再会T


 その日は天文的にも相地的にも凶を示していた。占筮を行ってみても結果は天山遯、三爻。心残りのために苦しむことになると、筮竹は告げている。

 ……しかし、その心残りとは?

 思い当たるものがなくて、名前は首を傾げる。早朝、日もまだ昇りきらない時間。しんと冷えた部屋の中、ルームメイトはまだ眠っている。
 今日から新学期、占いの結果が悪いからといって休むのは如何なものか。そう、名前は思案する。
 きっと心優しい同級生たちは『休んだ方がいい』と勧めてくれるだろう。彼女たちは名前を優れた易者として慕ってくれている。そしてそれは生徒だけにとどまらない。教師の中にも、名前に秘密の相談を持ちかける者はいた。全寮制の閉ざされた女学校の中とはいえ、名前は名の知られた存在だった。
 けれどだからこそ無用な心配はかけたくなかった。平安時代だったらいざ知らず、ここは現代。物忌みなど、これまでだってしたことがない。それに冬休みが明けたばかりの学園で、いったいどんな危険があるというのか。名前は己に言い聞かせ、筮竹を片づけた。嫌な予感がするのは、きっと、昨晩おかしなことを言われたからだ。

『おやすみ、名前。……離れていても、俺たちは家族だよ』

「──どうして、あんなことを言ったの」

 真人くん、と呟いた声に返す言葉はない。むなしく、静寂に消えるだけ。それが何故だかいやに悲しくて、名前は唇を噛んだ。いつもと変わらないはずの朝が、昇る日が、ひどく恨めしかった。





 名前には幼い頃の記憶がない。気づいた時には呪霊と呼ばれるものたちと共に、夜の中で生きていた。
 変化があったのは一年前。誰だったかが、『そろそろ良い頃合いだ』と言い始めて、名前はこの学園に入学することになった。理由は知らないし、疑問に思ったこともない。『そういうものなのだ』と納得していた。
 勉学については特段不都合は生じなかった。それよりも自分が当たり前に見ている風景が当たり前でなかったことに驚いた。漏瑚のことも花御のことも、認識できる者とは出会えなかった。
 だから友人たちに恵まれても孤独感は拭えなかった。自分は普通ではないのだとこの時ようやく理解した。おかしいのは自分で、周りのみんなが正常なのだ。
 しかし普通ではないことを、呪霊のひとり、真人は肯定してくれた。

『いいじゃない、普通じゃなくたって。俺は名前が《のろい》を認識してくれてよかったと思うよ』

 『それとも名前は俺のことが嫌いなの?』そう言って首を傾げる彼に、慌てて否定の語を紡いだのは記憶に新しい。
 真人はまだ生まれたばかりの呪霊で、名前にとっては弟のようなものだった。成人男性の成りをしているが、反応は無邪気な子どもそのものだ。よく『頭を撫でて』と言って甘えてくるのが、名前には可愛くてしょうがなかった。
 そんな彼が、昨日は大人びた顔をして名前の頭を撫でた。『離れていても、俺たちは家族だよ』別れ際の囁きが、耳にこびりついて離れない。

「どうしたの、名前?なんだか気がそぞろじゃない?」

「もしかして具合でも悪いの?少し顔色が悪いような気がするわ」

 ぼんやりしていたら、いつの間にか四限目が終わっていたらしい。名前は己を覗き込む友人たちに慌てて笑みを作る。まさか、チャイムの音にさえ気づかないとは。

「ごめんなさい、なんでもないの。ただ昨晩は少し、夢見が悪くて」

「それなら休んだ方がよかったんじゃない?しっかり睡眠は取らないと……、ねぇ?」

「そうよ。ほら、平安貴族なんてそういうのが普通だったんでしょう?あなたなら休んだって誰も文句言わないわよ」

「うんうん。なんてったって我が校の大事な陰陽師さまなんだからね」

 《陰陽師》というのはちょっと違うけど。そう思いつつ、けれど名前は控えめな笑いでもって返事をした。「ありがとう、でも本当に気にしないで」心優しい彼女たちには申し訳ないけれど、どのみち打ち明けることのできない話である。
 彼女たちが求めているのは平凡な日常に潜むちょっとした刺激であり、それは日々を彩るスパイスに過ぎない。人間の持つ悪意やそれから生まれるおぞましい呪いなどは、知らない方がいいのだ。だから名前の家族のことだって、彼女たちに話すことはない。きっと、永遠に。この学園を卒業して、それぞれの道を歩んでいったとしても──生涯口にすることはないのだろう。

「それなら今日のお昼は外で食べない?気晴らしに……どうかな?」

「私は賛成。いつもより暖かいし、ブランケット持ってけば平気じゃない?」

「そうだね、今日は天気もいいから……」

 そんなことを話しながら、購買に向かう。
 その道すがら、浮き立つ空気を感じ取り、名前は僅かに眉を寄せた。──なんだろう、この違和感は。呪霊を近くに感じた時の、肌の粟立つ感覚ともまた違う。脇を小走りで駆けていく少女たちの色めいた顔、声。……歓声?

「何かな?」

「さぁ?でもやけに楽しそうね」

 友人たちも感じるものがあったらしい。それぞれに首を傾げ、行く先に目を馳せる。少女たちは蜜に吸い寄せられる蜂のように、ひとところへ向かっていく。
 そこは学校の出入り口にほど近い校庭の片隅であり、既に女生徒たちで生け垣が作られていた。蠢く人影、その中心。生徒たちよりもずっと大きなその人は、どうやら男性のようだった。

「……あれ、は」

「先生……ではないよね、こんな時期になんて聞いてないし。男の人って珍しいからそれだけでみんな騒いでるみたいだけど」

「嫌ね、しょせんは部外者なのに、そんなものに盛り上がっちゃって。名前は近づいちゃダメよ、汚れるわ」

 友人二人の声も、どこか遠い。名前の目はその人の纏う白銀から身動ぎひとつできなかった。呼吸すらも上手くできなくて、その瞬間名前の世界は静止していた。悲しみのような、喜びのような、──深く激しい感情が、名前のうちで渦巻いていた。
 いったいどうしてしまったんだろう。頭の片隅で、冷静な自分は問う。
 ──どうしたというの、私。確かに珍しい容姿をした人だけど、それだけでしょう?そう頭では理解しているのに、体は言うことを聞かない。
 遠くで白銀が揺れて、それから、それから──

「──名前?」

 そう言ったのは誰?
 ……いいや、きっと友人の一人だろう。この距離では聞こえるはずもない。
 なのに名前には自分の名前を呼んだのがあの男性であるように思えてならなかった。彼がサングラスを取り、名前のいる方へ顔を向けたから、だからそんな錯覚をしてしまったのだと思う。
 名前は深呼吸をする。大丈夫、落ち着いて、冷静になって。言い聞かせながらも、今朝の占いが脳裏を過る。

 心残りが──私を苦しめる──私を苦しめて────それから、それから、私は────

「名前ッ!!」

 続く言葉が《逃げられない》という占いの結果であることを思い出したのは、強い力に囚われた後だった。強くて、苦しくて──うまく息ができない。
 浅い呼吸を繰り返す名前を、しかし見知らぬその人は抱き締め続けた。

「まさかこんなとこにいたとはね。あぁでも、俺は生きてると思ってたよ。お偉いさん方もバカだよね。ま、オマエの実力を過小評価してるようなヤツしかいないし、バカに決まってるか。オマエを殺せるのは俺しかいないもん。呪霊ごときに殺されるなんてそんなわけないって知ってたし。ていうかむしろラッキーじゃない?オマエの実家も名前は死んだって勘違いしてるし、俺にとっては都合いいよね。オマエもあんな旧時代の遺物でしかない陰気な集団のことなんか忘れちゃいなよ。このままさ、俺んちで──」

 そこまで一息で言ってから、その人は名前の体から身を起こし、全身を矯めつ眇めつ眺め回した。

「……なんでセーラー服なんて着てんの?コスプレ?」

 しかもそのスカートの裾を持ち上げて、である。さすがにその中までは見えていないが、非常識極まりないこの行動。憧れや好奇の眼差しを向けていた少女たちの唇から悲鳴が上がる。
 その擘くような声によって、ようやく名前は我に返った。

「はっ、離してください!どなたか存じ上げませんが、このような行いは……っ」

「は?何いってんの、オマエ」

 手を振り払って、距離を取ろうとする。その手首を、逆に掴まれた。ぎりぎりと締め上げられる手。きっと跡になっているだろう。
 しかし確認することはできない。射抜くような視線から、目を逸らせないから。
 「名前!」友人が名前を叫ぶ。逃げて、と声が言う。それに名前ができるのは「来ないで」と返すことだけ。この男が誰だかは知らないが、割って入ったとしても友人たちに勝ち目はない。彼女たちを傷つけたくはなかった。

「……あなたは、私を知っているのですね」

「その言い方だと、マジで言ってるってわけ?俺のこと、本気で知らないって?」

「はい。あなたの知っている私が、二年以上前の私であるなら」

 蒼ざめた目を見つめ返す。不思議な色をしたひとだ。暴力的な言動とは裏腹に、透き通った色合いをした双眸。それを純粋に『美しい』と思う。きれいで、きれいすぎて──簡単に壊れてしまいそう。
 そんな気がしたから、男を『怖い』と思うことはなかった。ただ悲しいような嬉しいような、よくわからない感情だけが相変わらず胸の中に横たわっていた。
 彼は小さく「記憶喪失か」と呟く。理解が早い。聡明な人なのだろうな、と名前は思う。
 そんな彼にとって、《私》はいったいどんな人間だったのだろう。顔立ちに共通点が見当たらないから、家族ではなかろう。けれど友人にしては年齢差がある。少なく見積もっても彼は成人しているだろうし、…………

「あなたは《私》の何だったのですか?」

 少しだけ力の緩んだ手に安堵し、生まれた疑問を口にする。なおも拘束は解かれないから、よほど心配をかけたのだろう。申し訳なさが胸に生まれて、名前の中の警戒心は薄らいでいた。
 そんな名前に、彼は少し目を丸くした後で、にっこりと笑った。……どこか寒々しさを感じさせる空気を纏って。

「《恋人》だよ。名前は俺の、恋人。だからもう忘れないでね?」

 次いで上がった悲鳴が何を意味するのか。そのことについて、名前は考えるのを止めた。遠退きそうになる意識を繋ぎ止めるので、精一杯だった。