組織時代V


 街を牛耳る男、その部下となった景光の仕事といえば彼の運転手を勤めることだった。
 ……では名前の方は?

「こいつらと似たようなもんさ」

 男は飼い犬に餌をやりながら言った。男が所有するアパートの、その屋上。遠くからはサイレンの音が聞こえてくる。
 でもここは静かだ。街の喧騒などとは程遠く、穏やかな時間が流れている。男が犯罪者で、本来であれば裁かれるべき立場だというのを忘れてしまいそうなほどに。
 だからだろうか。つい仕事とは関係のない質問をしてしまった。【組織】に属する名前が、どうして街のギャングの護衛なんかをしているのか。気になったから、いったいどんな関係なのかと聞いてしまった。
 その答えが『これ』である。
 名前は女の子なのに、あんまりじゃないか?一瞬そう思ったけれど、それが彼なりの愛情表現であるのだとすぐに諒解した。足元でじゃれつく、真っ白な毛並みのピット・ブル。その体を撫でる手が、血濡れたものとは思えないほどに優しかったから。
 景光は頬を緩めた。「……安心しました」嘘じゃない。本当に、心からそう思う。彼のように思ってくれる人が名前の側にいてくれてよかった。
 男は「安心、安心か」と繰り返した後で、「おかしなヤツだな」と笑った。

「安心ときたか、この俺を相手に?」

「でもこの街で貴方の側ほど安全な場所はないでしょう?」

「天国から一番遠いところかもしれないがな」

 男は名前を見た。離れたところで鳩に餌をやっている名前を。その目は少し悲しげで、まるで痛ましいものでも見ているかのようだった。
 男は所帯を持たなかった。恋人も、子供も。彼の周りにあるのは仲間であり敵だった。そんな彼にとって、動物たちはどんな存在だったろう。決して裏切ることのない動物たちは──名前は。

「あいつは俺の切り捨ててきたあらゆるものだ」

 「お前でよかったよ」と男は立ち上がり、煙草に火を点ける。
 立ち上る煙。それは細く伸びて、重く垂れ込める空へと溶けていった。まるで亡霊のようだ。この数ヶ月の間に見てきた、幾つもの死。景光にはそれを見送ることしかできなかった。ただ、それだけしか。
 ……そんな自分が?

「オレに、何ができるんでしょうか」

「なに、簡単な話さ」

 「お前がお前であることだ」と男は言った。けれどそう言われてもいまいちピンとこなかった。
 だって、たったそれだけのことで果たして何が変わるというだろう?景光は思う。オレは零ほど有能な男ではない。松田のように一芸に秀でているわけでもなければ、萩原みたいに人を惹きつける何かがあるわけでもなく、班長ほど心身ともに強いというわけでもない。
 そんなオレに、いったい何ができる?

「なんの話をしているの?」

「名前、」

 鳩への餌やりは終わったらしい。空のバケツをぶら下げて、名前が景光の顔を覗き込んでくる。
 なんでもないよ、ただの世間話だ。慌てて誤魔化そうとして、でもそれより早く、男に「お前の話だよ」とバラされてしまう。
 「私の?」名前の視線が景光から外れる。そうしたことに、少しだけ寂しさを覚える。そんな11月のこと。

「……それは歓迎すべきこと?」

「気になるか?」

「当然。彼の言うことなら、なおさら」

 名前はまた景光を見る。冬の朝みたいに透き通った目で。なのに冷たさなどいっさい感じられない眼差しで。
 それが少しだけ怖くもある。冬は近い。サイレンの音が止まる。どこか近く、例えば目の前の通りで。

「熱烈だな」

「ごまかさないで。いったい何を話したの」

「お前の地獄耳なら聴こえてたんじゃないのか?」

「……サイレンの音がうるさかったから」

「それなら俺の口からは話せないな。男同士の会話ってやつだ」

「なにそれ」

 名前は不満げに口を尖らせる。そんな彼女の様子をからかって、男は屋上を出ていく。愛犬も一緒だ。でも名前は残った。景光の隣に。

「あなたも教えてくれないの?」

 問いかけを遮るものはない。男は去り、サイレンは止んだ。風が吹いて、鳩が一斉に飛び立つ。名前は景光を見ていた。ただ、ひとりだけを。
 だから景光も名前を見た。そうするしかなかった。失墜感に襲われるとしても、その透き通った目を見つめ返すことしか、

「……オレに何ができるのかなって、そう思ったんだ。もちろん任された仕事は全うするつもりだよ。でも、……オレはキミに何をしてやれるんだろう。キミはいつもオレを助けてくれるのに」

 【組織】とも繋がりのある男、そんな彼との間を取り持ってくれたのも名前だった。
 あれから数ヶ月。『名前が連れてきた男だから』という理由で、どれだけの人が無条件で信頼を寄せてくれたろう。スパイにとって一番の障壁を、名前が取り払ってくれたのだ。 
 けれど名前は「私は何もしてないよ」と小さく首を振る。

「あなたがあなただから。だからみんな、あなたを受け入れてくれたんだよ」

「……似たようなことを彼にも言われたよ」

「なら少しは信じてあげてほしい」

 「あなた自身のことを」名前の声は淡々としている。激情に駆られることも、その反対もない。
 穏やかな海辺、押しては引いていく小波を思い浮かべさせられる声。そしてそのイメージは決して嫌なものではなかった。
 むしろ……たぶん、好きなのだと思う。好ましい過去を思うような、そんないとおしさ。喪われた、黄金の午後。

「この街にいるのはクソ野郎ばっかりだって、彼はよく言ってる」

 そんな声でそんなことを言うものだから、一瞬聞き間違えたかと思ってしまった。
 「クソ野郎って……」「……私がそう言ったんじゃないよ」うん、わかってる。でもあんまり聞きたくないなぁと景光は思った。彼女に汚いものは似合わない。

「この街にいるのは裏金をせびりに来るような悪徳警官か、人の財産を掠め取ろうと狙ってる奴らかぐらいだって。信じるっていうのがとても難しいところなんだって、よく言ってるよ」

 サイレンの音がまた鳴り出す。今度はすぐ近くから、やがてどこか遠くへと。走り去り、世界の外側へと消えていく。
 名前は笑った。「でもあなたは違う」

「あなたのことは知らず知らずのうちに好きになってしまうって。クソ好きにならざるをえないって。……私も、そう思うよ」

「えっ……」

「それはきっと、あなたが『いい人』だから」

 名前は静かに笑う。ふわりと、そよ風に揺れる花の一輪。仄かで、儚くて、でもだからこそいとおしくて、

「……ありがとう」

 危うく、応えてしまいそうになった。好きだ、と。その言葉の意味を知るより先に、言ってしまいそうになった。
 ……これが恋なのかもわからないのに。

「ふふっ、あなたってそればっかり。借りがあるのは私の方なのに」

「それだけ感謝してるってことだよ」

「……そう」

 「そうなんだ」翻るスカート。名前はくるりと背を向ける。珍しく照れているらしい。髪の間から覗く肌が、じんわり赤く染まっている。そうしたことに喜びを感じるのは間違いなんだろうか。
 束の間の昼下がり、日溜まりはあまりに心地よいものだった。





 けれど日常なんてものは容易く崩れ去ってしまう。そんなこと、とうの昔に──両親を喪った時に学んだはずだったのに。

 それはとある冬のこと。ボクシングの大会を観戦した帰り道でのこと。『こういう日は中国料理に限る』と言う男に連れられて、名前と3人、夜道を歩いていた。
 その時、不意の銃弾が耳元を掠めた。
 そこからはすべてがあっという間のことだった。景光はすぐに撃ち返し、名前もまた襲撃者の喉を掻き切った。
 でもそれで終わりじゃなかった。視界の隅で何かが光った。真っ先に気づいたのは景光だった。ただ、それだけのことだった。

「…………っ」

 一拍の空白のあと、鋭い痛みが走った。
 肩が熱い。上手く立っていられなくて、それでも男を庇うことはやめなかった。咄嗟に動いた体は任務の遂行を第一に考えていたのだ。歪む視界の中で、『よかった』と景光は思った。その隣を一陣の風が吹き抜けて、残りの襲撃者もまた断末魔のひとつさえなく崩れ落ちた。

「よくやった」

 男の声がした。同時に強い力が景光の体を支えていた。男の手だ。それから、戻ってきた名前の、

「大丈夫、あなたは助かる。こんなところで死なせないから」

「あぁ……」

「だから生きて、戦って、私と一緒に、」

「……うん、」

 名前の手が頬に添えられる。血に濡れた、なのに優しい手が。
 「オレは、大丈夫だから」ともすれば震えそうになる声を抑えて、景光は笑った。
 よかったと思う。名前が無事で、よかった。こんな時なのに、任務にはなんの関係もないことなのに。なのに冷静な体とは裏腹に、心は身勝手な願いを抱く。いつもとは違い、潤んだ名前の蒼い目に、喜びを感じてしまう。
 「医者は?」「もう呼んである」「血が、あぁこんなに」「落ち着け、致命傷じゃない」……名前と男の声が入り乱れ、景光はか細い息を洩らした。
 あぁ、きっともう手遅れだ。最初から──子供の頃、はじめて会った時から、こうなることは決まっていたのだろう。

「……生きるよ、君と一緒に」

 サイレンの音が聞こえる。その音はどんどん近づいてきて、でももう怖いことなんか何もなかった。