2018.01


 夜が明けるとホテルの外はすっかり雪景色となっていた。
 名前はコートを羽織り、ウールの靴下を履いた。その上からはブーツを。耳当てを持ってきたのは正解だった。それから薬莢入れと散弾銃を。必要な装備はそれだけだった。
 けれど真依の表情は険しいものだった。「最悪の天気」窓の向こうを睨み、鼻を鳴らす。

「晴れてよかったじゃないですか」

「でも雪よ。歩きにくくて仕方ないわ。それにどうして私があなたと」

 胡乱な眼差しは名前へ。でもそれは謂れのないものではない。指導役として選ばれたのが東京に拠点を置く呪術師だったなんて、真依からすれば疑問に思うのは当然だ。その上派遣先が遠い雪国であったなんて、文句のひとつやふたつ言いたくもなるだろう。これくらい可愛い反応である。
 名前は笑って、「真依さんの腕を見込んでのことですよ」と言った。一掴み、箱から取り出した薬莢をポケットに滑り込ます。──射撃を習っていてよかった。誰かに教えることになろうとは、思ってもみなかったけれど。
 真依は何事か言いかけて、首を振った。どうやら諦めたらしい。彼女もまた名前と同様に装備を整える。コートにブーツ、耳当て。それから、薬莢入れとライフルを。彼女もまた名前と同じレミントン社の銃を愛用していた。そうせざるを得なかった、というだけの話かもしれないが。
 外に出ると辺り一面雪に埋もれていた。空は晴れていたけれど、雪を溶かすほどの温かさはない。でもその方が都合がよかった。地面はすっかり強ばり、ちょっとやそっとでは崩れそうもない。

「これで相手がただの野性動物だったら最悪ね」

「そこは《窓》の皆さんを信用しましょうよ」

「どうかしら。熊と見間違えたんじゃない?」

「熊の形をした呪いっていうのもなかなか怖そうじゃないですか。ほら、むかし有名な事件があったでしょう?」

「しょせん昔の話よ。いたとしても今なら結構弱体化してそう」

「ふふっ、そうかもしれませんね」

 言葉を交わしながら、山を登る。
 真依の態度が軟化することはなかったが、とはいえ無視されることもなければ、会話が途切れた後の沈黙に居心地の悪さを感じることもない。名前は自分よりずっと年下の、けれど大人びた横顔を見やる。
 ……と、視線がぶつかった。

「なに?」

「いえ、真依さんは一年生なのにしっかりしてるなぁと思って」

「そう言うあなたはちょっと抜けてるわよね」

 真依は皮肉っぽく口角を持ち上げる。そんな彼女の目は名前の胸元へ。
 「ボタン、ずれてるわよ」指摘され、慌てて視線を落とす。
 ……結論からいえば、彼女の言った通り。名前は手早く留め直してから、乾いた笑いを洩らす。
 「……ありがとうございます」これでは威厳も何もあったものではない。情けなさと羞恥で穴に入りたいくらいの気持ちだ。空気は冷えきっているのに、頬だけが熱い。
 顔を押さえると、真依は声を立てて笑った。

「あなたってホント、変なひと」

「あはは……」

 変、というのはどういう意味だろうか。ただ誉め言葉でないことだけは確かだ。だから名前は深く突っ込むのをやめた。
 まぁ、緊張感がほぐれたのならいい。そう自分に言い聞かせる。実際、ホテルを出た時より真依の肩からは力が抜けていた。

「でも本当に熊かもしれないですね。報告では家畜を襲う大型の獣……とのことでしたけど、この辺りは元々熊の出没が増えていたようですし」

「熊への恐れから生まれた呪いってこと?」

「あり得なくはないでしょう?」

 吐いた息は白く、外気に触れた途端に凍りつく。風はない。葉を落とした木々が揺れることも、他の生き物の息遣いが聞こえてくることも。この山の中ではあらゆるものが静止していた。呪力の痕跡だけが道しるべだった。
 どれくらい歩いただろう。真依とは途中で別れ、名前はひとり先へ進んだ。息を潜め、周囲に注意を払う。距離は近い。肌が粟立つ感覚がある。呪いの気配が、

「…………」

 獣の唸り声が響いて、前方から黒い影が飛び出す。ひとつ、ふたつ、みっつ……狼の群れに似た影たち。射程圏内に入ったそれらを、名前は冷静に撃ち抜いていく。呪力の籠った弾丸は貫いた側から呪いを祓ってくれる。
 コッキングの乾いた音、雪原に吸い込まれる空薬莢。一発一発、重たい衝撃が肩にかかる。その反動を利用してリロードを行うが、それでも殺しきれなかった衝撃で腕が震える。静寂は既に遠く、遠くで鳥の飛び立つ音が聞こえた。

 ──それから、耳を擘く銃声がひとつ。

 その後に残されたのは本当の静寂だった。それ以外には何も残されていなかった。何も残せず、呪いは跡形もなく消え去った。

「……この程度なら二人もいらなかったんじゃない?」

 呪いのいた辺りを調べていると、真依が射撃ポイントから帰ってきた。
 彼女が持っているのはレミントンM700。軽量な部類のライフル銃とはいえ、最低でも二キロはある。それを軽々担いでいるのだから、随分と鍛えてきたのだろう。双子の姉とは違って、彼女に天与呪縛による能力の底上げはない。涼しい顔の裏側には多くの苦労が隠されている。
 名前は静かに首を振った。

「真依さんがいてくれて助かりました」

 確かに呪いとしてのレベルは高くなかった。でもその分数も多かったし、これだけ短時間で殲滅できたのは真依の射撃による援護があったからだ。
 そう説明しても、真依は納得しない。
 「わざわざ私に付き合わなくたって」そこまで言って、彼女は唇を噛む。隠しきれない悔しさ、焦燥。彼女は自分の実力をよくわかっている。それはもう痛いほどに、強く。

「あなたなら実銃なんか使わなくたって、」

 そう続けた真依を、名前は抱き締める。抱き締めることで、言葉を封じる。彼女自身を縛る悲しい言葉を。

「ちょっと、何よ!」

「いえ、どうかお気にさならず」

「はあ!?」

 これはエゴだ。彼女たちは彼女たちであって、私じゃない。昔の私と重ね合わせるなんて失礼な話だ。こんなのは身勝手な押しつけでしかない。
 そう分かっているけれど、彼女たち姉妹のことは放っておけなかった。脆い部分のある妹の方は、特に。

『……真依のこと、よろしく』

 出立間際、躊躇いがちに言われた言葉がよみがえる。
 『私が言えた義理じゃないんだけどな』双子とはいえ姉は姉、実家を出た身であっても自然と気にかかるもの。言い訳めいた調子で言って、真希は目を伏せた。
 御三家とは複雑なものである。いつかはそんなしがらみもなくなる日が来るだろうか。……いや、それこそが今大人である名前たちの務めであろう。
 名前は笑って、狼狽する真依の顔を覗き込んだ。

「お気になさらず、というのは本当です。ほら、あんまり銃に触れる機会がないと腕が鈍ってしまうでしょう?だからちょうどいいかなと思って、今回は真依さんを誘ったんです」

「……何それ、私はついでってこと?」

「あとは……そうですね、女の子と二人旅というのがしたかったというか」

「……ふざけてるの?」

「私はいつでも真面目ですよ?」

 言い切ると、真依は深々と溜め息をつく。「あなたって人がわからないわ」呟きにはしかし、嫌悪の色は見られない。
 だから名前は笑みを深めて、彼女の手を取った。つらく厳しい修行を重ねてきた、小さな手を。

「真依さんの射撃の腕は見事です。きっと役に立つはずですよ、特に相手が呪詛師の場合は」

「……けど撃てても精々一発よ」

「それなら一撃必殺でいきましょう。人間なんて脳幹を破壊すればイチコロです。一発で仕留めちゃえばこちらのものですから」

 真面目くさった顔で名前が言うと、真依は小さく吹き出した。
 「あなたって、時々物騒なことさらっと言うわよね」呆れた様子ではあったけれど、笑ってくれてよかった。真っ白なキャンバスを背にして笑う彼女は、年相応の少女にしか見えなかった。

「それじゃあさっさと調査を終えてホテルに戻りましょ。どうせこんなとこまで来たんだし、温泉に入ってゆっくりしたいわ」

「そうですね、大型の獣という証言と一致していないのが気になりますし……」

「でも残穢からしてさっきので合ってるんでしょ?ならそっちは見間違えたか、ただの熊だったかじゃない?猟友会に任せましょ。私たちの仕事じゃないわ」

 真依は空薬莢を手で弄びながらそう言った。名前も「そうですね」と頷いた。

 ──けれどまさか、帰り道で畑を食い荒らす熊と遭遇し、銃を抜くはめになろうとは。

「さっきのが所謂《フラグ》ってやつだったのね……」

 真依の顔は行きよりもずっとげっそりしている。
 「もう二度とこんなところには来ないわ」頬についた土埃を忌々しげに払う彼女を宥めて、名前は約束通り温泉へ連れていった。
 その温かさが疲れた体にどれほどの効果を齎したかは語るまでもないだろう。京都へ戻る道中、真依が文句を言うことは一度としてなかった。