The Witch


 悪魔の出現が確認された、とあるビル。その一室へと通じるドアはどうやら異界へ続く入り口であったらしい。

「ここは……?」

 見渡す限り広がる草原。空は高く、地平線は遠く。直前まであったコンクリートはどこへやら。周囲には人影のひとつさえ見当たらない。

 ──そう、隣にいたはずの吉田くんでさえ。

「…………っ」

 込み上げるは焦燥。次いで現れるのは自責の念。
 彼との間に結ばれた契約はまだ生きている感覚がある。だから大丈夫、だから案じる必要はない。そう言い聞かせたところで募る焦りは和らぐことなく、広大な翠の海にさえ苛立ちが生まれてしまう。
 ……これじゃダメだ。冷静にならないと。
 深呼吸を数度。繰り返した後で、改めて辺りを観察してみる。
 青空と草原。一見すると長閑な景色だが、──どうしてだろう?不自然さが拭えない。風の音さえ聞こえないせいだろうか?
 何とはなしに手に取った草の根からは独特の青臭ささえない。見た目も感触も地上にあるものと相違ないのに──なのに、どこか変だ。どこかがおかしい。
 これは──この世界にあるものは、本当に『生きて』いるのだろうか?
 いやな、ひどく厭な感じがする。汗ばむ手のひら、粟立つ二の腕。背筋を冷ややかなものが走る。

 ──早く、吉田くんと合流しないと。

 焦る気持ちとは裏腹に、どこまで駆けても果てがない。どこまてもどこまでも──

 ──いいや、ちがう。

 いつの間にか、景色が一変していた。青空と草原。そう思っていたはずのものが、……あぁ、どうして。
 呆然と天を見上げれば、頭上に広がるは無数の扉、扉、扉。青空などどこにもなく、立ち尽くす足許には何者かの指が落ちていた。まるで散らされた花弁のように、点々と。肉の欠片が翠の海に浮かんでいる。その様に、全身が怖気立つ。

 なんだろう、ここは。この、異様な空間は。
 なのにどうして、どうして私はこの景色を『懐かしい』などと────?

 戸惑う私を嗤うように、きいっと耳障りな音が静寂の中に落ちる。
 音の主は天の扉。そのひとつが軋みを上げて、口を開ける。

「あなたは……」

 吐き出されたのは人影。朱い血にまみれた、白かったはずのシャツ。夕焼けの色をしたその人を、その名前を私は知っている。

「マキマ、さん……?」

「あぁ……、久しぶりだね、名前ちゃん」

 駆け寄ると、ひゅうっと喉を鳴らして、彼女は笑う。その膚の白さは血の気を失ったが故のもの。ひどい怪我だ、と一見しただけでわかる。
 なのに痛みさえ麻痺してしまったのだろうか。「気をつけて」と血の滲む吐息を溢しながらも、彼女が微笑みを絶やすことはなかった。

「ここは『迷宮の悪魔』の胎内。抱いた『恐れ』が形を持って襲いかかってくるよ」

「『恐れ』……?じゃあこの空間も、」

「そう。名前ちゃんの考える『恐怖』の象徴が『ここ』だよ」

 教えられ、改めて辺りに視線を走らす。
 青空に似た扉の群れと、肉片の潜む草原。まじまじと見たところで、しかし記憶の海は相変わらずの凪。さざ波さえ立たず、揺り起こされるものもない。

 でも、それなら。

「……それならこの空間はニセモノなんですね」

 それなら何も怖くない。
 だって、『今の』私が一番恐れているのはただひとつ。

 ──吉田くん。
 キミさえ隣にいてくれれば、それでいい。

「……でも『彼』が無事かどうかはわからないよ。偽物とはいえ、悪魔の術中に嵌まっていることは確かなんだから」

 私の思いを見透かしたようにマキマさんは言う。

「けど、私と契約してくれたら。……そしたら私も『彼』を探すのに協力してあげる。私と一緒に、この悪魔を倒そう?」

 「それが名前ちゃんの願いでしょう?」と赤い唇が囁く。
 信仰の悪魔として人類を救うために。はぐれた吉田くんや傷ついたマキマさんを助けるために。そのための最善は、『彼女』と手を結ぶことだろう。けざやかなる黄金の瞳がそう語りかけてくる。
 それ以外の選択肢はない。それ以外を選んでしまったら、目の前で助けを求めている人を見捨ててしまったら、私は──私という存在の理由は────

「……そう、それが君の答えなんだね」

 彼女の手を離し、立ち上がる。その背にかけられる声は私を責めるもの。
 それも当然だ。傷ついた彼女を置いて、私は先へ進もうというのだから。人類ではなく、たったひとりを選んでしまったのだから。

 ……でも、しょうがないよね。

「……私は、私という存在のすべては、吉田くんのものだから。そうであってほしいと、私自身が願ってしまったから」

 だからもう振り返らない。切り捨てたものも、思い出せない過去も、『恐れ』の正体も。それらを振り切って、私は駆け出す。
 攻略法なんてわからない。わからないなら、壊してしまえばいい。すべて。この世界が成立できないほど、跡形もなく。
 扉をこじ開ける。闇を裂く。硫黄の雨が降り、世界は砕け散る。その繰り返し。繰り返し、繰り返し、繰り返し、誰かの悪夢を断ち切り、誰かを悪夢の中に取り残していく。傷ついた人を取り残して、助けを乞う声を見捨てて、私は先へ進む。

 ──たったひとつ、守りたいものを見つけてしまったから。

「……吉田くん!」

 暗闇の中、唯一の光に向かって手を伸ばした。