【2017.07】


 花壇の花を見て、憂太が思ったのは棘のこと。先日、シャッター街での任務で、彼は指を折った。……憂太を、庇ったせいで。

「あの、僕も手伝っていいかな……?」

 指の怪我はすぐに治った。この学校にはとても優秀な医者がいるらしい。
 でもだからといってすぐに罪悪感が薄れるわけでもなく、憂太はじょうろに水を汲んでいる棘の元へと走り寄った。
 花壇の側には彼の他にも人影があった。紫陽花にハサミを入れている名前と、それを眺めているだけの担任教師。彼は何事か熱心に語りかけているようだった。五条悟の口に戸は立てられないのだ。この三ヶ月で憂太もそれを学んだ。時には彼女のように聞き流すことも必要なのだ、と。

「花、切っちゃうんですか?」

 自分も無視されるのでは、と若干の躊躇いを含ませて問う。が、それは杞憂のこと。名前は「こんにちは、乙骨くん」と笑って迎えてくれた。

「ほら、この部分……ガクのところが褪せてきているでしょう?」

「あ、たしかに……」

「栄養は限られています。見頃を終えた花はこうやって切ってしまわないと、次の年に綺麗な花を咲かせられませんからね」

「へぇ……、狗巻くんは知ってた?」

「しゃけ」

「ねぇみんなして僕を無視するの酷くない?」

「自業自得です。七海くんに迷惑をかけるあなたが悪いんですよ」

「だからそれは七海がさぁ〜……」

 ぱちん、と音がして花が落ちる。紫陽花の花。首から切り離された頭が落ちる。落ちて、折り重なって、積み上がる。青色の花。
 それはなんだか痛々しくて。

「どうかしましたか?」

「えっと、」

 どうしてそんなイメージが浮かんできたかはわからない。紫陽花なんて、特別珍しいものじゃないのに。なのにどうしてか寂しい……雨のにおいがした。
 太陽は高く、空は青い。じょうろの水が光を反射してきらきらと瞬いていた。

「もったいないなぁ、なんて。まだこんなに綺麗なのに」

「ふふ、乙骨くんは優しいですね」

「そっ、そんなことは……」

「でしたらお部屋で飾ってあげてください。水の入ったボウルに浮かべておくだけでも彩りが生まれていいかと思いますよ」

「なるほど……」

 それはいいかもしれない、と憂太は思った。
 憂太に与えられた高専の寮、その一室。最初から備え付けられていたのはベッドとテーブルと、エアコンくらい。趣味というほどの拘りはないから、不便を感じることもなかった。

 ──でも、里香ちゃんには花が似合うだろうな。

「明太子」

「あ、狗巻くんも部屋に飾るの?じゃあ僕も……」

 隣の花壇で水をやっていた棘が手を挙げるのを見て、憂太もおずおずと提案に乗った。……主体性のないやつだと思われただろうか?
 そんな不安もあったのだけど、「お友達とお揃いなんて素敵ですね」と言われ、面映ゆさに口ごもった。
 ともだち。ともだち、かぁ……。ちらりと棘の様子を窺うと、ばちり、視線が交わった。

「高菜」

 そして、返されたのはピースサイン。考えていたことが伝わったのかは定かではないけれど、認められた気がして、憂太もへらりと笑った。
 友達、なんて。こんな自分にそんな繋がりが得られるなんて、ほんの数ヵ月前の自分に教えてやったらいったいどれほど驚くことだろうか。

「憂太ってさぁ、誰かに似てる気がしてたんだけど、アレだね、入学したての名前に似てるね」

「そうですか?」

「いっ、いやいやそんな、僕なんかと似てるなんて……っ」

「いや似てるよ。後ろ向きなとことか、くらーいとことか。そこからちょっとずつ明るくなってったとこなんか、特に」

「え」

 そう、だったのか。憂太はそろりと目を動かす。
 隣で膝をついている女性。物静かな眼差しのその人からは想像もつかない過去の人物像。後ろ向きで、暗い学生時代。俄には信じがたかったが、彼女は否定しなかった。

「僕が構ってやっても全然笑ってくれないし、ほんと、可愛いげのない後輩だったよ」

「いえ、それは五条先生のやることなすことが笑いの範疇ではなかったせいです」

「え〜?そうだったっけ?僕っていい先輩だし、いい先生だよね?ね?憂太?」

「えっ!えーーっと、そ、そうですね……?」

「ほらぁ!」

「はいはい、よかったですね」

 おざなりな返事であったけれど五条は満足したらしい。ニコニコ笑って、名前の頬をつついている。まるで子供みたいだ。
 でも名前はその戯れをはね除けなかった。嫌がるのでも我慢するのでもなく、ただそのままを受け入れていた。その横顔はそうするのが当たり前だというようだった。

 ──二人は恋人同士なのかな、

「ここの紫陽花は青色なんですね。うちの近所に咲いてたのはピンクだったから、なんか新鮮です」

 ……なんて聞くのは野暮というものだろう。
 代わりに聞いたのは些細な疑問。脳裏をよぎった『移り気』という単語は、憂太の知る数少ない花言葉のひとつだった。

「それはここの土壌のせいですね。酸性の強い土では青い紫陽花が咲くそうですよ」

「じゃあ赤やピンクの紫陽花は……」

「アルカリ性の強い土地だったのでしょう」

「そうだったんだ……。狗巻くんはこれも?」

「しゃけしゃけ」

「え〜、ホントに?」

「しゃけ!」

 『知ってた』と言い張る棘を見つめると、『疑うのか』と言わんばかりに睨まれた。おにぎりの具しか口にできなくてもなんとなくわかる。そうなれたのは──友達ができたのは、優しい皆と受け入れてくれたこの学校のお陰だ。

「あの、ありがとうございます」

「?こちらこそ、お花を貰ってくれてありがとうございます」

「あぁ、いえ、そのことじゃなくて……」

 不思議そうな目に見つめられ、口ごもる。
 憂太は自分が社交的な人間ではないと知っている。だから最初は同級生たちとも仲良くなれるか不安だったし、少々キツい言葉も──主に、というか真希しかいないが──かけられることもあった。それ自体に恨みはないし、内容的にも納得のいくものだったから気にしていないけど、……でも、最初から歓迎してくれたのはそもそもの提案者である五条と、名前だけだった。
 特に彼女には酷いことを──初対面の時に傷つけてしまったのに。なのに彼女は何を気にすることもなく優しい言葉をかけてくれた。それがどんなに嬉しかったか。どれだけ支えとなったか。『似ている』と言った担任の言葉を思い出して、憂太は思う。

 自分も彼女と同じように、誰かの助けになれる日が来るだろうか──?

「難しく考えることはないですよ。お手伝いしてくれて助かったのは本当なんですから」

 ふ、と唇に笑みを含ませて、名前は言う。その手にあるのは紫陽花の花の一輪。それを憂太の手に握らせながら、「そこの先生はちっとも手伝ってくれませんし」と冗談めかした物言いで口を尖らした。

「僕にはほら、みんなにエールを送るっていう大事な仕事があるじゃない?」

「それって花壇の手入れに必要なものですか?ねぇ、狗巻くん?」

「おかか」

「ほら、狗巻くんもいらないって」

「え〜!棘まで僕を見捨てるの?憂太っ、憂太はそんなこと言わないよね!?」

「えっと……。僕も別にいいかなって……」

 二人に同調すれば結果は三対一。圧倒的な劣勢の中、五条はため息をつく。

「みんな反抗期なんだねぇ〜……」

 なんてポジティブなんだろう。白けた視線も物ともせず、「困った生徒だ」とぼやいている。少し羨ましいくらいだ。
 憂太は手の中にある紫陽花を見下ろした。くるりと回すと、少女がスカートを翻した姿に似ていて愛らしい。そんな想像をしてしまうのも幼少期の思い出に未だ囚われているせいだろうか。
 そよ風に任せ、紫陽花の花が揺れた。まるで憂太の考えを肯定するかのように。