硝子の指が何かを探すように動くのを認めて、夏油は懐を探った。
「硝子、アメ」
「ん?あぁ……」
夏油が差し出したのは棒つきのキャンディ。それを大人しく銜え、硝子は笑う。「甲斐甲斐しいことだな」それが誰のためであるか、彼女は知っている。知っているからこそ、彼女は笑う。「あの夏油がね」と。
それは夏油自身が感じていることでもあった。まさか自分が。自分がこんなにも強く、誰かを求める日が来ようとは。未だに信じがたく、他人事のように思うところさえある。
だから夏油は「そうだね」と首肯した。そうだね、その通りだ。人生何があるかわからない。非術師の愚かさに頭を抱えるのも、彼ら【猿】を救うことに疑念を抱くのも。……その一歩手前で踏み留まれたのも、まったく不思議なことであった。
「でも驚いたよ、硝子まで禁煙するなんて」
「じゃなきゃ名前たちには近づかせねーってすごい顔してたのはどこのどいつだよ」
「……そこまでは言ってないだろう」
「口ではね」
「でも目がそう言ってた」そう続ける硝子の黒い瞳。奥には揶揄いの光が瞬いていた。
それは彼女なりの冗談であって、真実ではないのかもしれない。本当のところ、夏油にはわからない。硝子のことも、名前のことも、……自分自身の、ことですら。
無知で愚かな猿どもを憎らしく思う。けれど同じ心でまた別のことも考えている。無知で愚かな名前、──そんな彼女を愛おしくも思っている。そこにいったいどんな違いがあるというのだろう?他の誰とも違う何かを彼女が持ち合わせているとでも?
美しいだけの人間も、優しいだけの人間も、珍しくとも替えの利かない存在というわけではない。そうわかっていてなお、名前だけは手放せない。手放そうという気にすらならない。
彼女には何か、特別なものがあるのだろうか。そう考える傍ら、『そういう話ではないのだ』とすべてを諒解する自分もどこかに存在していた。
「まぁ、悪いことじゃないと思うけどね」
多くのものを見透かす目で、硝子は言う。
冬の始まりの昼下がりの頃。始業のチャイムはまだ鳴らない。手慰みに回していたペンはいつの間にかノートの上で転がっている。転がり、ひとりでに立ち止まる。ひとつの場所へ。行き先は既に定まっていた。夏油自身の、行く道も。
「珍しく優しいじゃないか」苦笑すると、硝子は肩を竦める。「どっちのクズがマシかって話、それだけだよ」冷めた調子で言われるけれど、重要なのはその内容だった。硝子が『クズ』と呼ぶ人間はふたりしかいない。
「……悟か」
たったひとりの親友であり、たったひとりで最強となった男。──名前が、一番に頼った男。考えないようにしていたことが、硝子の言葉によって目の前に横たわる。
強くなりたいと願った名前が最初に教えを請うたのは、私ではなく悟だった。たったひとりで最強となった悟が、それでもなお必要としたのは私ではなく名前だった。ふたりの修行が苛烈さを増していくほど、その距離は縮まっていった。──少なくとも、夏油にはそのように思われてならなかった。
「悟は……」
「ん?」
「……いや、なんでもない」
自分は果たしてどのような答えを求めていたのだろう。硝子に聞いたところで栓無きこと。当人に訊ねない以上、憶測の域を出ない。
けれど口にしかけた言葉を呑み込んだ理由はそれだけじゃなかった。夏油はただ、恐れたのだ。言葉には大きな力がある。声に出してしまったら、それは真実となってしまう。そんな気がしてならなかった。
だから声にならぬ言葉は変わらず心の奥底へ。悟は、名前のことをどう思っているのだろうか。──そして、名前は。彼女は誰を想っているのだろう?そうした問いを、夏油は胸のうちに沈めた。
硝子は「そう」と小さく顎を引いた。「ま、ほどほどにな」
流血沙汰はゴメンだ、と続ける彼女の横顔は淡白なもの。けれどこれが彼女なりの気遣いであったのだろう。元来、家入硝子という人間は、他人のことに口を出すタイプではなかった。
「……学生結婚というのはありなんだろうか」
「さぁね。でも呪術師の家系なら子ども作るのもひとつの仕事だから、まぁ早いに越したことはないんじゃない?」
唐突ともいえる話題の転換にも硝子は動じない。すべてを理解しているとばかりに、「特に名前の実家はその傾向が強いな」と教えてくれた。
「あの家はよく言えば柔軟、悪く言えば節操がない。だから術式が珍しければ珍しいほど歓迎されるだろうね」
そういえばそんな話も聞いた気がする。様々な血を取り入れ、取り込んで、生き永らえてきた一族。名前は確か、自嘲混じりにそう言っていた。
……けれどそれは、夏油にとって好都合なことでもあった。
「初めて自分の術式に感謝したよ」
「そう、おめでとう。よかったね」
「ああ、ありがとう」
「何が?なんかめでたいことでもあったっけ?」
第三者の声に、夏油も硝子も顔を上げる。教室のドア、現れたのは先刻までの話題の人物。五条悟──最強の呪術師は顔に似合わない粗野な手つきで椅子を引いた。
「任務は?」「終わらせたに決まってるじゃん」硝子の問いに答え、五条は「で?」と頬杖をつく。『それでいったい何の話をしていたんだ?』と。
そしてそれに応じたのは夏油ではなく硝子だった。
「こいつ、結婚するんだって」
「へえ?お相手は?ローズ・マッゴーワン?それともメアリー・エリザベス・ウィンステッド?」
「……名前だよ、私たちの後輩の」
完全に冗談だと思っていたらしい。女優の名前を挙げ連ねる五条に、夏油は答える。極めて淡々と、表情のひとつさえ変えず。言い切ると、五条の目は見開かれた。
「は?マジで?」
「私はいつでも真面目だよ」
「……ふぅん?」
微笑むと、五条は眉を寄せる。「傑がねぇ」その声色から滲むのは不平、不満。あからさまに不服だと示され、少し意外に思う。
表面上だけでも取り繕うかと思っていた。自覚がないだけだろうか、……それとも?続く考えに、胃の腑にどろりとしたものが込み上げる。それとも、そんな余裕すらないのだろうか。──あの、五条悟が。
「祝福してくれないのかい」そう考えているのに、こんなことを言う自分はなんと酷い男だろう。こんな自分でも彼は親友だと言ってくれるのだろうか。自分は彼の親友でいられるだろうか。──こんな私を、名前はゆるしてくれるだろうか。
「拗ねてるんだよ、
「そんなんじゃねーけど!?」
鼻を鳴らす硝子に、五条は食ってかかる。……ものの、勢いはすぐに霧散。立ち上がりかけて、また腰を下ろす。その口から洩れるのは深い深い溜め息。
「ほんとにそれでいいのかよ。だってあいつ、年下じゃん。まだガキだよ、傑の趣味じゃねーじゃん」
「年下といっても一歳しか違わないじゃないか。それに好みと実際どうなるかはまた別の問題だよ」
「そーかよ」
興味などない。感慨も、関心も。そう言いたげに、五条は手を振る。
「ま、オメデト」それで終わりだった。恐らく、五条悟にとっては。素っ気ない祝福を述べることで、彼はひとつの区切りをつけた。
悟の方がよほど大人だな、と夏油は思った。思いながら、「ありがとう」と微笑んだ。薄曇りは未だ晴れない。これは恐れだろうか。不安か、或いは疑念。それに類するものが、夏油の心にいつまでも巣食っていた。
「せいぜい愛想つかされないようにしとけよ。そうなったら俺のとこに回ってきそうだし」
「回ってきそうって何が?」
「だから名前だよ。あいつの家、俺んとことも交流あるからさ、嫁にどうだって前から言われてんだよ。術式だけならまぁ、結構面白いもん持ってるし」
彼は何でもないように言った。事実、深い意味はなかったのだろう。五条は欠伸をして、机の上に突っ伏した。
その向こうには薄曇りの空が広がっていた。そういえば夕方から雨になると今朝のニュースで言っていた気がする。そんなことを今さらになって思い出した。
「……それは知らなかったな」据わりの悪さを覚えて、脚を組み直す。
「ははは。こえー顔」
けれどそれは徒労であったのだと、硝子の言葉で理解した。
まったくの無駄。骨折り損。装ったはずの平静は、引き攣る笑みや抑えられた声、そうしたものによって白日の元に晒されたのだ。
「せっかく猫被ってんだから、名前に会う前に直しとけよ」
「大丈夫、彼女の前では好青年で通ってるから」
そんなヘマはしない。実際、彼女の隣にいると優しい気持ちになれるのだ。まるで彼女という存在の一部分と溶け合ったかのように。
だから、大丈夫。アドバイスしてくれた硝子に、にっこりと笑みかける。
すると、硝子と五条は顔を見合わせた。
「好青年、ねぇ?」
「傑の方が俺よりクズじゃね?」
「五十歩百歩、ドングリの背比べだろ」
「酷い言いぐさだな、二人とも」
だが二人の方が正しいことは夏油自身よくわかっていた。
どうしたら上手く事を進められるか。どうしたら彼女に受け入れてもらえるか。今だって、そんなことばかりを考えている。
できるだけ早く片をつけなければ。静かに決意を固めている夏油の横で、硝子はキャンディを噛み砕く。
「可哀想な名前」彼女の呟きに、残念ながら答える者はいなかった。