【2016.11】
──2016年11月。
その日の夕暮れはどこか不気味な色をしていた。赤く赤く、赤い──美しいまでに鮮やかな血の色。それは外界だけでなく、内側にまで──しんと冷たい放課後の校内にまで及んでいる。今、この瞬間にも。
「…………」
名前は呼吸を整えた。窓ガラスを打ち据える大粒の雨。吹き荒ぶ風は女の啜り泣きというよりは粗暴。降り注ぐ黄昏が、足許を濡らしていく。じわりじわりと滲み、広がり──侵食していく朱の色は、果たして何人分の血液か。
「ごめんなさい、ごめんなさい……っ」
目の前には頭を抱えて踞る少年がひとり。華奢な体躯は頼りなく、あぁ、なんと哀れなこと。
かわいそうに、もう怖いことなんかないよ。そう言ってやりたいのは山々だけど、あいにく名前自身にもそんな余裕はない。冷や汗が、背中を伝った。
「これ、は……」
膨大な呪力の発現を確認した。そう『窓』から報告を受けたのはつい先刻のこと。
先行して現場に向かったのは二級術師が二名。そんな二人はいま、少年の傍らに転がっている。か細いながらも呼吸をしているのは不幸中の幸いか。それとも、この少年の意思か。
少年の背後には、彼を守るようにして唸る怨霊がいた。
わからない。何もかもが、わからない。これほど強大な呪霊がなぜ今まで野放しになっていたのか。少年は呪術師でもなければ呪詛師でもない。一般人の、ごく普通の学生。怯えた姿からはそうとしか見えないのだけど──
「ダメだ里香ちゃん!逃げて……っ!」
少年の声を呼び水に、呪霊が動く。
巨躯とは裏腹に、振るわれた拳は鋭い。抜いた刀でいなし、防ぐので精一杯だ。しかし一撃でもまともに喰らえば生死に関わる。直感的に理解し、名前は唇を噛んだ。
少年は呪霊を『リカ』と呼んだ。それが人であろうがなかろうがどうでもいい。少年が固有の名で呼んだ、それが重要だった。
こうなったら祓う方向は難しい。せめて鎮めるだけでも……、そう考えているうちに、重たい音が響いて床に亀裂が走る。
……しまった、足場が崩された。
「強いな、『リカちゃん』」
ひとりごちる。呪霊が吠える。名前の術式──『反射』によって攻撃が返されても怯まない。腕が捻れ、指が折れようとも、呪霊は止まらない。止まれない。
──たぶん、背後に少年を庇っているから。
「くっ……」
落下しながらも攻防は続く。雨の代わりとばかりに降りしきる瓦礫。呪力が乱れ、呪霊の指先が腕を掠める。それだけで傷口は疼くように痛い。呪いの、その残滓が体の中に入り込む。
重力に従い、やがては一階へ。受け身を取って転がるも、立て直す間もなく拳が叩き込まれる。
一手、二手、三手。刀が弾かれる。咄嗟に呼び出した護法童子すらも打ち破り、呪霊が迫る。
迫る、迫る、死の予感──
「あっぶな……」
その寸前で、引き寄せられた体。呪霊から一足飛びで距離を取り、抱きすくめるその腕、その力強さの正体を、名前が見誤るわけもなく。
「悟さん……」
「もーなにやってんの!あのレベル相手に手が抜けるほど強くないでしょ!」
「すみません、ありがとうございます」
まったくもってその通り。最強無敵の五条悟はいつだって正しい。そう、呪霊との戦いにおいてだけは。
項垂れていると、「まぁいいよ」声と同時に、頭を撫でる温かな感触。
「無事でよかった」
まだなんにも解決しちゃいないのに。なのに笑って、額に口づけをくれる彼に、心底からホッとしてしまう。
仕方ない。名前の体は十年も前にそう作り変えられてしまったのだから。
肋骨が二本と、指の数本、それから右手首の骨折。以上が名前に下された診断である。生活には難儀する怪我だが、相手を考えればそれだけで済んだのは僥倖といえよう。
特級過呪怨霊、折本里香。そう名付けられた呪いはあまりに強大で、上層部は当初、被呪者である少年──乙骨憂太の死刑を主張していたらしい。
「でもさぁ、未来ある若人にそんな可哀想なことできないでしょ?」
それを覆してみせたのがこの男、現代最強の呪術師である五条悟である。
病室のベッド、その傍らにあるパイプ椅子。凡人向けに作られたそれは、彼という器を収めるにはあまりに頼りない。長い足を窮屈そうに折り畳んで、彼は「さっすが僕!教師の鑑だね!」と自画自賛。
その手では淀みなくナイフを捌き、リンゴの皮をするすると向いていくのだから、まったく器用なものである。彼という男は何をやっても最強なのだ。
そんな彼との付き合いももうじき十年になる。一年後輩である名前にとってみれば、学生時代とは変わった彼のその言葉遣いすらもう聞き慣れたもの。「さすがですね」と包帯の巻かれた手で拍手の真似をして、素直な賛辞を送った。
「悟さんでなきゃできないことです。上層部に逆らうなんて……常人はそこまで図太くないですから」
「あれ?それって褒めてる?」
「褒めてますよ、頼りがいがあるってことですから」
「そう?そう?やっぱり僕ってナイスガイ?」
「はい、地上最強です」
硝子や七海が聞いたら溜め息をつきそうなやり取り。しかし五条は満足げに笑って、「はい、あーん」と切り分けられたばかりのリンゴを名前の口許にまで運ぶ。
鼻孔を擽るは瑞々しい果実の香り。濡れた指先に挟まれたリンゴが唇に押し当てられる。早く口を開けろ。そう、急かすように。
「あの、そこまでしていただかなくても……」
「はぁあ?僕の『あーん』が受けられないって言うの?この僕の?何それ!傷ついちゃうなぁ〜!五条先生傷ついちゃうなぁ〜〜〜!」
「えええ……」
えーん、と泣き真似をしてみせる『五条先生』はこれでも高専の教師である。だが駄々をこねる姿に教育者としてのプライドはない。
こんなところ、もし生徒に見られたら。名前は咄嗟に周囲へ目を走らせるが、ここは個室。閉ざされた扉は沈黙を守っている。ついでにいえば、『五条先生』の恥ずかしい姿も。
名前は眉尻を下げ、「悟さん、」と声をかける。
「別に、嫌だったわけじゃないんです。ただ、手ずから食べさせていただくというのはどうにも……気恥ずかしいものですし、申し訳なくて、」
「ここで駄々をこねてるアラサーの方が恥ずかしいと思うけど」
「自分で言いますか、それ」
「だからこれ以上僕が恥ずかしいことになる前に、さ。ほら、『あーん』」
開き直った彼に、これ以上の抵抗は無意味。名前は覚悟を決め、口を開けた。目を瞑ったのは、せめてもの逃避である。
が、五条悟という男はどこまでも未知数。それを改めて思い知らされる羽目になる。
「なっ……!?」
唇に触れたのは果実の感触。……よりもずっと柔らかなもの。
その正体は、「僕の前で隙を見せる方が悪いんだよ」と責任転嫁する男の、悪戯が成功したと言わんばかりの笑顔を見れば明らかだった。
「あなたって人は……」
「ごめんごめん。今度こそちゃんと食べさせてあげるから」
「ね?」と小首を傾げられ、名前は続く言葉を呑み込む。
無言の圧力。なれどその効果は絶大で。最強の男の最強らしからぬ仕草に体は自然、命じられるがまま。
そろり、開けた唇。その口内に押し入るはリンゴのひと欠片。しかし噛んだ瞬間に触れたのは骨ばった白い指の、その腹で。戯れのように唇を撫でられ、つつかれ、なんとも言い難い感覚が背中を走る。
──閉ざされていたはずの扉がガタリと揺れたのは、そんな時だった。
「あ、忘れてた」
しまったしまった。軽い調子でそう言って、離れていく手が惜しいだなんて思っちゃいない。気にかかったのは扉の向こう。
「入っていいよ」五条が声をかけると、遠慮がちに扉が引かれた。
「あの、その、すっ、すみません、お邪魔して……」
「いーのいーの、こっちこそ悪かったね。すっかり待たせちゃって」
身を縮めて入ってくる少年には見覚えがある。
──乙骨憂太。教室の片隅で膝を抱えていた少年が今、高専の制服を着て名前の前に立っていた。
「彼がどうして……?」
「僕が呼んだんじゃないよ。憂太が『どうしても』って言うから連れてきたんだ」
乙骨少年は否定しなかった。
気まずげに目を伏せ、逡巡している様子だったが、意を決したように「あのっ」と口を開く。
「すみません、でした。僕の、僕のせいで、怪我を……っ」
「……?あぁ、」
『どうしても』とは、なるほど、そういうことか。得心がいって、名前は手を叩く。純朴な顔立ちの少年は、その内面も同様というわけらしい。
素直で真面目、純真無垢。あれほど巨大な呪いを背負い、今なおその力の一端が漏れ出ているほどだというのが信じられないくらいに、『いい子』だ。
だから──というわけではないけれど。
「あの時のことなら気にしないで。呪術師ならばよくあることですから」
「でも……!」
「そもそも判断を見誤った私がいけないのです。手加減ができるほど弱い相手ではなかったのに、倒すことより鎮めることに意識が向いてしまっていましたから」
「え……」
「そうそう、憂太が気にすることじゃないよ!弱っちいのに無茶する名前が悪いんだから!」
「事実ですが五条先生に言われると腹が立ちますね」
「ははは、ごめんごめん」
絶対『そう』とは思っていない謝罪を聞き流して、名前は「乙骨くん、」と少年に呼びかけた。
「そういうわけですから、貴方が気に病むことではありません。……とはいえ、それが容易ではないことくらい想像がつきます」
あの雨の日の、惨たらしい現場を思い出す。
嫌がらせへの報復として顕現した呪い。にも拘わらず、少年は謝罪の言葉を繰り返していた。自分を傷つけ、自分が傷つけた人々へ。謝ることのできる彼は、きっと心根の優しい人なのだろう。
──そんな彼だから。
「自分が許せないなら、それなら貴方が傷つけた数よりも、ずっと多くの人を救ってあげてください。高専で学び、得た力で、……自身を赦すことができるまで」
「……はい」
「頑張ってください。でも、無茶はしないでくださいね。私のようになりたくなければ」
冗談めかして固定された指を振ってみせると、乙骨はようやく口端を緩めてくれた。
その顔はまだあどけなさの残る少年そのもので。これから彼が歩むことになるであろう苦難の道に胸が痛んだ。