百貨店の中を歩いていると、どこからか甘い匂いが漂ってきた。
何とはなしに視線を巡らせる。と、すぐに匂いの元はわかった。華やかな
「バレンタインか」
隣で硝子が呟く。なんの感慨もなく、淡々と。
けれど名前だってひとのことは言えない。「もうそんな時期だったんですね」今の今までそんなこと、すっかり頭から抜け落ちていた。そういえばそんな行事もあったなぁ。他人事のように、そう思う。
二月の頭、バレンタイン当日はまだ一週間も先のこと。けれど催事場から出てくる女性客の手には紙袋が握られている。そのどれもこれもがチョコレートだなんて。なんだか違う世界にでも迷いこんでしまったみたいだ。
「寄っていかれますか?」
「いや、いい。匂いだけで十分だ」
まぁそうだろうな。予期していた通りの返答に、名前は頷く。硝子は甘いものが苦手だ。それにこうしたイベントごとへの興味も薄い。
今だって、「よくやるよな」と感心しているんだか呆れているんだかよくわからない表情で女性たちを眺めている。
「名前はいいのか?買っていかなくて」
……と、その目が名前へ向けられた。
「去年はやってたろ。灰原とか七海とかと。色んなチョコを持ち寄って……って」
「ええ、まぁ。灰原くんの発案で」
去年のバレンタイン──そうか。もう、一年も前のことになるのか。
あの頃は楽しかった。見るものすべてが新鮮で、ひどく浮かれていた──のだと思う。夢の中にいるようで、だから思い出そうとすると雲を掴むような感覚に陥る。おぼろげで、不確かで、曖昧模糊としている。幸福だった頃の記憶が冷たい現実に蝕まれていく。
青く──蒼ざめた──あの膚の感触!
追憶を遮るのは生気を失った灰原の顔だった。冷たく凍りついた亡骸。その手に触れた瞬間の、ゾッとするようなあの感覚。青く──蒼ざめた──ひとではない、なにか。
そう思ってしまったのが悲しくて、怖くて、恐ろしくて、──(ごめんなさい、灰原くん)──あぁ、めまいがする──
「──名前?」
腕を掴まれ、我に返る。意識が身体に宿る。雑踏のなか、遠退いていた活気が力を取り戻す。
「貧血か?」硝子は眉根を寄せて名前の顔を覗き込んでいた。「顔色が悪い」青白くなっている、と彼女は言う。
青白く──蒼く──蒼ざめた──(それは、灰原くんの色だ)──馬鹿げた連想に、名前は首を振る。「大丈夫です」すこし、人混みに酔ってしまった。ただそれだけのこと。
「……無理するな」
硝子は深く踏み込むことはせず、その代わりに名前の頭を軽く一撫でした。その優しさが申し訳なくて──どうしてか怖くもあって──名前は曖昧に笑った。
私はいったい、何を恐れているんだろう?わからないのが余計に恐怖を駆り立てる。そんな気がしてならなかった。
「でも……そうですね、今年も用意しておこうかな」
「ああ、七海も喜ぶだろ」
「七海くんのお口に合えばいいのですけど」
たったひとりの同級生。七海建人は優しいひとだったけれど、食に関しては一家言持っていたりもする。旨いものは旨いと言うし、逆もまたしかり。飾らぬ言葉で評価を下すから、既製品といえど気は抜けない。
彼好みのチョコレートとは果たしてどんなものだろうか──
そんなことを思いながら、催事場を遠巻きに眺める。
そんな名前の横で、硝子は溜め息をひとつ。「じれったいなぁ」……はて、どういう意味だろう?
「さっさと付き合うなりなんなりすればいいのに。好きなんだろ、七海のこと」
その言葉に、名前は後頭部を殴られたような衝撃を受けた。
「……どこか、わからないところでもありましたか」
「手が止まってますよ」と七海に言われて、名前は『はい』とも『いいえ』ともつかない声を洩らした。
高専寮内。男女共用スペースである茶話室には、あいにくとふたり以外の人影はない。だからこそ気遣わしげな七海の視線がことさら突き刺さる。そんな風に感じてしまう。
わからないこと。なんて、そんなの山ほどある。むしろ何もかもがわからないと言ってもいい。でもそれを言ってどうなるのだろう。誰にも言えない。打ち明けられない。──特に、彼には。
それだけはわかっていたから、名前は「なんでもないよ」と慌てて言い直す。言い直して、無理やり目の前の教科書に意識を集中させた。
雨月物語、第六夜。吉備津の釜。夫に裏切られた女が鬼と化し、復讐を遂げる物語。現代語に訳しながら、そんな彼らに思いを馳せる。
男はどうして愛したはずの女を騙し、果ては裏切りまで行ったのだろう。女はどうして鬼と化してまで愛したはずの男を追ったのだろう。どちらの気持ちも、名前にはわからない。
──もしも自分だったら。
たとえばそう、灰原くんに嘘をつかれたとしたら。その時私は、彼を
きっと深い悲しみがこの身を切り裂くだろう。悲しくて、苦しくて、女──磯良のように床に臥せってしまうかもしれない。男を恨むことも、あるかもしれない。
けれど呪うことまではできない、と名前は思う。激情は遠く、どこまでも他人事。愛したひとが自分ではない別の誰かを選んだとしても、それが定めと受け入れる様が目に浮かぶ。……諦めることには慣れているから。
だから物語に描かれる愛や情念といったものは名前にとって身に余る代物だった。
──では他の人だったらどうだろう?五条先輩なら、硝子先輩なら、──七海くんなら、
それは厭だなぁ、と思った。
思ってから、その想像は容易く現実となりうるのだということに気がついた。
「…………」
名前はそろりと視線を上げた。教科書の向こう、真向かいに座る七海は黙々とペンを走らせている。
けれど声をかければ応えてくれるだろう。友だちだから、この茶話室にはふたり以外の人間はいないから。
でも名前は彼の恋人ではないし、妻でもない。家族でもないから、いつの日か彼に応えてもらえなくなる時が来るのだろう。友だちというだけでは、永遠は約束されないのだ。そんなことに今ごろになって気づかされた。
けれどこれは呪術師である以上避けられない未来だ。子をなすこと、家を守ること。それが何より大事なことなのだと教えられてきた。だからこれは遠くない未来に襲い来る現実だった。
仕方ない。それもまた定めのひとつ。諦めることには慣れているから、大丈夫。悲しくて苦しくて、想像だけで臓腑が捩れそうだけど、そんな感じがするけれど、でもへいき。ちゃんと幸せを願ってあげられる。彼と、彼が選んだ誰かの幸福を──
ああでも、彼を連れ去ってしまうことができたら──磯良がしたように、身も心も我が物にできたなら──それはなんて──なんて甘美な夢だろう────
「……っ、」
指先からペンが転がる。転がり、ノートの上を滑る。滑って、床へと落下する。静寂にちいさな衝撃音が響く。目の前に座る彼が、顔を上げる。
「落としましたよ」
ペンは彼の爪先に当たって止まった。立ち尽くし、途方に暮れるそれ。屈み込んだ名前の前で、彼もまた手を伸ばす。
指先が触れる──刹那、名前が掴んだのは七海の手だった。
「あの、」
困った顔をしている──と思う。そうさせているのは自分なのに。なのに気分は聴衆で、意識はどこか宙を浮遊している。
手を離さなきゃ──離したくない。
ごめんねって謝らなきゃ──ううん、本当はもっと違うことが言いたい。
「──すきです」
あぁ、そうだ。ほんとうはずっと、そう言いたかった。
置いていかないで。どこにも行かないで。ひとりにしないで。私だけを見て、必要として。
醜い欲も、呪う心も。何もかもすべて、その一言に集約されていた。
「……すみません、こんなことを言うつもりじゃなかったんですが」
──けれど呪いの言葉を吐いたのは、名前じゃなかった。
すきです。そう言った七海は、言ってしまったことを悔いるかのように口を覆った。
「すみません」もう一度謝罪の言葉を紡いで、彼は目を伏せる。「深い意味はありませんから」どうか気にしないで。──なかったことにしてほしい。
どうしてそんな、悲しい顔をするのだろう。
どうしてそんな、悲しいことを言うのだろう。
「私は、嬉しかったのに」
でもたぶん、私の方が好きだよ。
「……友人として、ですよね」
「そうだね。でもそれだけじゃないよ」
名前が言うと、七海は目を見開いた。「そんな、まさか」あり得ない。信じられない、と
どうしたら信じてもらえるだろう。名前は掴んだままの手を見下ろす。
こんなにも離れがたく思っているのに。この想いの一欠片でも触れたところから伝わってくれればいいのに。──隔たりなんか、なくなってしまえばいいのに。
「『今はひたすらにうらみ嘆きて、遂に重き病に臥しにけり』」
ただの友だちなら、怨むことも呪うこともなかった。こんなに執着することもなかったろう。
愛することは呪うこと。昔誰かが言っていた。今ならわかる。その意味が、理由が、痛いほど。
「だから、どこにも行かないで」掴んだ手を握り直す。彼の目を真っ直ぐ見つめ返す。言葉に、呪いを籠める。
「誰のものにもならないで。私以外に優しくしないで。──私だけの、七海くんになって」
「好きだよ」言いたかった言葉は、存外あっさり口をついて出た。「キミが──七海くんのことが、一番すき」誰より、何より。声に出すと、充足感で満たされた。
誰かを犠牲にしてでも、何かを裏切ってでも、この場所を守りたい。誰にも譲りたくはない。そんなひとが現れたら、きっと呪ってしまう。
「……約束します」
気づいたら抱き締められていた。茶話室のテーブルの陰、膝立ちの格好のまま。抱き締められ、名前はその背に手を回した。そうするのが自然で、当たり前のことなのだと思った。七海の腕の中はとても居心地がよかった。
「約束しますから、だから貴女も、」
「……うん。ずっと、ここにいるよ」
これは呪いだ。永遠を誓う呪い。永遠を叶えるために、身勝手な欲望のために、幸せを願うべき相手に呪いをかけた。
そう、わかっていたけれど。
「……ありがとう」
でも後悔はない、と名前は思う。
視線を上げると、七海は仄かな微笑を口許に宿した。とても控えめな笑い方だった。けれど名前には黎明の光にも等しかった。その滲むような笑みも、温かな眼差しも、名前は愛していた。
──はじめて触れた、唇の感触も。
胸に溢れるのは、途方もない愛おしさだった。