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 テレビではその日最後のニュース番組が流れていた。平穏な秋の日の、とある夜のこと。世間では重大な事件もなく、一番のニュースといえば芸能人の結婚報道くらいなもの。
 平和なのはいいことだ。内心で思いながら、名前は湯呑を傾ける。木々が色を失っていく今日この頃、肌寒い夜には緑茶が一等相応しい。
 ……なんて。思うようになったのは、今の生活が日常になってからのことだけど。

「あ、」

 テレビを眺めながら、「そういえば」と思い出したのは急遽入った明日の予定。『よかったら高木刑事と佐藤刑事の結婚式に参列しない?』──他の誰かならともかく、誘いの主は毛利蘭と鈴木園子の二人であったから、名前は一も二もなく頷いた。頷いてから、『はて?』と首を傾げた。
 結婚式に参列するとして、本当に何の準備もいらないのだろうか?『必要なものは全部私が揃えてあげる』と園子は言ってくれたが──?

「明日渋谷で結婚式なんだけど、何か必要なものって……」

 困った時は『彼』に聞くのが一番だ。振り仰いだ先、浴室から出てきたばかりの飼い主──降谷零に声をかける。
 と、どうしてか彼は柳眉をひそめた。

「渋谷?結婚式?」

「そう。高木刑事と佐藤刑事の……、蘭さんたちに誘われたから」

「……ああ、なるほど」

 経緯を説明すると、零は「そういうことか」と目元を和らげる。
 たぶん『結婚式』というワードがあまりに唐突なものだったから驚いたのだろう。表情の変化に、『私には縁のない単語だから』と名前はひとり納得する。

「でもそれなら残念だったね、明日は曇り空のようだ」

「天気に文句を言っても仕方ないわ。それに雨の日の結婚式は縁起が良いとも言うんでしょう?」

「よく知ってたね」

「……参列するのは初めてじゃないから」

 けれどそのすべてが祝福のためではなかった。名前は僅かに目を伏せる。
 罪悪感など抱くのも烏滸がましい。組織に命じられるがまま、奪ってきてしまった幾つもの命。その中には幸福の只中にある者もいた。
 だからきっと、この穢れを雪ぐには──

「……名前、」

 沈みかけた意識を呼び覚ましたのは静かな声と、温かな手のひら。いつの間にか隣に座っていた彼に抱き寄せられ、意識はその胸から聴こえてくる鼓動に注がれる。

「……零は、いい匂いがするね」

 すん、と鼻を鳴らして、名前は目を細める。
 そんなはずはないのに、ふしぎ。石鹸の匂いに混じって、幽かに甘く、芳しい匂いがする。
 どうしてだろう?どうして私はそれを当たり前のように感じているんだろう?彼の匂いを嗅ぐだけでこんなにも安らかな気持ちになるのは、いったいどうして?
 ……ううん、本当はわかってる。その答えも、目を逸らしていたい理由も。

 誰かの幸福を奪ってきた私がこんな充ち足りた気持ちになるなんて、赦されるはずがない──

「それを言うなら君だって」

 なのに零は。正義の味方であるはずの彼は──この国の影なる英雄は、罪人ですらも救済しようとする。
 「名前だっておんなじだ」そう言って、微笑んで。

「でもいつもより甘い気がする……。これは……ヘアオイルかな?今までとは違うのにした?」

「あぁ、うん。園子さんに勧められたのを使ってみたんだけど……」

 窺い見てしまうのは、彼の声が一段下がったように聞こえたから。なんだか悪いことをしてしまったような気がして、名前は眉を下げる。
 スパイとしては痕跡となる匂いを残すなどもっての外。とはいえ今の名前は普通の女子高生を演じている身の上で、となると友人の厚意を断るのは至難の業。さほど匂いの強いものではなかったから勧められるがまま受け取ってしまったけれど──この判断は『平和ボケしている』と言われても反論できない、と今になって青ざめる。

「ごめん、洗い流してくる」

 慌てて立ち上がろうとしたところ、「ちょっと待って」と引き止めたのは指摘した張本人。零は名前の腕を引き、ソファに連れ戻した。……どうしてか、彼の方までもが慌てた様子で。

「なぜ止めるの?」

「なぜってそりゃあ……君が勘違いをしているみたいだからさ」

「勘違い……?」

「そうだよ。僕は別に君を咎めたいわけじゃない」

「でも、なんだか物言いたげだったわ。まるで……そう、不服だっていうみたいに」

「……そう?」

 そうかな、と彼は繰り返した。今度は少し、決まり悪そうに。名前はソファに座り直した。
 「そんなつもりはなかったんだ」視線を落として、彼は続ける。「君が上手くやれてるみたいで良かったとも思ってる」それだって真実だ。でも、

「……ごめん」

 下げられた頭が名前の肩に寄りかかる。それは謝罪というより赦しを乞うような──そんな仕草。名前は思わずその後頭部に手を添える。目映い金の髪は指の間をこぼれ落ちていった。
 聖人にでもなったみたい。そう、名前は他人事のように思う。
 そんなのってないわ。だって、私にとっての神様はあなただけなのに。

「これくらいのことで頭を下げないで。それなら早合点した私だって、あなたと同じことをしなくちゃ」

 きっかけはほんの些細なこと。だというのにこれはどうしたことか。国家を揺るがす大事件でも起きたみたいだ。二人して神妙な顔をしているのがおかしくて、名前は笑う。
 でも、零は笑わなかった。

「……それだけじゃないんだよ」

 それだけが理由じゃないんだ。そう呟いて、彼は名前の体を強く抱いた。
 そして名前は。

「…………」

 名前は何も言えなかった。何を言うのが正しくて、間違っているのかすらわからなかった。
 悲しい匂いがするわ、と名前は思った。雨が降り出す直前の、湿気た空気の匂い。それに隠されて、他の感情は読み取れなかった。
 彼はいま、何を思っているのだろう──?

「……私は幸せよ」

 結局それしか言うことができなくて、名前は唇を噛んだ。