組織時代T


 ──昔、怪我をした子猫を拾ったことがある。
 それは小学生の頃の話。すべては終わってしまったはずの話だった。



 24時間営業のコーヒーショップに立ち寄るのが毎日の習慣だった。時刻は夜の10時。景光はウェイトレスを呼び、コーヒーを頼む。コーヒーと、チョコレートサンデーを。それが合図だった。
 疲れた顔のウェイトレスを見送ると、入り口の戸が開く音がした。入ってきたのは仕事帰り風の男二人。ジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めながら、こちらに向かってくる。
 景光はテーブルの下で両手を握った。手のひらが汗ばんでいる。平静を装えているだろうか?姿勢は、表情は?
 男たちと目が合う。一人がもう一人に耳打ちする。何を言っているかまではわからない。男たちは用心深く、唇の動きさえこちらからは見えなかった。
 それとも気にしすぎだろうか?彼らが待ち人だという確信はない。景光は視線を逸した。
 男たちは景光の前を通ってカウンター席に座った。入れ違いに、先程のウェイトレスが景光のテーブルに戻ってくる。コーヒーポットと、チョコレートサンデーを持って。

「そこ、私の指定席なの」

 驚いた。立ち去るウェイトレスの影から響く、淡々とした声。見知らぬ女が、いつの間にかテーブルの脇に立っていた。
 隣のテーブルでは酒を飲む男たちがいて、また別のテーブルでは煙草の煙が立ち上っていた。客の殆どが男で、数人の女はその連れだった。
 けれど景光の前に立っていたのは女というより少女だった。汚れを知らないプラチナブロンドと、冬の透き通った空みたいな目。彼女が小脇に抱えていたのは『人間の権利』。トマス・ペイン著のそれを認めて、景光はまた驚かされた。

 ──まさか、彼女が?

「ごめん、知らなかったんだ」

「そう。それじゃあ対価を貰わないとね」

 少女はスンと鼻を鳴らすと、硬質な目を僅かに和ませた。……ように見えた。照明が十分に行き届いていない店内では都合のいいものしか目に入らない。
 「私は名前、」そうだ、名前をつけよう──「よろしくね」差し出された手を、景光は握り返した。傷一つない、柔らかな感触だった。

「それ、貰ってもいい?」

 名前はそう言って、向かいに座る。それ、と指し示されたのはチョコレートサンデー。甘ったるい香りを放つそれを、景光は彼女の側に置き直した。
 「どうぞ」元より食べるつもりはなかった。だってこれはただの合図だったから。

「ありがとう」

「いや、ちょうどよかったよ。間違えて頼んじゃったから」

「じゃあ代わりのものを頼まないと。何がいい?私が払うよ」

「うーん……、オレはコーヒーだけで十分かな」

 半分は本当だった。今は何も食べる気にはならない。
 零ならこういう時も緊張しないんだろうな。頼りがいのある幼馴染の顔を思い出し、内心で苦笑する。ずっと彼の隣にいたけれど、彼のようにはなれそうにない。少なくとも、今は。

「向いてないんじゃない?」

 その心を見透かしたように、名前は言う。向けられた視線。透徹した眼差し。猫のように大きな目が、少しこわい。
 景光は「何が?」と聞き返した。その声は僅かに裏返っていた……かもしれない。わからない。
 どこかでグラスの割れる音がした。

「あなた、こういう場所には向かないみたい。いいところのお坊っちゃん……って感じ。……違う?」

 ぱちり、と目を瞬かせる。名前が、或いは景光が。そのたびに景色は移り変わって、でも目の前の彼女だけは、その蒼い瞳は、一秒前と少しも変わらない。一秒前、一分前、──十数年前に見た、子猫のそれと。
 ……あぁ、怖いことなんか何もないんだ。
 隣の席ではウェイトレスがグラスの片付けに追われていた。でもそれはあくまで隣の席の話で、景光には関係のない世界のことだった。
 そしてそれは名前にとっても同じで。

「だけど引き下がるつもりはないのでしょう?」

 彼女はまた『スン』と鼻を鳴らした。その仕草に、懐かしさが込み上げる。先刻感じた恐れなど嘘のよう。確信を得て、景光はようやく笑った。笑って、頷いた。
 せっかく掴んだチャンスだ。【組織】に深く潜るためには、こんなところで立ち止まってはいられない。躊躇うことなど許されない。今は違う場所で戦っている、親友のためにも。

「なら、これはあなたが持ってて。たぶん少しは役に立つだろうから」

 名前が景光の前に置いたのは一冊の本。「チョコレートサンデーのお礼に」そう言って。
 何やら暗示的だな、と景光は思った。トマス・ペインの『人間の権利』。初めて読んだのは高校生の時、幼馴染に薦められてだった。
 また、扉の開く音がした。

「男連れとは珍しいな」

 店に入ってきたばかりの男が、真っ直ぐこちらのテーブルに向かってきた。
 男は背が高く、筋肉質で、清潔な身なりをしていた。からかうような台詞だったが、目は笑っていなかった。
 年齢は50歳代だろうか。何の感情も含まれていない目が、名前から景光へと移る。観察者の目。容易に処刑人のそれへと変わるであろう眼差し。冷ややかな視線に、そう直感した。
 喉が渇く。背筋を厭な汗が伝う。張りつめた空気に逃げ出したくなる──けれど、

「そうだね、なかなかお眼鏡に適う人が現れなかったから」

 一瞬交わった視線。名前の冴え冴えとした蒼い目が、『大丈夫だ』と言っているように見えた。
 それこそ都合のいい幻だったかもしれない。でもそのお陰で恐怖心は景光の元から過ぎ去っていった。

「お前がそう言うってことは……なるほど、信頼の置ける男だってことだな?育ちのいい坊っちゃんにしか見えないが」

「でもだからこそ裏切りからは遠いところにある。今のあなたに必要なのはそういう人でしょう?」

「よく分かってるじゃないか」

 男はそこではじめて笑った。「それに悪くない趣味だ」男が見ているのはテーブルの上の本だった。
 「寝る前にはいつもこれを読むことにしてる。毎晩、欠かさずにな」それは毎日この時間にこのコーヒーショップに立ち寄るのと同じこと。彼が日々の習慣を固く守る性格なのは景光も聞き及んでいることだった。

「これからよろしく頼む」

 景光は差し出された手を握り返した。節くれだった手は硬く、柔いところなどひとつもないようだった。男はこの街を支配する者で、彼が得ている大金は善良な市民から掠め取ったものだった。
 それでもこの男が組織に繋がる糸口になるのなら、この手に忠誠の口づけさえしてみせよう。男は古くからの支配者であったが、近年移民で構成された新興組織によってその立場を脅かされていた。だから少しでも多くの兵隊が必要だった。信頼の置ける、兵隊が。
 景光はその一人に選ばれたのだ。

「お疲れさま」

 男はコーヒー一杯分だけの会話をして、来た時と同じように静かに立ち去った。
 その背を見送り、息をつく。と、微かな笑みを刷いて、名前は「よかったね」と言った。裏社会の人間と接触して、滞りなく目標を達成した。……でもそれは彼女の口添えあってのことだ。

「君のお陰だよ。ありがとう」

「私はあなたたちを引き合わせただけ。自分の仕事をしただけだから」

「でも本を貸してくれた」

「言ったでしょ?お礼だって」

 「これはあなた自身の実力で得た結果だよ」と名前は微かな笑みを刷いた。
 それはチョコレートサンデーのことだけではない。十数年前のことを含めて言っているように聞こえた。

「……昔、怪我をした子猫を拾ったことがあるんだ」

「……ふうん?」

「大人たちには内緒で、友達と二人だけで世話をして……気づいたらいなくなっちゃってたんだけどね」

「だけど受けた恩は忘れないと思うよ。それが獣であるならなおさら、ね」

 名前は「ごちそうさま」と空の食器を前に手を合わせた。アメリカの、小さなコーヒーショップで。日本人のように振る舞う彼女を見て、『やっぱり』と思う。この挨拶を教えたのも景光たちだった。
 子猫は──あの時の少女は、やっぱり名前だったんだ。

「じゃあもしかしてチョコレートサンデーにも何か意味が……」

「ううん、それは私の趣味」

 「本当はサンドイッチが食べたかったんだけど、それじゃあ普通すぎるでしょ?」待ち合わせの目印にならないから、と肩を竦める名前に、景光は笑った。

「それじゃあまた作ってあげるよ」

 目を輝かせる彼女は、子供の時と少しも変わっていない。
 こんなところで再会なんてしたくなかった。子供の頃の、楽しかった日々のこと。あの日の少女が今も裏社会で生きているなんて。
 悲しいことなのに、それと同じだけ再会を嬉しくも思っていて──そんな自分が、いやだった。