ブルーに生まれついて


 何度時計を見やっても時間が止まることはないし、巻き戻ることもない。それでも繰り返し見てしまうのは、刻々と過ぎゆく時間に焦りを覚えているからだ。

 ──早く、高専に戻らねば。

 予定が押してしまったせいで、教えられた時間には間に合うか微妙なところだ。かといって車を運転してくれている補助監督を急かすこともできず、名前は何度も何度も腕時計を確認する。
 一分、一秒……あぁ、赤信号をこんなにも恨めしく思う日が来ようとは。

「着きましたよ」

「ありがとうございます、お疲れさまです」
 
 補助監督に頭を下げて、名前は車を降りる。高専、その入り口。後は走るだけ、己の足だけが頼りだ。こういう時、最強の呪術師が羨ましく思えてくる。彼の術式だったら、高専までの移動も一瞬で済んだのに。
 全速力で駆ける名前は、しかし見知った顔を見逃さない。高専内、建物のひとつから出てくる二つの人影に、急ブレーキで足を止める。すると相手の方も名前に気づいてくれたらしい。
 彼は大きく手を挙げ、それから──

「名前、」

「久しぶりね、名前!最近ぜんぜん京都ウチに顔出してくれないから寂しかったわ!」

 《あの》五条悟よりも早く名前を抱き締めたのは、京都校の教師、庵歌姫である。どちらかといえばおとなしやかな印象の──それは五条が相手でない時に限られるが──彼女にしては珍しい。
 とはいえ悪い気はしない。

「お久しぶりです、歌姫さん」

 弾んだ声、輝くほどの笑顔。そうしたものを向けられて、素直に喜びが湧き上がる。面倒見のいい彼女のことは、名前も好いていた。だから笑顔で抱擁にも応える。

「すみません、このところ立て込んでまして……。でも今日ならお会いできると聞いていたので、急いで戻ってきました。お変わりなく何よりです」

「名前……!そんなこと言ってくれるのアンタと硝子くらいよ……!」

 名前としては普通のことを言っているつもりなのだが、何故だか歌姫は感極まった様子で抱き締める力を強めた。ひしっと効果音がつきそうなほどである。きっと苦労しているのだろう、呪術師にしては常識的な女性だから。

「……ちょっと歌姫、いつまで名前に抱きついてんの」

 そしてその逆。常識に縛られない男、五条悟はいたく不満げに声を上げた。

「僕だって名前と会うのは久々なのに」

 このところ国外任務に就いていた彼とは電話でしか話していない。彼の言う通り、久しぶりの再会ではある。
 名前は歌姫の腕の中から「お疲れさまです、五条先生」と声をかけた。健康そうで何よりだ。海外では食事が合わないだとか文句を言っていたけれど、特別痩せた様子もない。大理石の膚は変わらず瑞々しく、華やかですらある。
 しかしこの台詞だけでは納得がいかなかったらしい。

「……それだけ?」

 「それだけなの?」と頬を膨らませる姿は子どもそのもの。見ていた歌姫は「気色悪い」と顔を顰める。対五条悟の場合、基本的に辛口なのだ。尤もそれは彼の日頃の行いの悪さゆえであるのだが。

「一週間ぶりだよ?普通さぁ、もっと感動的な再会にならない?冷たいなぁ、名前は。会いたかったの一言も言ってくれないなんて」

「うわっ、気持ち悪っ。いい加減名前に付きまとうのやめなさいよ。他の人に相手にされないからって……名前が可哀想でしょ」

「あっはっはっ。歌姫、それブーメランだって気づいてる?」

「ああ゛!?」

 拳を振り上げる歌姫を、名前は「落ち着いてください」と宥める。殴りかかったところで五条悟にその拳は届かない。わかりきった、明白な事実。怒りを向けるだけ無駄なこと。
 「でも名前、」我慢ならないと言わんばかりの歌姫の手を、名前は両の手で包み込む。名前より歳上の、苦労を知る手。彼女にはできるだけ穏やかに過ごしてもらいたい。
 名前は微笑んで、その手を撫でた。

「こちらこそありがとうございます、歌姫さん。私の数少ない友人でいてくれて、……気にかけてくれて、嬉しいです」

「名前……」

「ねぇ、僕は?僕には何かないの?」

 ……どうしてこう、水を差すのが上手いのだろう。
 空気を読めないのか、それともあえて読まないでいるのか。目を潤ませる歌姫の後ろで、五条は『僕にも礼を言うべきじゃないの?』と自分を指差す。まったく、自己主張が激しいにもほどがある。普通、そういうことは自分から求めるものではないだろうに。

「……今さらどんな言葉を求めてらっしゃるのか知りませんが、」

 名前は呆れを滲ませて口を開く。歌姫への対抗心か知らないが、今日はやけにめんどくさい。絡み方が子どもじみている。まるで高専時代に戻ったかのようだ。
 当時と今では、多くのことが変わっているというのに。──私たちの関係性も、共に過ごした時間も。

「私はあなたのことも好きですよ、当たり前じゃないですか」

 じゃなきゃとっくに縁を切っている。今日この日まで付き合いが続いている時点で答えなどわかりきったこと。けれどいわれてみれば明確な言葉にしたことは殆どなかったかもしれない。
 だからだろうか。かしましいばかりであった五条の口がピタリと閉ざされる。

「あの……五条先生?」

「……あなたって男の趣味だけは最悪よねぇ」

 戸惑う名前に、歌姫は溜め息をつく。やれやれ、と。

「やっぱり京都に来なさいよ。これよりまともな男なんてそこらにゴロゴロいるわよ。なんならウチの生徒でも、」

「いや、それはまずいでしょう」

 五条を毛嫌いするあまりの発言。彼が関わると倫理観まで捨て去れるのか。教師にあるまじき言葉を吐く歌姫に、名前は頬を引き攣らせる。さすがに友人の教え子に手を出すような大人にはなりたくない。

「というか、こんなところにいて大丈夫なんですか?もうすぐ始まりますよね、交流会」

「あぁ、そうね、そろそろモニター室に行かないと」

「やっぱりもう皆さんスタート地点に移動されてますよね?一言声をかけたかったんですが……」

 そもそもそのために走ってきたのだ。
 けれど歌姫には「そうね」とあっさり肯定される。「今からは難しいわね」既に予定されていたミーティング時間は過ぎているから、その答えは想定内。
 それでも落胆は強く、名前は肩を落とす。

「どうやらこの霊符は無駄になったようですね……」

「いやいや作りすぎでしょ」

「京都の皆さんの分も、と思いまして。歌姫さん、貰っていただけますか?」

「しょうがないわねぇ……」

 厚みのある紙束を渡すと、呆れながらも歌姫は懐に仕舞ってくれる。優しいひとだ。先輩として、素直に慕わしい。

「……ほうけてる五条の後始末、頼んだわよ」

 なんだかんだ言って、気を回してくれるところも。

「……歌姫さん、行っちゃいましたよ」

 空は高く、澄み渡っている。山の中腹ほどに位置しているせいか、空気までも清々しい。初秋の穏やかな風が木立を揺らしている。 
 そうした静けさの中で、なおも秘めやかに名前は囁いた。そっと歩み寄った先、立ち尽くす男へと。呼び掛けると、彼は小さく「うん」とだけ答えた。それはどこか頼りなく、迷い子のような声音であった。
 そんな男の背中に、名前は腕を回した。術式は発動しなかった。名前も、五条も。それは大きな意味を持つのかもしれないし、そうではないのかもしれない。二人の間に明確な答えはなかった。今は、まだ。

 ──ただひとつ、確かなことがある。

「……なんだかひどく、ホッとしました。やはり私はあなたにお会いしたかったようです」

「……最初っからそう言えばいいのに」

「あまり、考えないようにしていたんです」

 自分よりずっと大きく力強い身体。その腕の中で、名前は響く心音に耳を傾ける。脈打つ心臓に、流れる血の感覚に、生き生きとした体温に。そうしたものに、途方もない安堵を覚えた。
 「側にいない人のことを考えると、不安になりますから」それは一種の自己防衛だったのだろう。
 初恋の人は任務先で亡くなった。尊敬する先輩は知らない世界へと歩んでいった。一番の友人ですら一度は呪術界を捨て、違う道を選んだ。だから側にいない人のことを考えるのは嫌だった。底無しの不安は溺れていく感覚に等しく、永遠の苦痛でしかなかった。
 だから、考えないようにしていた。──この人のことも。

「心配ないよ」

 五条はそう言って、名前の頭に唇を落とした。
 「僕は最強だからね」顔を上げれば、秋の空よりもずっとさやかな瞳に囚われた。聖なる、蒼の海へ。
 落ちていくのは決して、怖いことだけではなかった。恐れと同時に、果てのない安らぎが待ち受けているのだと名前は知っていた。諒解したから、名前は微笑んで、背伸びした。

「約束ですよ、悟さん。ずっと、最強のままでいてください」

 つま先立って、口付ける。
 切なる願いと共に触れ、離れると、どうやら驚かせてしまったらしい。目を丸くする彼に、思わず笑ってしまう。最強の呪術師は時々すごく可愛らしくもなるから侮れない。
 「何がおかしいの」途端に拗ねてしまった彼を宥めすかしながら、ゆっくり歌姫のあとを追う。
 お陰でモニタールームに着いたのは二人が最後で、名前は肩を縮めた。飛び入り参加の上、肩身が狭い。しかも何だか不穏な気配までする。突き刺すような視線を背後から感じ、名前は冷や汗をかいた。
 対する五条はといえば通常運転……どころか、上機嫌ですらあった。冷ややかな空気をものともせず、名前の肩に手を回して試合を観戦している。
 やはり彼こそが最強の男だ。肉体的にも、精神的にも。誰よりも強いのだと、名前は改めて痛感した。