クリスマスの話


 吐く息が白い。吹き曝しの頬を打つ風は痛いくらいだ。『寒いな』と瞬間的に思って、『12月も半ばを過ぎたのだから当然か』とも思う。
 今月に入ってから急激に下がった気温。お陰で冬が来たという感覚が薄い。ただでさえ激務を極めるデビルハンターという職業。過ぎ去る時は一瞬で、意識は未だ秋の終わりに取り残されていた。

「今日もお疲れ様だね、アキくん」

 太陽はとっくに沈み、街を彩るのは人工的な光に取って代わられた。赤や緑、白色に瞬くイルミネーション。陽気な音楽が流れているせいか、すれ違う人誰もがご機嫌に見えてくる。
 「みんな楽しそう」こういうのを見ると、デビルハンターっていい仕事だなって思う、と名前は言う。白いシャツに男物の黒いコート。でも寒さに紅潮した頬だけが色づいている。
 俺は「そうだな」と返しながら、僅かに口許を緩めた。疲弊した身体、酷使された手足は重く、頭もあまり回っていない。
 この時期は毎年忙しくなる。というのも、出歩く人間が増えるということは、それを狙う悪魔もまた動きが活発になるからだ。自然の摂理、当然の帰結。永遠に続くイタチごっこ。正直、嫌気が差さないといえば嘘になる。
 でも、デビルハンターを辞めた名前なんて想像できないし、彼女を残して辞職する選択肢も最初から存在していなかった。

「まぁでも、クリスマスくらいは平和に終わるだといいんだけど」

「そんなの悪魔には関係ないだろ」

「だよねぇ〜」

 ガックリと肩を落とす。そんな名前の横顔を仄白い灯りが照らしていた。通りに立つ木々、そこに施された電飾たち。点滅するもの、順々に光るもの。大小様々な光が輪郭を縁どり、闇夜の中に浮かび上がらせている。

「イブまであと3日、せめて大きな事件が起きないよう祈っておこう」

「ああ……、」

 あと3日、……あと3日?

「え?」

「早いよねぇ、あっという間に年越しだ」

 名前はその後も何事かを言っていたけれど、すべては右から左に流れていった。
 もうすぐクリスマスだという認識はあった。12月も半ばを過ぎた、そう理解していたのに思考はそこで止まっていた。だから『イブまであと3日』だと名前が言って初めて自覚した。
 背中に冷や汗が滲む。クリスマスなんてまだ先のことだと思って、なんの予定も立てていなかった。いや別に、特別なことをしなきゃいけないなんて決まりはないけど。でも、たぶん、名前は『そういうこと』が好きだ。姫野先輩からクリスマスパーティーという名のただの宅飲みに呼ばれた時だって楽しそうにしていた。その姫野先輩はもういない。

 ──なら、俺が何かしてやらないと、





 と思い立ったのが昨夜のこと。そして『クリスマス 過ごし方』でネット検索したのは皆が寝静まった真夜中のことである。ちなみに収穫はない。イルミネーションを見るとか(それの何が面白いんだ?)、高級レストランで食事をするとか(そういうものに興味があるなんて聞いたことがない)、遊園地に行くとか(わざわざ混んでる時期に行く必要があるのか?)、そんなことが書いてあるばかりだった。
 明けて翌日。寝不足の目を擦り、自販機を目指す。公安本部に立ち寄ったところ、名前が岸辺隊長に捕まってしまったから、その暇つぶしも兼ねて。
 『コーヒーで少しはこの眠気も薄れるといいんだが』と思いながら休憩所に着くと、天使の悪魔がいた。俺を見るといつも顰めっ面をする、少年の姿をした悪魔。なんだか最近良く会う気がするな。まぁ、ちょうどいい。

「なぁ、ちょっといいか?」

「よくないって言ったら回れ右して帰ってくれる?」

「何でそんな機嫌悪いんだ?」

「君が持ち込むのは面倒ごとだって相場が決まってるからだよ」

「安心しろ、今日は聞きたいことがあるだけだ」

「『安心しろそれ』って世界で一番信用ならない言葉だよね」

「名前のことなんだが……」

「勝手に話し始めるなよ」

 やいのやいのと文句を言う天使の悪魔だったが、俺が無理やりに話を進めると大人しくなった。もちろん、『不本意です』と顔には書かれていたが。
 でも本質的にはイイやつだ。かくかくしかじか、俺が事の次第を説明する間も立ち去ろうとはしなかった。

「……ってわけなんだが、名前から何か聞いてないか?クリスマスにやりたいこととか、欲しいものとか」

「知らないしそれを僕に聞こうと思ったのが不思議で仕方ないよ」

「……?仲良いだろ、名前と」

「眼科行ったら?」

 俺としたら事実を言っているつもりなのだが、どうしてか半眼で睨まれた。天使の悪魔は「君たちは揃いも揃って……」と溜め息をつく。『君たちは』ということは、名前とも何かあったのかもしれない。
 けれど俺がその場から動かないことを見て取り、諦めた様子で天を仰ぐ。「仕方ないな」というのが、近頃天使の悪魔の口癖になってきている。

「って言っても、僕だって知らないよ。クリスマスの話なんて名前の口から聞いたことないし。欲しいもの……とかもないんじゃない?」

「そうか……」

「もうさ、諦めて直接聞いたら?『何が欲しい?』って」

「それは何か……違くないか?」

「君って結構ええかっこしいだよね」

 グサリ。天使の悪魔は容赦がない。「カッコつけたがり」と嘲笑が向けられる。反論はできない。
 俺だって、名前に直接聞くのが一番だってわかってる。そもそも、クリスマスに何かしてやりたいというのだって俺の勝手な考えだ。名前は俺に何も望んじゃいない。それが時々、寂しくもある。

「……名前から何か貰ったことはないの?貰って、嬉しかったものとか」

 落ち込んでいる俺を哀れに思ったか。天使の悪魔は声の調子を変えた。
 名前からのプレゼント。そう言われてパッと思い出せるものといえば……

「……肉片?」

「それは……確かに強烈だけどさ」

「いや、そうだな。お前の言いたいことはわかる」

 天使の悪魔は『自分が貰って嬉しかったものをプレゼントしたら?』と言いたかったのだろう。そのための問い、であったにも拘らず、俺が思いついたのは何の参考にもならない代物。
 でもだってしょうがないだろ、と内心自分に言い訳する。名前の──信仰の悪魔の肉片。そのお陰で呪いの悪魔との契約も帳消しになり、今の平凡な日常を手にすることができた。貰い物としてはこれ以上ないってくらいに強烈なものだ。

「……別に、特別なことなんてする必要ないと思うけどね」

 そう言った天使の悪魔は、大人びた顔つきをしていた。





 特別なことなんてする必要ない。そんなことは百も承知。なのに納得しきれないところがあって、何だか据わりが悪い。
 かといって満足のいくアイディアも思いつかず時間は流れ、今日はクリスマスイブ。聞き飽きたクリスマスソングがひっきりなしに流れる街。日中パトロール中に無理やり浴びたそれは本部に戻った後も俺の耳から離れなかった。
 カタカタとキーボードの音が響くオフィス。日はとっくに暮れ、けれどデビルハンターに定時退社という概念はない。宵の口に要請された悪魔退治を無事に終え、今は報告書を書いている。バディの名前は拘束した悪魔の後処理に駆り出されて不在だ。
 『ケーキの予約してるから、それまでには帰りたいね』デンジに帰りが遅くなる旨を連絡した後で、名前はそうぼやいていた。夕食は冷えたチキンを食べる羽目になりそうだ。それでも名前は何の不満も洩らさない。けど、こんなクリスマスでいいのだろうかと俺は思う。思考は同じところを巡り巡り、一向に出口へと辿り着かない。
 溜め息をついたのは無意識のうちによるところ。指先だけが機械的にキーボードを叩く。

「あれ、アキくんしか残ってないの」

 空気が揺れたのと同時に声が響く。聞き慣れた名前の、僅かに驚きを含んだ声。
 「いつもなら誰かしらいるのに」そりゃあ今日はクリスマスだからな。正確にはその前夜祭なんだけど。
 だからみんな『こんな日くらいは』と早々に帰っていった。デビルハンターであっても元は普通の人間だ。用事の有り無しに関わらず、祝日にまで働く気にはならない。
 そう説明すると、名前は「あぁ、そっか」と納得。「クリスマスだもんね、家族と過ごしたいのは当然だよね」そう。家族とか友人とか、……恋人、とか。
 そんなことを考えたのは俺だけで、うんうんと頷く名前の顔に他意の色は見られない。それがよかったのか悪かったのか。自身の感情すら掴めず、考えることを放棄した。

「でもアキくんが報告書に手間取ってるなんて珍しいね、いつもならパパッて片付けちゃうのに」

「あー…、保存する直前でデータが飛んで、」

「あらら、それは災難」

 これだから機械は信用ならないのだと名前は眉を寄せる。
 「このポンコツめ、アキくんに迷惑をかけるとは何事か」芝居がかった口調。そして振り上げられた拳。
 ……いやいや、冗談だよな?

「おい、」

「でも一発くらいはね、分からせてやらないと」

 その言葉通り、拳骨をひとつ。こつり。柔い一発では、パソコンの分厚い装甲は軽い音を立てるだけだった。

「アキくんに感謝するんだよ。彼が庇わなかったらキミなんてリサイクル業者行きだったんだから」

 名前は大真面目な顔で説教する。
 が、相手はパソコンだ。返事なんて当然ないし、端から見ると頭がおかしくなったとしか思えない。滑稽な光景。思わず、脱力する。データが飛んだ苛立ちと時間に追い立てられる焦りが、波のように引いていくのがわかった。
 俺は「大丈夫だ」と口角を持ち上げる。

「そんなに時間はかからない」

「手伝えることはある?」

「…………コーヒーがほしい」

「わかった、買ってくるね」

 別に喉が渇いてるわけでも眠気覚ましが必要だったわけでもないんだけど。でも期待のこもった目で見つめられると『手伝いは不要』とは言えなかった。
 それにしても何が嬉しいのか。ただの使い走りにされただけなのに、名前の声は弾んでいた。駆けていく足も軽やかで、見ていて気持ちがいい。

「ただいま!」

「早すぎだろ」

「そりゃあね。せっかくアキくんが必要としてくれたんだもの、ここで本気を出さずいつ出すっていうの」

「……大袈裟だな」

 ものの数秒で帰ってきた満面の笑み。差し出された缶コーヒーを受け取りながら、俺もつられて笑う。
 気を取り直して画面に向かう。さっきまでより集中できるような気がするのは、ひと口飲んだばかりのコーヒーのお陰……というわけではないのだろう。クリスマスの計画すら立てられなかった俺だけど、さすがにそこまでガキじゃない。
 向かいのデスクに座って、同じ銘柄の缶コーヒーを口に運ぶ名前の横顔を盗み見る。彼女は何を見て、何を思っているのか。名前の目は大きなガラス窓の、そのさらに向こう。ここからじゃビルの連なりと点在する照明、あとは褪せた星空くらいしか見えないだろうに。それとももっと別のものを見ているのだろうか。
 俺には見えない、何かを。

「……先に帰っててもいいんだぞ」

 キーボードを叩きながら思ってもないことを口にした。デンジとナユタの名を挙げ、「ケーキも取りに行かないといけないんだろ」と言った。
 名前は俺を見る。見られている、ということが肌でわかる。けれど俺はパソコンの画面から目を離さない。それでもガラス玉みたいに透き通った双眸がみえる。その目に見つめられた時に生じる軽い失墜感。どこか深いところに落ちていく。その感覚を、不思議と心地いいと思う。
 いつからだろう?いつからそんな風に思うようになったろう?それはつい最近のことのようで、或いはずっと昔からのような気がした。

「そういうわけにはいかないよ。私はアキくんのバディなんだから」

「……報告書は俺一人で書ける。お前がいたってやることはない」

「いる意味がないなら、いちゃダメな理由もないよね」

「ああ言えばこう言う……」

「まぁいいじゃない。こうして街の灯りを眺めているだけでも楽しいものだよ」

 名前の声は歌うように弾んだもの。昼間聞いたクリスマスソングを何とはなしに思い出す。聞きすぎて胸焼けがする、と昼間は思ったのに、今は厭じゃなかった。
 俺は「安上がりだな」と笑った。そんなものを楽しいと思える名前も、……その答えを嬉しいと思ってしまう俺も。
 お互い様だ、という言葉は呑み込んで、吐息だけで笑った。気恥ずかしさがさざ波のように心臓を撫でていく。むず痒い。顔が緩んでしまいそうになる。それを抑えるために奥歯で頬の裏っかわを噛み締める必要があった。
 沈黙が落ちる。広がる静けさ。キーボードとマウスの無機質な音が断続的に響く。名前は何も言わない。何も望まない。俺もそれでいいと思う。今以上なんてないとわかっている。でもそれとはまた別のところで何かを望んでほしいとも思う。望まれたいと思う。叶えたいと願ってしまう。……何かを。

「……何か……、欲しいものとか、ないのか」

「え?」

 交わる視線。僅かに見開かれた目に、ハッとする。
 しまった。心の声が洩れ出てしまった。それにしたってこんなところで、こんな状況で……、なんて最悪だ。イルミネーションに煌めく街並みが途端に憎らしく思えてくる。ここはこんなにも殺風景で、情緒なんてもの微塵もないのに。
 でも、言ってしまったものはしょうがない。
 俺は「クリスマスだろ」と口早に言い募った。

「こんな時間まで付き合わせることになったし」

 言い訳にしたって他に言いようがあるだろ、と内心で頭を抱える。

「償いならいらないよ。受け取る筋合いがない」

「だからそういうんじゃなくて……」

 予想通り、名前は俺の言葉をそのまま受け止めた。とりあえず否定したが、……なんと説明すべきか。頭が痛い。俺はこめかみを押さえる。『君って結構ええかっこしいだよね』──天使の悪魔によってつけられた一昨日の傷が今になってズキズキ痛んだ。
 そうだよ、その通りだ。格好つけたがりの見栄っ張り。記憶の中の天使の悪魔に、自嘲でもって答える。形ばかり取り繕おうとして、結局こんな醜態を曝す羽目になった。名前に喜んでもらいたくて、何かを望んでもらいたくて、望まれる自分でありたくて──なのにプライドが邪魔をして、こんな情けない状況に追い込まれた。
 ……けど、ここまできたら、もうこれ以上恥ずかしいこともないだろう。俺は小さく息をつく。吐いて、吸って。それからふと、二年前のクリスマスのことを思い出す。正確には、その時観た、映画のワンシーンを。

「……いや。クリスマスには、真実を言わなくちゃいけないんだったよな」

 理由が必要だった。映画の中の男のように。でも俺は彼ほど格好良くはなれない。今だって腹に力を入れなきゃ目を逸らしてしまいそうだ。けど逃げるわけにはいかなかった。

「クリスマス、何かしてやらなきゃって思ってた。ほら、姫野先輩には色々付き合わされただろ?何の意味もないのにイルミネーションを見に行ったり、わけもなく映画館をハシゴしたり、それで決まって夜にはケーキとチキンを食って、酔い潰れてさ」

「……酔い潰れてたのは姫野ちゃんとアキくんだけだよ」

「あぁ、そうだったな」

 「でも楽しんでただろ」と続けるが、名前は否定しなかった。ただ黙って、俺の目を見つめ返した。
 名前の眼、透き通ったガラス玉。蛍光灯の無機質な光ですら、その瞳の中ではベツレヘムの星となる。それを綺麗だと感じるからこそ、こわいとも思う。本当はいつだって喪うことを恐れている。幸福の裏側にはいつだって恐れが眠っていた。
 「だから何かしてやりたかった」そう言った頃には最初にあった躊躇いは薄らいで、ひどく穏やかな気持ちになっていた。
 そのせいか、

「けど何も思いつかなかった。岸辺隊長にも、天使のやつにも相談したんだけどな」

 なんてことまで打ち明けてしまって、名前に「デンジくんには聞かなかったの?」と首を傾げられる。

「……あいつに聞くのはなんか、負けた気がするだろ」

「勝ち負けの話なの」

「おい、笑うなよ」

 俺は眉根を寄せて、でもすぐに目許が和らぐのがわかった。しじまに溶ける、ささかな笑い声。吐息混じりのそれですら、その静けさですらなんだか愛おしい。クリスマスの錯覚だ、と取り繕う気にもならなかった。
 名前は笑みを含んだまま言う。

「私の欲しいものはね、人間の血肉だよ。決まってるでしょう、私は悪魔なんだから」

 悪魔だから、と名前が言う時、そこにはいつも自嘲の念があった。悪魔だから、──人間ではないから。そう言うことで自傷を重ねていく名前を見るのが嫌だった。
 でも今は──笑いながらその言葉を口にした名前は、痛みを堪える表情をしていなかった。

「だからね、アキくん。キミが隣にいてくれればそれで私は満たされるんだよ。……『私にとって、キミが最高の人』」

 すぐに返事ができなかったのは驚いたからだ。甘くて、少しほろ苦い。そんな映画のワンシーンを再現した名前に、俺と同じことを考えていた彼女に、驚かされた。
 「あぁ、一昨年のクリスマスに観たな」ラブ・アクチュアリー。愛は至るところに。仕事終わりの聖夜、クリスマス特集をしていた映画館で観た。それをさも今思い出したみたいに呟くと、名前に「だってアキくんが『クリスマスには真実を言わないと』なんて言うんだもの」と返される。
 映画ではそのセリフの後で名前が引用した告白の言葉が続くのだ。好きだとか愛してるとか、そういうのじゃ収まりがつかない感情の、……とそこまで考え、手のひらが汗ばむ。へいきな顔の名前がすこし、憎らしい。

「……俺も、そう思う」

 俺にはまだ、「クリスマスだから」という理由が必要なのに。
 でも、……そうだ。クリスマスなんだから。クリスマスくらいは、バカをやったっていいだろう。
 俺は作業途中のデータを今度はしっかり保存して、パソコンをシャットダウンさせた。クリスマスなんだから、こいつだって少しくらいは休みたいはずだ。
 立ち上がると、つられて名前の目も上向いた。その前に右手を差し出す。

「……イルミネーション、見に行くぞ」

「え?」

「ケーキを引き取って、明日……仕事が終わったら映画を観に行こう」

「……うん、」

「……他に何か、したいことはあるか?」

 結局それ以上のことは思いつかず、名前の様子を窺い見る。
 ──と。

「……抱き締めてほしい」

 クリスマスだから。そう囁いて──本当に、耳をそばだてなければ聞こえないくらいの声で囁いて、名前は目を伏せる。
 まるで怯えているみたいだ。それとも恐れているのか。何にしろ、心当たりはある。彼女は自分を罰しようとするきらいがあるから。

「……クリスマスだけ、なんて言うなよ」

 だから俺は素知らぬふりをして名前の腕を引いた。
 抱き締めた身体越しに夜空が見えた。都会の、褪せた星空。名前の眼の方がずっと綺麗だと俺は思う。だからこんなものになど意識を傾ける必要なんてないんじゃないか、と数十分前の彼女に言いたくなる。そんな遠いところなんかじゃなく、俺だけを見ていればいいのに。その特別な星が照らすのは俺だけであればいいのに、と願いながら、俺は背中に回した手に力をこめた。