【2017.06】
長雨が止むと、乾いた空気が体を包むようになる。日毎に鋭さを増していく日差し。夏は近い。首筋を生温い汗が伝った。
「うぐっ」
「はい、一本。お前の負けな」
憂太の脳天を捉えたのは真希の模擬槍。その柄で与えられた重たい衝撃が頭蓋に響く。そこに手加減の一切はなく、遠慮なんてもっての他。
しかし弱音は吐いていられない。『武器の扱いを教えてほしい』とお願いしたのは憂太の方だ。真希はそれに付き合ってくれているだけ。得なことなんて何もないのに、文句は言いつつも見捨てないでいてくれた。
だから優しい人なのだと思う。
「ほら、立てよ。もう一本いくぞ」
「ちょ、ちょっと待って……」
「待たない。呪霊が言うこと聞いてくれると思ってんのか?あまっちょろいこと言ってんじゃねーぞ」
……たぶん。
容赦のないしごきに少し自信をなくしながらも、ふらつく足に力を込める。
しかし刀を構え直したところで、ふと、真希の目が憂太を通り越した。視線の行く先はその後ろ。
「何だよ名前、見学か?」
真希の言葉に、憂太は振り返る。
グラウンドの端、日傘を手に佇む女性の影。目を凝らして見れば、たしかに真希の言う通り。すぐにわからなかったのはいつものスーツ姿じゃないからだ。今日の彼女は女性らしい装いをしていた。恐らく休日だったのだろう。
そんな彼女は「こんにちは」と礼儀正しく答え、左手でビニール袋を掲げて見せた。
「差し入れです。ちゃんと水分は取っていますか?」
「わーってるよ。ガキじゃねぇんだ」
「真希さんはそのつもりでも乙骨くんは違うでしょう?足許がふらついていますよ」
いやこれは先ほどの衝撃のせいで。……なんて説明しようとして、張りついた喉に気づく。集中していて気にならなかったけれど、どうやら体は水分を欲していたようだ。
そんな憂太の様子を察して、真希は「チッ」と舌を打つ。
不満げな顔。でも異論はない。つかつかと名前に歩み寄り、ペットボトルを受け取った。
「ほら、」
「わっ、……ありがと」
投げ渡されたペットボトルを受け止めると、真希には「ふん」と鼻を鳴らされた。とはいえ怒っているわけじゃない。それが挨拶だとか相槌みたいなものだということは憂太にもわかるようになっていた。
差し入れの正体はスポーツドリンクだった。「ごめんなさい、何が好きかわからなかったから」そんな謝罪は憂太へ向けられたもの。だから慌てて首を振った。
とんでもない、その心遣いで十分嬉しかったのに。
「そうだ、名前もたまには私の相手をしろよ。こいつはまだへばってるみたいだし、このままじゃ私まで体が鈍っちまう」
「ですが、私でお役に立てるかどうか……」
「いいから、ほら!」
憂太の手から竹刀をぶんどり、真希は強引に名前の手を引く。
その様子をハラハラと見守るしかない憂太であったが、名前の目が温かなのを見て取り、ほっと体の力を抜いた。二人にとってはこれがごく自然なやり取りなのだろう。
温かな気持ちになった。そんな憂太の目の前で、着物の袂が翻った。
「あ……っ」
止めようとした。けれど伸ばした手は宙をかく。
向き合う二人。視線が交わる、その刹那。──ピリッとした空気が憂太の肌を焼いた。
それは呪霊と相対した時と似た感覚。鋭敏になる神経と、粟立つ皮膚。独りでにごくりと喉が鳴った。
合図の言葉はない。けれど名前と真希の二人にそんなものは必要なかった。真希は地を蹴り、名前は彼女の繰り出す攻撃を竹刀の腹で受け流していく。
一打、二打、三打。名前は防御に徹している。一見すると真希の方が優勢だ。しかし攻めきれない彼女の唇が歯痒さに歪んだのが憂太からも見てとれた。
憂太は最初止めようとしていた。だって名前の格好はとても戦いに向いているとは思えない。着物の値段なんてわからないけれど、汚したら不味いことくらいは察しがついていた。
けれど今。二人の攻防を見守る憂太の目は、素直な賛辞と憧憬で染まっている。止めようとしたことなど忘れ、二人の舞うような動きに目を奪われていた。
しかしそんな時間もいずれ終わりがくる。
「くそっ」
名前の、特徴的な武術の型。腕を取られ、取り落とした槍を爪先で弾くも、それさえ防がれた真希が悪態をつく。その首筋に手刀を添えられてはさすがの彼女も降参をするより他にない。
「わかった、私の負けだ」
「でも最後の動きにはヒヤッとさせられました」
「んな慰めは必要ねぇよ」
二人は和やかに会話しながら憂太の元へ帰ってくる。そこには先刻までのひりついた空気はない。親しい仲の友人同士、そんな雰囲気である。
「……すごいなぁ、二人とも」
憂太の呟きに、名前は微笑む。「乙骨くんも随分いい反応ができるようになっていましたよ」
さらりと放たれた称賛の声に、熱を帯びる頬。褒められ慣れていないから、なおさらである。こんな風に真っ直ぐな言葉をくれる人はあんまりいないんじゃなかろうか。少なくとも憂太の記憶にある限り、高専以外でそうした言葉をかけてくれる人とは巡り会う機会がなかった。
だから──
「なぁににやけてんだよ」
「ちがっ……!あの、大丈夫ですか、名前さん……その服、高いんじゃあ」
「……?あぁ、平気です。どのみち実家でしか着る機会のないものですから、多少汚れたところで誰も気に留めません」
「はぁ……」
気がかりを言い訳代わりに口にすると、意外な答え。当人はまるで気にした様子もなく、真希は苛立たしげに舌を打つ。
……不味いことを、聞いてしまったのかもしれない。意味ありげな沈黙に、憂太は焦る。
「そっ、そんな格好でも戦えるなんて凄いですね!」
「それは、まぁ……私は先輩ですからね。後輩の前では格好をつけたくなるものです」
笑み含むそれは本気とも冗談とも受け取れる。けれど何のてらいもなくそういうことを言える彼女は、『やっぱりカッコいいなぁ』と憂太は思うのだった。
独りになると急に気持ちが沈むのは実家の空気にあてられたせいだろうか。名字の家の、陰鬱な空気。それを吸い込んだ臓腑もまた重く、どこか息苦しい。
名前は二の腕を擦る。膚を這いずるのは季節外れの冷気。陽の差し込まない屋敷に帰ったのは久方ぶりのことだった。そのせいだろうか。情でなく血で繋がっただけの家族に、温かみなどあるはずもなかった。
「あれ、珍しい格好してんね」
自宅に戻ると、先客がいた。『おかえり』と言うより早く、彼は目を丸くする。
「実家に帰ってたんだ」納得する彼に、名前の家の事情などすっかり筒抜け。名字の家が術式の収集に執着していることも、コントロールの利かない術式を持って生まれた名前が出来損ないの烙印を押されていることも、……名前が家族との関わりを忌避していることだって、何もかも。
熟知している彼は、いつになく優しい声音で「おいで」と両手を広げた。
「……今日は優しいんですね」
「なに?酷くしてほしいの?」
二人分の体重を吸って、ソファが沈む。名前を膝の上に乗せても、最強の男は揺らがない。悪戯っぽく笑って、名前の後ろ髪をくしゃくしゃに乱した。
酷く、なんて、……うそつき。名前の知る限り、いつだってこの人は優しかった。欲しいものをくれるのはいつだってこの人だった。
彼──五条悟の他には、誰も。
「それで?年寄り連中の今の関心ごとと言えば憂太関係だとは思うけど、それでどうしてお前が落ち込んでんの」
この人に隠し事はできない。でも打ち明けたいと思う理由はそれだけじゃなかった。打ち明けたいのも、赦しを乞いたいのも、この人だけだった。
不可侵のゆりかごで、名前は目を伏せる。
「……特級過呪怨霊の力は絶大です。乙骨くんの……少年ひとりの手元に置くのは惜しい、と」
乙骨憂太は生まれながらの呪術師ではない。そんな彼に強大な力を持たせることを、古株の術師たちは忌避した。少年に扱いきれなくとも、自分たちなら『折本里香』を使役できるかもしれない──そんな思い上がりも理由のひとつだ。
だから名前にお鉢が回ってきた。乙骨憂太の庇護者である五条悟──その後輩にあたる名前ならば彼の目を掻い潜って何らかの切っ掛けを掴めるかもしれない。そんな思惑を伝えられたのは、何も今日が初めてのことではなかった。
けれど、名前が赦しを乞いたいのはそれだけではない。
「ふうん?ま、予想の範囲内だね、老人どもの欲は底無しだから」
「……私も、──私も、乙骨くんの手に余るというなら、それもひとつの手だと思ってました。……でも、」
でもそれは正しくなかった。乙骨憂太の──彼のためを思うなら、彼の決断を尊重し、このまま見守るに徹するべきだ。それを今日、理解した。彼と、『リカちゃん』の話を聞いて。
真希との手合わせのあと、棘とパンダも合流した。賑やかな三人を眺め、名前は憂太に問うた。『貴方にとって、彼女はどんな存在なのか』と。
憂太は視線を下げた。彼が見ているのは銀色に輝く指輪。幼さに見合わないそれを、彼は温かな眼差しで包んだ。
『たぶん、初恋でした。そんな言葉も知らなかったけど、でも、今でも思い出せるのは彼女の笑顔なんです』
それを聞いたら、だめだった。二人を引き離すことなんて考えられなかった。立ち入ってはいけない領分なのだと思い知らされた。
と同時に、考えたのは別のこと。
名前は顔をあげる。眼前にある、白皙の美貌。彫刻のように美しいこの人が、触れることを許してくれる。名前がその頬に手を添えても、拒まれない。そうした奇跡が、堪らなく尊く、いとおしい。
「少し羨ましくなってしまいました。呪うほど人を愛せた彼女を、それを受け入れてくれた彼を」
あぁ、でも。
「私も彼女と同じことをするかもしれない。貴方の力になれるのなら、呪いに身を落としても構わないと、」
「嬉しいこと言ってくれるね」
でも、そんなのお断りだよ。だって僕は最強だから。──お前がいなくたって、生きていけるんだから。
だから、だからさ、
「お前のことは僕が殺してあげる。呪霊になんてさせてあげない。呪いになんて譲り渡してやらない。僕のこの手で、僕だけが名前、お前を殺すんだ」
彼はわらう。形のいい唇が、静かに笑みを刷く。そこに苛烈さはなく、激情とはほど遠く。
しかし彼の指先、しなやかなそれがついと伸ばされるのは、名前の首。おとがいに親指を這わせ、食い込むそれこそが彼の言葉に真実味を与えていた。
「永遠なんて必要ない。今この瞬間さえあればそれでいい。今この瞬間さえ──最期の時さえ僕のものにできれば、それでいい」
「それじゃあ全部もらってくれますか?私の未練も、想いも、この身も心も、すべて」
「いいよ、最期の瞬間だけは名前は僕のものだし、僕は名前だけのものだ」
「うれしい──」
初恋なんかじゃない。彼のように清らかな想いじゃない。どうしたって彼らのようにはなれない。
でも、それでも──それでも、最期の時を迎えるとしたら、彼の傍がいい。
その腕の中で終わることができたら、どんなに幸せだろう。幸せな人生だったと、そう思うことができるだろう。
名前は彼の背中に腕を回した。その広い背中に、危なげなく抱き締めてくれる腕に、抱いた感情はたぶん……愛に似て、呪いにも等しいものだった。