組織時代�W
報復は景光の快復を待って行われることとなった。
「音楽、流してもいい?」
助手席に乗り込むなり、名前が言う。『いいよ』と応じれば、車内に響き出すのは軽快なメロディー。女性の、それもロックミュージック。ハンドルを握りながら、景光は『珍しいな』と思う。
こういう音楽が好きだとは知らなかった。いつもの名前だったら……改めて振り返ってみても、適当なラジオ番組を聞くともなしに聞いている、そんな横顔しか思い出せなかった。
「この曲、好きなの?」
「うん?……うん、たぶん」
の、わりには曖昧だ。リズムを刻んでいた膝も止まっている。悩ましげにひそめられた眉に、こちらまで戸惑ってしまう。
……そんな、答えにくい質問だっただろうか?
「そういうわけじゃないよ。この曲は昨日観た映画で流れてて……」
「うん、」
「……こういう時にはちょうどいいんじゃないかと思ったの」
あなたにとって、と名前は言う。その声の向こう側で、カセットテープが歌っている。
The invincible winner
and you know that you were born to be──淡い陽射しの中、名前の横顔が滲む。輪郭を縁取るその光はさながら、
さながら──?
信号が赤に変わる。ブレーキを踏む足が重い。ハンドルを握る手に汗がふき出す。
大通りは朝の通勤ラッシュの時間を迎えていた。どこからか鳴り響くクラクション。それでも車の列は途切れることなく続いている。彼らはどこへ向かっているのだろう?社会の歯車たちは能面の顔をしていた。自分もこんな顔をしているんだろうか?隣に止まったシヴォレーは、どこか遠い目をしている。
しかし道の先は見えない。終わりが、どこにあるのかも。
「……少し、怖いよ。こういったことに……人を殺すことにさえ慣れてしまいそうで」
気づけば懺悔していた。名前は神様なんかじゃないのに。背負った光がまるで後光のようで、或いは女神のヴェールのようで、でもそんなものは弱い心が見せた幻でしかないのに。名前だって好きでこんな仕事をしているわけじゃないのに──
「いやなら、逃げてもいいんだよ」
「え……」
「あなた一人くらいなら逃がすこともできる……と思う。大丈夫、」
『赦してくれるよ』と囁く、慈悲深い声。名前はいつだって優しい。神か仏か、……それとも。
どうしてかそこで思い出されたのは、遠い昔に失ったはずの母親のそれだった。
寄りかかるのは簡単だ。子供はいつだって両親の庇護のもとにある。名前が、彼女さえ赦してくれるなら、
信号が、青に変わった。
「……ありがとう」
でも大丈夫だよ。僅かな強がりとともにアクセルを踏み込む。
勇敢さがあればよかった。友人のように、兄のように。強くなれたらよかったのに、と苦笑する。そうすれば弱音なんか吐かずに済んだろう。けれどそれは憧れにすぎなくて。
「ごめん、なんか君には情けないところばっかり見せちゃってるな」
「そんなことない。打ち明けてくれた方が、私は嬉しい」
本当に、と名前は言う。彼女は真実しか言わない。たぶん、おそらく、きっと。それは今の景光にとっては救いで、これからも先もそうであるといいと思った。
「……君がいてくれれば、なんとかやっていけそうな気がするよ」
『だから』と続けそうになって、慌ててブレーキを踏む。
じりじりと進んでいた車列がまた停滞をし始めた。反対に、速度を増すのは心臓の音。後方から聞こえてくるクラクションに、意味もなく心臓が縮み上がる。
だから──その先を口にできるほどの勇気は、まだ持てそうにない。
横目で名前の様子を窺う。……と、眩しそうに細められた蒼い目とかち合った。
「名前?」
朝の陽射しは淡い色をしている。なのに名前は「あんまり眩しかったから」と、小さく首を振った。とてもそんな風には見えないけど。
「私も、同じ。あなたがいてよかったって、思うことばかり」
「あんまりお役に立ててる気はしないんだけど」
「そんなことないよ。それに役に立つとか立たないとか、そういうんじゃなくて、……」
名前の眉間に皺が寄る。
……そんなに難しいこと?「難しいよ、言葉にするのは」それなら、なんとなくわかる。
「ゆっくりでいいよ、渋滞はまだまだ続きそうだ」
景光は腕時計を一瞥した。大丈夫、指定の時間まではまだ余裕がある。先日の一件に対する報復、その開始予定時刻までは。
道の先に目を馳せる。冬の朝の澄んだ陽射し。けれどその下に横たわるのは黒々とした翳り。死の予感は絶えず足許にあった。
怖いと思う。殺すのも、殺されてしまうのも。でも、この気持ちを失いたくないとも思う。
「……あなたが、私の半分だったらよかった」
ぽつりと呟く。名前の声だ。でも、彼女だけの言葉でもなかった。
景光は口許を緩める。
「それなら名前の半分をオレにくれる?」
「貰ってくれるの?」
「だってそしたら今よりずっと強くなれそうだ」
「そうかな」
「そうだよ」
「物好きだね」と言う声には笑みが含まれていた。
煙るような、あるか無しかの微笑み。その笑顔が見たくて、喪いたくなくて。引き金を引く理由のひとつにしてしまうのは、卑怯なことだろうか。
「……さっきのはなし、」
「うん?」
「好きな音楽の話、……考えてみたんだけど」
ひとつだけ確信を持って言えるものがあるよ、と名前は言う。
「料理している時とかに聴こえてくるあなたの鼻歌……。なんの曲かは知らないけど、好きだなって思うよ」
後頭部を軽く殴られたかのような衝撃を受けたのは、完爾とした笑みと『好きだ』という言葉のせい。
お陰でその内容に思考が及んだのは、およそ一拍あとのことだった。
「……鼻歌なんて歌ってた?」
「無意識だったの?」
「……うん」
羞恥が込み上げる。彼女の指摘に、何よりこの状況に。
一人で狼狽えているのが恥ずかしくて、ハンドルに突っ伏してしまいたくなる。それか、思いっきり全速力で車を走らせたりとか。
「照れることないのに」そう言った名前は心底不思議そうなものだった。
「上手だったよ」
「あ、ありがとう……」
「子守唄に聴かせてほしいくらい」
「……それは、」
答えあぐねたのは本気か冗談か測りかねたからだ。生真面目さの滲む双眸からはからかいの色はないが、……はたして。
「本気で?」「わりと」恐る恐るの問いに、返ってきたのは肯定の一語。「眠れない夜とかに聴かせてもらえたら安心できそう」
……そういえば、うちに来ない日はどこで夜を明かしているんだろう?知りたいようで聞くには踏ん切りのつかない疑問が、何度目かの浮上を果たす。
「……いつでもうちに来ていいんだよ」
「迷惑じゃない?」
「まさか」
本当に言いたいのは別の文句であったのだけど。でも名前が「じゃあ毎日でもいいの?」と言ってくれたから、これ幸いにと頷いた。
目の届くところにいてほしい。彼女の強さは知っているけれど、それでも時折心臓をなぶるのは不安の風。いつの間にかいなくなってるんじゃないか、それこそ子供の頃のように……。
だからせめて、この任務の間だけでも──
「うれしい」
はにかみ笑う彼女が眩しくて、目を細めた。そんな冬の朝のこと。束の間の平穏なひと時のこと。嵐の前の静けさに包まれていた時のこと。
景光がコードネームを与えられたのは、この日の報復作戦が終わってから一週間後のことだった。