七海くんと雪の日
一夜開けるとグラウンドは一面の銀世界に変わり果てていた。余程冷え込んだのだろう。ここまで見事なのは中々見たことがない。
とはいえそんなもので心踊る年頃はとうに過ぎ去った。……尤も、七海にはそんな記憶もないが。ともかく雪で喜ぶのは小学生までというのが彼の認識だった。
「おーい!雪合戦しようぜ!」
しかし高専に来て以来、七海の常識は脆くも崩れ去る毎日。それは主に現代最強の呪術師であるこの男、五条悟のものによるところが大きい。
彼は七海の常識から遥かにかけ離れたところに位置する。例えば朝っぱらから後輩の自室のドアを開け放つなど、七海にとっては信じがたい行いだ。せめてノックくらいはしてほしい。
「……お一人でどうぞ」七海は起き抜けの低い声で退散を願う。朝イチでこの先輩の顔を見るなんて最悪だ。最悪の災厄。どうせなら彼女の顔が見たかった。愚にもつかないことを考えながら、七海は私服に着替える。この先輩の前で遠慮などバカらしい。それがこの二年で学んだことだった。
すげなく断る七海に、五条は「えー!」と不満の声。朝から元気な人だ。
「二人じゃさすがにつまんないよ」
けれど以前にもまして騒がしくなったのは、彼も寂しさを感じているのかもしれない。七海が灰原を思うように、五条もまた、彼のことを。
……なんていうのは勿論、七海の勝手な想像に過ぎないのだが。
──それにしても、彼は今なんと言っただろう?
「……二人?」
「別に僕はそれでもいいけどね。でも名前だけじゃ勝負になんないんじゃないかなぁ?なんたって僕、最強だし」
まだ眠りの覚めきらぬ鈍い頭。それが五条の言葉で──正確には彼が口にした名前で──一気に覚醒する。
七海は振り返る。今の今まで背を向けていたドアへ。仁王立ちする五条を、その後ろから顔を覗かせる同級生を。
「おはよう」と微笑む彼女の顔を見たいと確かに思った。思ったけれど、それは今じゃない。
七海は五条がやって来てから今までの自分の行動を思い出す。……最悪だ。
「……おはようございます、名前さん」
「あっはっは、すげー顔だな七海ィ!」
爆笑する五条に怒る気力も湧かない。七海は宙を仰ぐ。今はもう何も考えたくないというのが本音だった。
しかし傍若無人極まりないこの先輩が待ってくれるわけもなく。
「それよか七海、来んの?来ねーの?どっちよ」
「……彼女の同意は得ているんですか?」
「おいおい、後輩人気ナンバーワンの僕だよ?僕が誘えば名前だって頷くに決まってるじゃん」
口先から生まれたような男だ。言葉の殆どが出鱈目、真面目に聞くに価しない。
聞き流し、七海は「どうなんですか、名前さん」と同級生に目をやる。
呪術師の家に生まれたためか些か一般常識には欠けたところもあるが、それでも彼女は良識的な人だ。名前に話を聞いた方が早いし、精神衛生上の問題もある。
「私は……七海くんが来るって聞いたから」
恐らく五条悟の口八丁手八丁に騙されているのだろう。そう七海が推察した通り、名前はぐるぐるに巻かれたマフラーの中で小さく首を傾げる。
「五条先輩と遊ぶ約束をしてるんでしょう?」純粋な眼に、七海の胸は痛む。そ知らぬ顔で口笛を吹いている張本人には良心というものがないのだろうか。
けれど否定しなくてはならない。何より七海自身の名誉のために。
「……この人とそんな約束しませんよ」
「……?でも五条先輩がそう言って、」
不思議そうに仰ぎ見る名前に、彼は「え?そんなこと言ったっけ?」とすっとぼける。よくもまぁここまで堂々と嘘をつけるものだ。逆に尊敬する。こうはなりたくない。
「……言ってませんでした?」
「言ってない言ってない。それ存在しない記憶だよ」
「そんな……いつから私の記憶力はこんなに衰えてしまったんでしょう……」
「まぁまぁ細かいことはいいじゃないの。さ、名前、僕たちは先に外に出てようか。七海も早く準備して」
止める間もなく五条は名前を引きずっていく。名前は名前で己の記憶の不確かさに気を取られ、抵抗すらできていない。
このままでは五条に何をされるかわかったものではない。七海にはあとを追うより他に道はなかった。
早朝特有の凍てつくような空気。寒空の下、何が楽しくてわざわざ外に出るのか。しかも余計に寒くなるような真似、自殺行為に等しい。馬鹿げてる、と七海は思うのだが五条悟はいたくご機嫌だった。
「はい、僕の勝ち〜!」
「無下限を使うのは卑怯です!反則です!断固抗議します!」
「試合終了後の抗議は受け付けませ〜ん!」
「では再戦、再戦を要求します!」
「え〜、ヤだ。なんかもう飽きちゃったし」
それは真面目に付き合ってくれる人がいるからだろうか。雪にまみれた名前は悔しげに歯噛みしている。そんな彼女を見下ろす五条の目は弓なり。愉快だと笑う彼は名前の頭をくしゃくしゃに掻き撫でた。
こんな遊びにどうしてそこまで真剣になれるのだろう。七海には本気でわからない。
けれど少しだけ羨ましくも思った。彼は名前と同じ目線に立てる人だ。二人は根っからの呪術師で、この学校で自由を得た。平凡な日常の尊さを知っている。七海が下らないと思うことの物珍しさを、楽しむことを知っている。
「ねぇコンビニ行こうよ。冷えたしさ、今なら優しい先輩が奢ってあげるよ?」
「そんな、いいですよ。自分のものくらい自分で買います」
「ダメダメ、ここは先輩を立てなくちゃ」
「先輩とはそういうものなんですか?」
「そうだよ。よかったね、名前。ひとつ賢くなったじゃん」
「なるほど……。私も今度伊地知くんに実践してみます」
「あー、伊地知はいいの。そういう決まりだから」
「む……、さじ加減が難しいですね……」
雪原の中に浮かぶ白と黒。見れば見るほど似合いの二人に思えてくる。軽快な言葉のやり取り、躊躇いのない触れ合い。いずれも七海にはできないものだ。
折り合いをつけたつもりだった。憧憬も焦燥も。自分のやり方で彼女の隣に立つ、そう決めたつもりだった。
けれど──
「七海くんも行きましょう?五条先輩がこんな優しいなんてお得ですよ、きっと」
「そうそう、お買得だよ〜!」
呼び声に、七海は我に返る。手を振る二人。醜い感情など知らない、晴れやかな笑顔。さほど距離はないはずなのに、どこか遠く感じるのは心持ちのせいか。
迷いを振り払い、七海は二人の元へ歩み寄る。それでもやはり、諦められない。何より名前が望んでくれたから。彼女が必要としてくれる限りは側にいよう。そう決意したからには応えなくては。
──例えそこにどれほどの苦しみがあろうとも。
「タダより高いものはないですよ。五条先輩のことです、後から何を要求されるか」
「はぁあ?そんな可愛くないこと言う七海には奢ってやんないもんね!べー!」
「アナタに可愛がられるなんて寒気がしますから結構です」
ぴしゃりと言い切ると、何故だか名前は笑った。「仲良いね」……本当に、何を言っているのだろう。七海だけでなく、五条まで呆気に取られる。これは非常に珍しいことだった。
「気色悪いこと言わないでよ!ほらっ、鳥肌っ!」
「それはこちらの台詞です。名前さん、冗談でも言っていいことと悪いことがありますよ」
「冗談ではないんだけど……」
五条と共に詰め寄るも、名前は柔らかに微笑む。
「気兼ねしない仲って感じで羨ましいな」
「……物は言いようですね」
それこそこちらの台詞だ、と七海は思う。気兼ねしない仲──五条といる時の彼女も七海の目にはそう映る。
けれど思い違いだったのだろうか。七海は迷いつつも名前の手を取った。厚い手袋に守られた小さな手を。
「どうせなら沢山買ってもらいましょう。今日の五条先輩は大層お優しいそうですから」
「今日の、ってどういうこと?僕はいつでも優しいでしょ?」
「七海くんがそう言うならそうしてみようかな」
「ちょっと名前、無視しないでよ、ねぇ、」
粉雪が舞う中を三人で歩く。七海としては二人で十分だったし、騒がしい先輩のことは鬱陶しいと思う。思うけれど、でも名前が楽しそうにしているから仕方ない。
七海にとって一番に優先されるべき事柄は、彼女の笑顔だった。