ごうっ、と重たい風の音がして、名前は思わず体を竦めた。
他に物音がしないせいだろうか。今晩はやけに騒がしく感じられる。女子寮の中で起きているのは今、名前以外にいなかった。
寮の共同スペースには大きな窓が取りつけられていた。古びた木枠は勢いある風のために軋んだ音を立てている。外はきっと凍えるほどに寒いのだろう。夜露に濡れるガラスを見て、名前は己の肩を抱いた。
室内は暖房のお陰で心地いい温度に保たれている。けれどどこかうそ寒く、心細い。落ち着かない心のまま、時計を見上げた。かちり、かちり……。進む秒針と脈打つ心臓。それから、ごうごうという唸り声。他にたとえようもない、嫌な感覚だ。
──けれどいったい、何を恐れているというのだろう?慣れ親しんだ学校のなか、怖いものなどあるはずもない。なのにどうして?どうしてこんなにも不安になるのだろう……。
「あれ?まだ起きていたのかい?」
ドアが開いて、声がした。自分以外の、人の気配。それを認識するかしないかのうちに、名前は弾かれたように顔を上げる。そんなことをしなくても、それが誰であるかなんて本当はわかっていたのだけれど。
「傑さん、」ちっとも進まない課題や片付かない書類の存在を
「おかえりなさい」「ああ、ただいま」たったそれだけのやり取りで、重たい夜の気配は遠退いた。風の音すら、今はもう遠い。
「もしかして待っててくれたの?」
「だって今晩お帰りになると仰っていたでしょう?」
夏油傑。名前の先輩であり、特級呪術師に位置づけられたばかりの彼は酷く多忙な男だ。朝も夜も、場所さえ問わず、任務はひっきりなしにやってくる。
それは即ち彼への信頼と期待の裏返しであるのだろうが、名前には時々それが堪らなく憎らしく思えることもある。彼だってまだ学生の身分だというのに──この人を必要としているのはあなたたちだけじゃないのに──行き場のない恨み言ばかりが心のうちに積もっていく。
今晩は雪になりそうだ。受け取ったコートは冷えた雨粒でまだら模様になっていた。外は随分と冷え込んでいるらしい。
しかしそんなことは露とも見せず、彼は微笑む。
「……ありがとう」
「いいえ、こちらこそ。お顔が見れて、安心できました。今お茶を淹れてきますね」
「いや、それくらいは自分で、」
「私がそうしたいんです。だからあなたはそのまま、座って待っていてくださいな」
立ち上がりかけた彼を無理やり座り直させ、名前は台所に立った。
『名前の淹れるお茶は優しい味がするね』と、以前彼は言っていた。そんなことを言われたのははじめてだった。その時のことを反芻しながら、名前は茶葉が開くのを待った。もどかしいような心地いいような、奇妙な時間がそこにはあった。
名前が湯飲みを持って戻ると、彼はまた「ありがとう」と言った。
優しいひとだ。そしてとても礼儀正しい。そういうところは灰原くんに似ているな、と名前は思う。今はもういないその人は太陽のようだった。
対する彼は月。穏やかな優しさは、いつの間にか名前の傍らにあった。名前の傍らにあるのが当たり前のようになっていた。
「ずいぶん苦戦していたようだね」
お茶を飲み、一息いれてから彼は言った。その目が指し示すのは机上に広げられたプリント。『進路希望調査』と銘打たれたそれの回答欄には未だ空白が横たわっていた。
「ええ、まぁ」恥ずかしいような情けないような気持ちになって、名前は頬を染める。「呪術師になる、……それ以外の道を訊ねられるとは思ってもみなかったので」
こんなことで今さら頭を悩ませるなんてバカげてる。その自覚があるからこその羞恥。【彼ら】のように、確固たる自分というものが確立されていれば悩むこともなかったろうに。
「……なにかあった?」
夏油傑は優しい。優しい上に察しがいい。名前自身気にしないようにしていたことまで見事言い当てる。
なにかあった?──その言葉、気遣いに溢れた声に、反射的に頷いてしまいそうになる。その代わり、名前は曖昧に笑った。
「いいえ、特別なことは、何も」実際、その通りだった。
特別なことなど何もない。いつも通りの日々。任務と、勉学と、それだけを行き来する生活。その中で投げ掛けられたひとつの問い。卒業後の進路。呪術師になるか、それとも──?前者以外の道など、名前の中には存在していなかった。
けれど、あぁ、「名前、」促すように名前が呼ばれる。囁き、どこまでも優しく、過ぎるほどに優しい声。大丈夫だよ、と言外に告げてくる、こえ。
「……七海くんは、就職するみたいです。普通の……呪術師とは関係のない、一般企業に」
だから言ってしまった。心中に波紋を生むきっかけとなった一件。名前に呪術師以外の道を示した友人のことを。いつの間にか、遠く隔たってしまった人のことを。
その名を口にすると、途端に胸が痛んだ。
夏油は「そうか」と静かに顎を引いた。そうか、それもひとつの選択だ。名前とは違い、そこには動揺のひとつも見られない。彼は大人で、名前は子どもだった。何も知らない子ども、そのことを痛感させられた。
「私、全然気づきませんでした。七海くんが悩んでいたことも、何も。……友だち、だったのに」
「友人だからといって何もかもわかるはずがないさ。私だって悟の行動には驚かされてばかりだ」
「でも、……それでもやっぱり悔しいです。気づきたかった、彼の選択を祝福してあげたかった。……でも、できなかった」
名前は唇を噛んだ。思い出されるのは昼間のこと。気まずげに打ち明けてくれた七海の顔や、強ばった声、気の利いた台詞のひとつも言えなかった自分。そんなことばかりが思い出された。思い出されるたびに、後悔が打ち寄せた。膝の上では血の気を失った両手が握りしめられていた。
その手に、宥めるような温もりが重なる。
「そんなに自分を責めることはないよ」
視線を上げると、柔らかな眼差しに包み込まれた。
「どんなに親しくたって相手が何を考えているかなんてそうそう察しがつくものじゃない。実際、いま私が考えていることだってわからないだろう?」
それは謎かけだった。難解な、そして深遠なる謎。解き明かすため、名前はその深い深い瞳の黒を覗き込む。
けれどそこに映るのは幼さを残した自分の顔。それだけで、彼の目は何も教えてくれない。「……何を考えていらっしゃるのですか?」そう問いかけても、含み笑いで返される。
「それは内緒。君に嫌われたくないからね」
「あなたを嫌いになることなんてあり得ませんよ」
「ふふ、嬉しいことを言ってくれるね」
……本当のことなのに。
なのに彼は冗談と受け止めたのか、その声には真剣さが感じられない。笑って、名前の頭を撫でてくる。双子にするみたいに、……幼い子どもをあやすみたいに。慈愛に満ちた手つきは決して不快なものではなかったけれど、時にそれはもどかしさを感じさせるものでもあった。
だからといって手を振り払うのもおかしな話。心地よさと理由のない焦燥感。その感情を表す言葉も行動も、名前にはわからなかった。わからなかったから、目を伏せた。
しかしそれはほんの一瞬のこと。「名前、」呼び掛けと共に頬へと添えられた手。『顔をあげて』と促され、そろり窺い見た先で待っていたのは柔和な微笑み。大丈夫、何も恐れることはない。不安も焦りも必要ないのだ──そう教えてくれるのは、頬を撫でる指先であり、鼻先を擽る吐息であり、とろけるような眼差しだった。
「だから難しく考えることはないんだよ。七海のことも、進路のことも。呪術師を続けたっていいし、嫌になったら途中で辞めればいい。私は名前の選択を尊重するし、例え呪術師でなくなったとしても側にいる。……それじゃ不満かな?」
「……っ、いいえ、いいえ……!」
──どうしていつも、ほしい言葉をくれるのだろう。
内心を見透かしたかのような台詞、微笑。そのただなかにあって、名前は大きく
言うべきこと、伝えたいことは他にもあった。不満なんかじゃない、そう否定する以上の何かしらの言葉が。あるはずだ、と心は急くのに、声にならない。打ち震える心臓のせいで、意味のある語はすべて胸中に塞き止められていた。
でも、これだけは言わなくちゃ。名前は激情を抑えて、口を開く。「ありがとうございます、傑さん」抑えたつもりだったのに、そう言った声は震えていた。
「すごくホッとしました。私はきっと、その言葉を待っていたんでしょうね」
「よかった」
静けさのなか、仄かなる月明かりが窓辺から射し込む。和やかに緩む目許を照らし出す。
静謐なる黒檀の色。清らかなる夜の色。黒一色であるはずなのに、その双眸には不思議な光が瞬いている。
「でもまぁ、私個人としては……そうだな、私の名字を貰ってくれると嬉しいんだけど」
そういえば、いつの間にか雨は上がっていたらしい。ほの白い月の気配を感じる。この分だと今夜は嵐になりそう。そんな予感はもうどこにも残っていない。
「夏油名前、──うん、なかなかいい響きじゃないか」
彼の言っている内容が理解できなかったのは、そうしたことに気を取られていたせいだろうか。自分を見下ろす月明かりのなか、名前はぼんやりと思考を巡らす。
──傑さんは今、なんの話をしているのだろう?
「年が明けたらうちの家族と会ってくれないかな。もちろん、君のご両親にも。こういうことはちゃんとしておかないとね」
「あの、それって……」
「それとも、私が伴侶では役者不足?」
伴侶。その単語に、名前は目を見開く。
思い違いなどではない。聞き間違いなどではない。彼は確かにそう言った。そしてそこにはただひとつの意味しか存在していなかった。彼が言わんとすることを、この時になってようやく名前も諒解した。
「そんな……それだけはありません、絶対」それだけ言って、名前は胸元を押さえた。あまりの衝撃に、思考が纏まらない。
「あなたこそ良いのですか?まだまだ半人前の私で、」
「手がかかる子ほど可愛いって言うよね」
「世間知らずで、ご迷惑をおかけしてしまうかも」
「人にものを教えるのは嫌いじゃないよ」
「それに私、私は……」
瞬間、
「私、灰原くんのことが好きでした。ううん、きっと、今でも好きなんだと思います」
灰原への想いはまさしく物語のようだった。はじめて手を握ってくれたひと、呪わしい力を褒めてくれたひと、稲妻に打たれたかのような衝撃を与えてくれたひと……、すべてが物語じみていて、だから名前はその感情に【恋】という名をつけた。
「……傑さんのことも好きです。でもそれは【恋】じゃない。灰原くんとは、ちがう。何もかもが違うんです」
名前は独り言のように言葉を続けた。その間、彼は口を挟まなかった。相槌を打つことすらなく、黙したまま名前の肩を抱いていた。
名前にとっての【恋】は出会いからして運命的なものだった。笑顔を見るだけで浮き足立ち、手を握られるだけで心臓はけたたましく、言葉を紡ぐことにすら頭を悩ませる。そういうものを名前は【恋】と定義した。
でも夏油傑に対する想いはそのどれにも当てはまらなかった。彼の隣では穏やかな時間が流れていた。微睡むような心地よさと、時おり射し込む深い翳り。彼が与えてくれるのは安寧であり、一抹の不安だった。……灰原とは、何もかもが違っていた。
「だから、私は──……」
暫くの沈黙があった。かそけき葉ずれの音すらなく、永遠にも似た静寂が辺りを満たしていた。
その後で、彼はゆっくりと口を開いた。
「……それじゃあ、私のことはきらい?私の側にはいられない?」
「……いいえ、」
けれど違うからこそ、離れがたくも思う。翳りに不安を感じるからこそ、目を離せなくなる。だから、──あぁ、答えなど本当は最初から決まっていたのだ。
「それでも私はあなたの隣にいたい。許されるなら、最期のその時まで。……あなたと、本当の家族になりたい」
それこそが答えだった。言うべきこと、伝えたいこと。そのすべてがこの一言に集約されていた。それこそが名前の願いであり、進むべき道だった。
口にする、ただそれだけで開ける視界。言い終えてから、名前はそっと彼の胸に体を預けた。そうするのが当たり前なのだと、本能的に理解した。
そしてそれはきっと間違いじゃなかった。
「……うん、それで充分だよ」
そう言った彼が、抱き締めてくれたから。その腕の中に安息を見出だしたのだから、この選択こそが正しい道だったのだろう。
浮き足立つことも、心臓がけたたましく鳴り響くもないけれど、そこには確かにひとつの幸福が存在していた。