組織時代U


 名前は気まぐれだった。気まぐれな子猫。ふらりと現れてはいつの間にか消えている。それ自体に、つい先日まで赤の他人だった景光に文句などつけようがないのだけど。

「だけど男のベッドに入り込むのはダメだと思う……っ!」

 朝。八番街、再開発の波に乗り遅れた古いアパートメントの一室。温もりの残るベッドの上で頭を抱える景光をよそに、名前ときたら呑気なもの。『何の問題が?』とでも言いたげに小首を傾げている。

「昨日は寒かったから……暖を取るにはそれが一番手っ取り早いと思って」

「それは……そうかもしれないけど……、でも危ないよ」

「危ない?なぜ?私はあなたを信頼してるのに」

「うっ……」

 濁りのない目を向けられ、言葉に詰まる。まるで自分の方が間違ったことを言っているみたいだ。
 信頼してる。その言葉は嬉しい。嬉しいけれど、でも、

「やっぱりダメだよ」

 それでもなお『なぜ』と問われたら何と答えればいいだろう?
 頭を悩ませながら言う。と、

「……なんてね、冗談だよ」

「え……」

「大丈夫、あなたの言いたいことはちゃんとわかってるから」

 「ごめんなさい」でもそんな風に考えてくれてるなんて思わなかった、と名前は続ける。「そんな風に……ふつうの人間みたいに扱われることなんて、ほとんどなかったから」
 締め切られたままのカーテン、その隙間から滲み出す朝焼けの色。白白とした光が背を伸ばしていく中、しかし名前は逃げるように立ち上がる。

「あなたって昔から変わってる。言葉の通じない獣が相手なのに、真っ先に心配するのが自分のことじゃないなんて」

「何言って……言葉ならちゃんと通じてるだろ?」

 現にほら、と言いながらも、景光には彼女の言わんとしていることがわかっていた。
 名前は組織の人間だ。……犯罪者だ。彼らが何の躊躇いもなく引き金を引く様を、景光だって見てきた。
 それでも──

「……怖くないよ、昔も今も。名前だから、怖くない」

 悲しげでもなく、寂しげでもなく。ただ淡々と──何でもないことのように自分のことを【獣】と表現する彼女に胸が痛んだ。
 これは同情だろうか?幼い頃の記憶に引きずられているだけだろうか?幼馴染なら……ゼロだったらどう答えてあげただろう?
 けれどこの場に彼はおらず、助言を与えてくれるものはない。見下ろす目に映るのはただひとり。冷めた目を、景光は真っ直ぐに見つめ返した。この悲しみの一片でもいい、どうか伝わりますようにと願いながら。

「……へんなひと」

 ふ、と視線が逸らされる。翻るスカート、向けられた背。
 ……でも、一瞬。ほんの一瞬見えた口許が僅かに弧を描いていたのは、見間違いじゃないはずだ。
 景光は頬を緩めた。こんな時だけど、……こんな時だからこそ。ささやかな平穏が特別愛おしく思われた。

「オレのベッドを使うのはいいけど、来るなら来るで先に連絡くれない?急に来られると……ビックリして寿命が縮まるかと」

「……それは困る」

「だから……はい、これ」

 サイドテーブルの引き出しから合鍵を取り出す。使う予定のなかった代物。銀色に光るそれはちっぽけで、でも名前はそれを恭しく受け取った。

「……わかった。これは命に代えても守るから」

 いや、重いって。

「そんなことしなくていいよ。大事なものは置いてないし……」

「そういうわけにはいかないよ。これはあなたからの信頼の証。傷つけるのも失くすのも許せない」

 真面目な顔で意気込む名前に、否定の語は届かない。
 裏社会の人間なのに、こんなに義理堅くて大丈夫なんだろうか。裏切られて、傷ついたりしないんだろうか。景光は心配になる。自分のことはすっかり棚に上げて。

「まぁ、大事にしてもらえるのは嬉しいよ」

 この関係も、ほんの短い期間のものになってしまうかもしれないけれど。





 季節は晩秋にさしかかっていた。街には義理だの仁義だのを重んじる旧世代的考えの組織と、そんなものはお構いなしの対立勢力、或いは文化も宗教も異なる移民たちが静かな睨み合いを続けていた。
 ……といっても、二流三流の殺し屋たちが現れるのは日常茶飯事であったのだが。
 とある路地の角、ネオンサインが煌々と照る酒場。それは現在の雇い主がオーナーをしている店のひとつで、ここで夕食を取るのが毎日のルーティンのひとつだった。コーヒーショップに立ち寄るのと、同じように。
 薄暗い酒場の中はアルコールの匂いとタバコの煙が充満していた。

「名前、大丈夫?」

 隣で食後のデザート、ブルーベリーのパイを切り分けていた名前が小さく咳き込んだ。
 彼女は特別鼻が利く。本当ならこういう場所にはいるべきじゃない。実際、同じテーブルについているのも違うテーブルについているのも、みんなカタギには見えない男たちだった。
 でも名前は「平気だよ」と軽く手を振った。「もう慣れたから」
 そうなるまでにはどんな苦労があったろう。涼しい顔をしている名前に、景光の方がなんだかもどかしい気持ちになる。

「なぁ、新しい水パイプを買ったんだがお前らも試してみないか?」

 その時、同じテーブルの男がひとり、そう言った。「新しい?」「あぁ、前のよりデカいやつ」テーブルの上に置かれたガラス製の水パイプ。「かなりキクらしい」そいつはいいな、と別の男が言った。ひとつやってみるか。みんな乗り気だった。彼らはタバコを吸うのと同じ調子でクスリの話をしていた。景光の隣で、名前だけが黙々とブルーベリーパイを口に運んでいた。
 持ち主の男は手慣れた様子で葉っぱを入れ、火をつけた。煙が水の中を通って、チューブへと伸びていくのが見えた。

「ほら、お前も」

 景光の番が来た。パイプの中では前に吸った者の立てた泡がパチパチ爆ぜていた。男たちは些細なことで機嫌良く笑っていた。それは遠い世界のことのようで、すぐ目の前にあるものだった。
 景光は迷った。迷ったけれど、結局『ノー』と答えた。まだこちら側の世界に立っていたかった。

「実はこういうの、試したことないんだ。だからいきなりこんな……立派なのをやったら、どうなっちゃうか」

 こんなことを言うのは間違っているのかもしれない。不安は常にあった。どんな時でも、影のように。
 「別にどうもなりゃしないさ」男は笑った。でもそれだけだった。「お前らしいっちゃらしいか」お坊っちゃんだから、と男が言って、別の男が笑った。馬鹿にしたような、呆れるような、でも少しの温かさが伴う笑いだった。
 「それならオレのお下がりをやるよ」しまいには今日火をつけたのより小型の水パイプを押しつけられた。「家で試してみるといい。何事も挑戦だ」男たちはまた笑った。名前だけが笑わずに、パイの載っていた皿をすっかり空にしていた。
 それでよかったのか、悪かったのか。

「私はよかったと思うよ。他の人なら違ったかもしれないけど、でもあなたとしては今日の判断は間違ってなかった」

 帰り道、名前は出し抜けにそう言った。
 月のきれいな夜だった。名前の横顔は相変わらず冷めたもので、その言葉が慰めであるのか真実であるのか本当のところはわからなかった。けれど景光には後者であるように思えた。

「それに『彼』でもそうしたと思う。私の知る限り、組織でも上手く立ち回っているようだから」

 月のきれいな夜だった。だから名前の口許が微かに持ち上がるのが景光にもわかった。
 彼女の言う『彼』が誰を指しているのかも。

「そっか。……それならよかった」

 名前はゼロとも再会していたのか。……オレより先に。
 一瞬そう考えて、一瞬寂しさが胸をついて、そしてすぐにそれらを打ち消した。
 何をバカな。まるで子供みたいなことを考えるなんて……

「どうかした?」

「いっ、いや、なんでも……」

「うそ」

「嘘じゃないって、」

「……じゃあそういうことにしておく」

 少し不満そうではあったけれど、退いてくれてよかった。景光はホッと胸を撫で下ろす。
 熱くなった首筋を、秋の冷たい夜風が優しく撫でていった。