見送った。その背中がなんだかいつもより小さく見えて、苦笑する。
 ──まさか五条悟に同情する日が来ようとは。らしくないのはお互い様だな、と家入は思う。久しぶりに煙草を吸いたい気分だった。