きみがぼくを見つけた日
雨が降っている。どしゃ降りの雨。ほとんど嵐ともいえる轟音が窓ガラスを打ちつける。
この雨は、いつから降り始めたんだろう?
窓の向こうは夜の闇。朧に浮かぶのは見覚えのない街並み。石造りの建物が、車のライトによって浮かんでは消えていく。
……車?
前方に目をやると、何者かが車を運転しているのが見えた。陰気な顔をした、中年の男。知らない男だ。でもどこかで会ったような気もする。知り合いにタクシーの運転手なんていないはずだけど。
『ずっと降り続くの?』
声がした。名前の声。隣りに座っている彼女は、雨に濡れた髪をタオルで拭っている。
けれどその声はどこか遠い。薄い膜がかかっているような、ガラス越しに響いたような、そんな感覚。信号機の赤色が彼女の膚を燃やしている。
運転手は澱んだ目で名前を一瞥した。
『三十分でやむ』
稲光が名前の隣をサッと横切った。
この車はどこに向かっているのだろう。豪雨の街に人影はない。他の車とすれ違うことさえ。耳が痛いほどの雷雨であるというのに、どこか寂寞とした景色が淡々と続いていた。
赤色に染められた大粒の雨が、斜めに走っていく。仄暗く、仄赤く。……まるで血の雨のように。
車はやがて街から遠ざかり、左右に白樺の木々が広がるようになった。細くしなやかな、白い幹たち。林道を抜けると、不釣り合いに真っ赤な建物がタクシーを待ち構えていた。
外壁のすべてが鮮やかな赤色。窓は小さく、そして玄関には何者かがひとり、
タクシーが止まる。雨音に紛れて、女の笑い声が聞こえた……気がした。
ここが目的地なんだろうか。
スーツケースを抱えて、名前が車を降りる。
行ってはだめだ。そう思っているのに止められない。雨の中、名前が赤い建物に向かっていくのを──迎えに出た女が彼女の肩を抱くのを──黙って見ていることしかできなかった。金縛りにでもあったみたいに、指の一本でさえ動かせなかった。
名前が建物の中に消える。
「…………っ」
そこでようやく身体は自由を取り戻す。
慌ててタクシーを降り、名前の後を追った。
建物の中は想像と違っていた。外から見た時はさして大きく見えなかったのに、中に入ってみるとそこは広大なホテルのロビーだった。
真っ白な壁紙、蝋燭に似た照明器具。少し進むと細い廊下が真っ直ぐに伸び、等間隔に扉の閉まった小部屋が並んでいた。
名前はどこへ行ったのだろう?
人の気配がある方に進む。壁紙の色がくすんだ赤色に変わり、シャンデリアが頭上に浮かんでいる。そしてある部屋の前にはウェルカムボードがひとつ。
中に踏み入れると、そこには着飾った老若男女が溢れていた。大ホール。楽団の奏でる穏やかな音色が辺りを満たしている。
見覚えのある景色だ。バーテンダーも、給仕係も、見覚えのある顔をしている。そう、以前、映画で観た────
「名前ッ!」
彼女の背中を見つけた。人混みの中、女と手を取り合い、踊る少女の姿。彼女の表情は見えない。けれど相手役を務める女の、その薄い笑みは、間違いなく自分に向けられたものだった。
名前は、俺に気づかない。どんなに呼んでも、叫んでも。名前の目が映すのは冷たい微笑みを浮かべる女、ただひとり。
──これは、悪夢だ。
「吉田くんっ!」
声がした。先程よりもずっと鮮明に、なのにずっと遠くから。見つめる先にいる彼女は、こちらを振り返りさえしないのに。
真っ赤な波が、前方から押し寄せた。
呑まれる、呑み込まれる、血の赤色。溺れながらも、考えるのは彼女のこと。何よりも恐ろしいのは彼女を失うことだった。
「もう大丈夫だよ」
温かなものに抱き締められる感覚があって、目を開ける。
雨の音はしない。血の海も、もうどこにもない。目の前にあるのは柔らかな微笑みと、こちらを見つめる優しい眼差しだった。
「早くここを出よう」名前に手を引かれるまま、歩を進める。
「ここは悪魔の腹の中……、恐れを実体化させるのがこの悪魔の能力なんだって」
「……誰から聞いたの?」
「マキマさん」
その名前に、心臓は厭な音を立てる。冷たい笑みと、じっとりとした目。獣のそれにも似た獰猛な視線を思い出して、背筋が凍った。
「あの人に会ったんだ」平静を装えているだろうか。景色はぐにゃぐにゃと形を変え、足許すら不確かなもの。雨の街並みが、血なまぐさいホテルが、混ざり合っては反発し合っている。
──気持ち悪い。
「……会ったよ。自分と契約しないかって、誘われた」
でも断ったよ。
握られた手に、力が込もる。
「私には吉田くん、キミが必要だから」
その笑顔が、声が、言葉が。何もかもが眩しくて、眩しすぎて、泣きたくなった。ほんの少し、ちょっとだけ。
歪んだ景色の中に、一筋の光が差す。
「……俺も、」
おんなじ気持ちだよ。そう言うと、名前は嬉しそうに笑みを深めた。
──でもきっと、俺の方が君を必要としているんだろうね。
先程まで見ていた悪夢を思い出して、苦笑する。
悔しいから、教えてあげないけど。
『迷宮の悪魔』を倒し、ビルの外へ出る。
頭上に広がるのは悪夢とは真反対のきれいな夕暮れ。もう長いこと中にいた気がしたけれど、太陽の位置はそんなに変わっていない。地平線に沈みかけたまま、もうじき夜が来る。
ビルの周りには警察官だけでなく公安のデビルハンターも集まっていた。しかし彼女の姿は見当たらない。
できることなら関わり合いになりたくない相手だ。よかった、と素直に思う。
……次に会った時に何を言われるかわかったものじゃないけど、ね。
「帰ろうか」
手を引くと、名前は小さく頷いた。
「早くシャワーを浴びたい」
たしかに、今の名前はひどい格好だ。しとどに濡れた髪は悪魔の血を浴びたせいで、さすがの彼女も顰めっ面。
「洗い落とすのたいへんそう……」固まり始めた髪を一房つまんで、憂鬱に溜息をつく。その横顔は人間となんら変わりない。だからこそ大切で、愛おしい。
「洗ってあげようか」
「いいの?」
「もちろん」
「じゃあ吉田くんのは私が洗ってあげる」
冗談だったのに、名前は本気で言っているらしい。それは嬉しいことのようで、少しだけ悔しくもある。
でもまぁ、とりあえずは役得だと思っておこう。
黄昏時、足元に伸びる影は二人分。名前の頬も朱色に染まっている。夢で見たよりも澄んだ、橙の色。きれいだ、と今は思う。血の臭いは消えやしないけど、ビルの中で感じた恐れは微塵もない。
名前が、手を握っていてくれるから。
「もう誰にも譲ってあげられないけど、赦してくれる?」
出し抜けに言うと、彼女は僅かに目を見張った。その後で、唇は花開くように綻ぶ。
「いいよ、キミが私に全部を捧げてくれるなら。全部を私にくれるなら、私もキミにすべてを捧げるよ」
そんなの今更だ。手遅れもいいところ。もしかすると最初から──初めて出会った時から、彼女には支配されていた気がするのに。
だから、これは当然の帰結ってわけ。
「……好きだよ、名前」
初めて抱いた感情。初めて口にした言葉。
好きだよ、大好きだ。声に出したらそれでおしまい。崩れていくバランス。傾いたら後は転がり落ちるだけ。恋だとか愛だとか、そんなの知らない。知らないけど、この手を握るのは自分だけであってほしいと願ってる。
その頬に口づけるのも、
「……血の味がする」
笑うと、「それはそうだよ」と困惑した様子の名前が言う。「どうしてこんなことしたの」どうしてってそりゃあ、…………
「うーん、本能?」
「本能……、今、捕食されるところだったの?」
「まぁそんな感じかな」
名前は『わけがわからない』って顔。でも悪くはない気分だった。
もっと悩めばいい。悩んで、悩んで、俺のことしか考えられなくなればいい。
──俺が、そうなんだから。