宿儺と夜の戯れ
不意に意識が浮上する感覚があって、名前は目を覚ます。
まず最初に見えたのはテレビだった。既にその日一日分の放送を終えたテレビは休止状態となっており、目に痛いカラフルな画面に切り替わっていた。どうやら深夜放送していた映画を観ながら寝てしまったらしい。名前は手探りでリモコンを取り、テレビの電源を落とした。それでもまだ瞼の裏には光の残滓があった。
不自然な体勢で眠ったせいで、体が強ばっている。そして頭にも鈍い痛みが。名前は小さく欠伸を洩らし、首を回す。
そうすると嫌な音がするようになったのは、果たしていつからだろう。恐らく学生時代はなかった。たぶん、きっと。思い出せないということはそういうことだ。歳を取るというのはあまり考えたくない。名前は隣で健やかな寝息を立てる少年を見やる。
──虎杖悠仁。彼も、いずれは。それは喜ばしいことであるはずなのに、少し寂しさも覚える想像だった。まったく勝手な話である。夜は余計なことを考えてしまうから、程々にしておかないと。
「……虎杖くん、」
名前は声を抑えて呼びかける。……返事はない。肩に手をやっても、反応はゼロ。深い眠りに入っているらしい。ソファの上で器用なことだ。
ひどく疲れているのかもしれない。そう考えると、起こしてしまうのも躊躇われる。名前は暗がりの中で考え込んだ。どちらの方が彼のためになるのか。出来るなら、彼をこのままベッドに運んでやりたいところだけど──
「なんだ、夜這いか?」
物は試し、と身を屈めた時だった。名前の体の下、眠っているはずの少年の口から見知らぬ声がする。見知らぬ声で、見知らぬ表情で、少年は名前を見上げる。
肌が粟立つ、この感覚。「……あなた、両面宿儺ですね」物凄い呪力量だ。びりびりと空気が震える。圧倒される、呑み込まれる。こんな感覚、久しく味わったことがない。
強ばる名前の顔に、少年の指が伸びる。響くのはほの暗い笑い声。宿儺は長い爪を這わせる。膚越しにその下を流れる血を味わうかの如く。捕食者の目で、彼は名前を捉えていた。
「美味そうだ、とは常々思っていたが……なるほど、実物はなお良いな」
暗闇の中で鋭利な白色が浮かび上がる。それは最早少年の歯ではない。宿儺という、人の血肉の味を知ったものの犬歯だった。
咄嗟に名前が想像したのは、その歯によって食い千切られる自分の姿だった。骨を折られ、皮膚を裂かれ、肉を割り開かれた己の姿。それは幻覚などではない。両面宿儺の気紛れひとつで現実となるのだ。そう、彼の纏う冷たい空気が言っていた。
「ふむ、」宿儺の赤い舌が頬を舐める。「やはり美味だ」いつの間にか名前の頬には一筋の赤い線が走っていた。その血を舐め取った舌の赤さに、名前は息をつめる。
「さてどう料理しようか?ただ卸すだけでは芸がない。じっくり味わわねばなぁ?」
にやり。悪人面で嗤う男に、名前はようやく口を開く。
「……お腹が空いているのですか?」
「……は?」
「いえ、食事のことばかりを話されるので、そうなのかと……」
違ったのだろうか。小首を傾げるも、宿儺からの返答はない。ただ、手首への拘束は僅かに緩んでいる。
名前は身を起こし、思考を巡らせた。宿儺には悪いが、さすがに彼の夜食にされるわけにはいかない。死んだ後でなら好きにしてくれて構わないけど、今はダメだ。
となれば道はひとつ。
「もう夜も遅いですから、本当はおすすめできませんけど。でも空腹のまま眠れというのも酷な話ですよね。何かご用意致しますよ」
名前は台所に向かい、小さな灯りをつけた。
宿儺は追ってこなかった。やはりお腹が空いていたのだろう。可哀想に。身体を共有しているとはいえ、十分な栄養を得られていないのかもしれない。虎杖と宿儺の関係にはまだ謎が多い。
だから名前には想像することしかできなかった。想像して、勝手に哀れんだ。こんなこと宿儺に知られたら、恐らく死刑だろう。それくらいのことは名前にも察しがついたから、黙っておくことにした。
「有り合わせのもので申し訳ないです。お口に合えば良いのですが」
食パンを三角に切って、サンドイッチにした。中身は夕飯の残りの玉子サラダだ。ついでにハムも挟んでおいた。
しかし宿儺は動かなかった。目の前に置かれた皿を凝視し、身動ぎひとつしない。いったいどうしてしまったのだろう。先刻まではあんなに饒舌だったのに。
不思議に思う名前だったが、ひとつの可能性に思い至り、「もしや」と眉を寄せた。
「サンドイッチは四角派でしたか?すみません……。ついいつもの習慣で切ってしまいましたが、お聞きするべきでしたね」
「…………」
「パンの耳も切り落としておきましょうか?こちらも好みによるところが大きいですからね。あなたはどちらが……」
「……ふっ、」
『どちらがお好きですか』と訊ねかけたところで、宿儺が肩を震わす。くつくつ、抑えるようなそれは、笑い声だろうか。それとも怒っているのか。俯いているから表情が見えない。
名前は困惑した。両面宿儺。彼のことが、わからない。
「どうやらオマエ、頭のネジが一、二本抜けているようだな」
顔を上げた彼はどこからどう見ても笑っている。けれどだからといって先程までと同じというのでもない。呆れた風であり、愉快がる風でもある。
ともかく、バカにされているのだということはその台詞から十二分に理解できた。でも彼と名前とでは生きている世界が違うし、常識や倫理観などかけ離れているのが当然。だから頭のネジ云々と言われても腹が立たない。「そうかもしれませんね」と納得するだけである。
宿儺は「つまらんな」と鼻を鳴らす。でもそれだけだった。彼の手が伸ばされたのはサンドイッチであり、名前ではなかった。
「いつまでそこで膝をついているつもりだ?こちらに座れ、俺が許す」
「あぁ、ありがとうございます……」
ソファを叩く手に誘われ、隣に腰かける。つられて礼を言ってしまったが、別に彼から許しを得る必要はない、はずだ。
まぁでも、そんなつまらぬことで《両面宿儺》に逆らうのもバカげた話。そんなことより問題はサンドイッチの方だ。料理でも何でもないが、そういえば彼の好みなど何一つとして聞かされていない。洋食など言語道断と言われる可能性だってある。
静かに口へ運ぶ宿儺を、名前は固唾を飲んで見守った。
「あの、どうですか?」
「何がだ?」
「その、お味の方は……」
黙々と食べ進められ、思わず口を挟む。
膝の上で握り締めた手。開かなくても汗ばんでいるのはわかる。途方もない緊張感。夜の静寂が、今は肌に刺さる。
宿儺は口端についたパン屑を舐め取る。その顔が表すのは怪訝。何を聞いているのか、と言いたげな表情。
「オマエは不出来なものをこの俺に差し出すのか?」
「そういうわけではありませんけど、私はあなたの好みも知りませんし」
「まぁ確かに、女子どもの血肉には劣るがな」
「それはまぁ、そうでしょうね」
というか、比べる対象ではない気がする。喜んでいいのか微妙なところだ。それに元から味覚という機能が普通の人間とは違うのかもしれない。感想を求めたのが間違いだった。
自己完結したところで、宿儺は口角を上げた。気づけば彼の前の皿は空になっている。
「それにしてもオマエの血は真に美味だった。昔懐かしいかと思えば、新鮮な味もある。色々な血筋の人間を取り入れてきたな?」
「はい、様々な家系と縁を結ぶことで生き永らえてきたようです」
「浅ましいものだな」
《呪いの王》は嘲笑する。
彼から見れば浅ましく、愚かな行いに違いない。強い術師の誕生を求めるはずが、長い年月の中で私利私欲を貪ることに目的がすり替わってしまった。実家への恨みはないが、呪術師界に蔓延する澱みを、哀れだと思う。
名前は苦笑した。「おっしゃる通りです」たぶん彼らがいなくなった方が世界はより良いものになるのだろう。
けれど「なら殺してやろうか」という宿儺の甘い囁きには首を振った。
「それではまたいずれ彼らのような人々が現れるだけです。だからあなたのお力をお借りすることはないでしょう」
「……そうか」
わかりやすく落胆してみせてから、宿儺は頬杖をついて名前を見た。
「入り用になったらいつでも言え。気が向けば力を貸してやらんこともない」
存外に表情豊かなのだな、と名前は思った。笑い方ひとつで、こうも印象が変わるとは。呪いらしく残酷に笑ってみせたかと思えば、温かみのある穏やかな笑みを浮かべてみたりもする。
──そう、こんな風に。
たった今、名前に『力を貸してやる』と言ったその目は、慈愛に似た色をしていた。
「……随分とお優しいのですね、《王》ともあろうお人が」
「今宵は気分がいい。それだけだ」
「ではこの夜に感謝しないと」
笑ったところで、堪えきれなかった欠伸が洩れ出る。
「すみません」彼との会話がつまらなかったわけじゃない。むしろ心地よくすらあったから、名前は慌てて謝る。
だが宿儺は怒らなかった。彼は「眠いのか」とひとつ頷いて、それから名前の肩を抱き寄せた。
「よい、今宵は俺の腕で眠れ。特別に許す」
狭いソファだ。二人揃って横になればそれだけでいっぱいになる。名前の背はソファの縁ぎりぎりにあって、少しでも動いたら落ちてしまうのが容易に想像できた。
名前は虎杖の──宿儺の厚い胸板に顔を埋めた。そうするより他になかった。逃げ出す選択肢は最初から存在していなかった。そしてそれはきっと、恐れのためだけではなかった。
「温かいのですね、あなたも……」
彼の行いは許されるものではないし、とても悲しいことだと今でも思っている。だがだからといってこの温もりを否定することも名前にはできなかった。名前が許せないのは行いであり、存在じゃない。誰かを恨むことも憎むことも、名前はまだ知らないままだった。
名前は「おやすみなさい」と囁いて、目を閉じた。あとには暗闇と静寂だけが残された。
だから「おやすみ」と応じる声が眠りに落ちる間際聞こえた気がしたのは──きっと夢の中での出来事だったのだろう。
翌朝名前を待ち受けていたのは、少年の慌てふためく姿だけだった。