それからの話X


 都会の時間は慌ただしく過ぎていく。朝を迎えたかと思えばすぐに日が暮れ、夜が来る。デビルハンターともなればなおさらだ。職場と現場の往復。僅かな余暇を家で過ごす。そういうものだった。

「……わざわざ復職するなんて、被虐趣味のケがあるんじゃないの」

 久しぶりに会った天使の悪魔は相変わらず辛辣だった。信じられないとでも言いたげに眉根を寄せ、俺を見た。
 先日とは打って変わっての快晴。春の穏やかな日差しが窓から降り注ぐ。場所は公安本部、休憩所。午前のうちに一体悪魔を倒した俺と名前は着替えのために戻っていた。
 頭から臓物を浴びた名前にシャワーを勧め、俺は自動販売機で缶コーヒーを買った。以前ならこういう一人の時間はなかったし、それより前は煙草を吸っていればよかった。手持ち無沙汰に空模様を眺めていると、気怠げな天使の悪魔がやって来た。そして言い放ったのが上記の台詞である。
 俺は「そんなんじゃない」と否定するが、天使の悪魔は「へー」と適当な相槌。続く言葉は「まぁどっちだっていいけど」
 ……なら聞くなよ。でもまぁ、こいつが殊勝な態度を取ったら、それはそれで気味が悪い。口の悪さは元気な証とでもいったところ。俺はもう一本コーヒーを買って、天使の悪魔にくれてやった。

「げぇ、ブラック?」

「いらないなら返せ」

「貰えるものは貰っとくけどさぁ」

 プシュ、と空気の抜ける音。文句を言いながらも缶コーヒーに口をつけ、天使の悪魔は「苦い」と顰めっ面。ガキみてぇだな、と言ったら二言三言では足りない罵詈雑言が飛んできそうで、俺は大人しく缶コーヒーを傾けた。
 そういえばデンジもパワーもコーヒーが嫌いだった。でも名前は違うから、悪魔がみんな子供舌ってわけでもないんだろう。

「……よく、名前が許したね」

 思考を見透かしたみたいな言葉に、一瞬固まる。
 見下ろした先、色素の薄い眼は俺を見てはいない。遠く投げられた視線。或いは深遠を見透す眼。それは人間とは別種のもの。悪魔の──神に連なるものの顔。見覚えのある表情だ。こういう顔をする名前がいやだった。見ていられなかった。心臓はゾワゾワと毛羽立ち、呼吸の仕方がわからなくなった。
 けれど天使の悪魔を前にして、その感覚は一向にやってこなかった。その目が上向き、俺の顔を映しても。

「君のこと、あんなに危険から遠ざけようとしてたのに。どうやって説得したの?」

「それは……」

 先日の記憶を手繰る。
 正直なところ、自分が何を言ったかすらあまりよく覚えていない。あの時はそれだけ必死だったし、説得というより泣き落としと表現した方が適切な気がする。……が、それを馬鹿正直に打ち明けたらいったいどうなることやら。向こう一ヶ月はからかわれそうな予感がして、俺は口を噤んだ。
 そうなると自然思い出されるのはあの夜のこと。血の気を失った青い膚、体温の伝わらない手の、あの感触。原因となった戦争の悪魔は取り逃がしてしまったらしいが、見つけたら冷静でいられる自信はないな、と俺は思う。

「……惚れた弱みってやつか」

「……そうなのか?」

「僕に聞くなよ」

「……まぁ、そうだったらいいな」

 話を振ったのは天使の悪魔のほう。なのに答えると、『オエッ』と吐く真似をされた。挙げ句、「君のせいでお腹いっぱいになっちゃった」と飲みかけのコーヒーを突き返される。
 ……いや、どうしろって言うんだよ。

「あれ、天使くんがいる」

 休憩所のドアが開き、名前が顔を覗かせる。「久しぶりだね」と綻ぶ目許。駆け寄ってきた様子からも嬉しさが滲み出ている。両手を掴まれた格好の天使の悪魔は、迷惑そうな顔を隠しもしないが。
 でも拒絶しないあたり、本当の意味で嫌だというわけでもないのだろう。悪態をつく天使の悪魔と、それすらも笑顔で聞き流す名前。不意に思うのは、この関係は彼女が信仰の悪魔であることに起因するものなのか、という疑問。天使も信仰も宗教という繋がりがある。悪魔は地獄で生まれるらしいが、二人はその頃から関わりがあるのだろうか。この世界で死んでも──地獄で生まれ変わっても、ずっと、

「……髪くらいちゃんと乾かしてこい」

 肩に引っ掛けたままのタオルを掴み、後ろから名前の頭を包み込む。
 熱気の残る金糸。タオルを動かすと、沈んだ印象の香りが揺らめき、立ち上る。華奢な項、白い肌。でもその下には赤い血が流れ、心臓が脈打っている。人間と、同じように。
 ──生きている。

「アキくんは細かいなぁ」

「あんまり甘やかすとつけ上がるよ」

「そうだよ、調子に乗っちゃうよ?」

 やいのやいのと言うくせ、「いいけど」と首肯すると二人は顔を見合わせた。そうしていると二人はよく似ているのがわかった。姿かたちが、というより、面差しだとか、醸し出す雰囲気とか。きょうだいだと言われたら信じてしまいそうだ。そんな二人のうち、一人が呆れた様子で肩を竦めた。
 「そういうのは僕がいないとこでやってよ」……何が?

「……もういいや」

 面倒だ、と説明を放棄。天使の悪魔は重たい足取りで出口に向かう。「ここにいたら余計疲れるからね」またね、と手を振る名前に片手で応え、小さな体はドアの向こうに消えていった。

「アキくん、天使くんに気に入られてるよね」

「そうか?」

 それを言うなら名前の方じゃないか、と思う。名前の方がよほど天使の悪魔と親しく見える。天使の悪魔の方が、俺よりずっと、名前のことを理解している。俺は、名前の声が弾んで聞こえる理由すらわからないのに。

「……なんで嬉しそうなんだ?」

「そりゃあだって……ふつう、嬉しくない?自分の好きな人が他の誰かにも尊重されてたら……」

 続く、「私は嬉しいと思うけど」という言葉は右から左。空気抵抗もなくふわふわと漂い、ただ一点、『好きな人』という一節だけが、ズシンと重力を増して心臓に落下した。
 俺は「へえ」と努めて平坦に答えた。速度も音程も一定、大丈夫だ、動揺なんかしちゃいない。俺は冷静だ、「いたた」

「……悪い」

 殆ど無意識のうちに動かしていた手。名前の髪を拭いていたはずだが、いつの間にか力が入っていたらしい。白いタオルが目に痛い。でも名前は「大丈夫だよ」と笑う。

「禿げちゃったら責任取ってもらうから」

 名前にとっては何てことない冗談。でもそういうことは簡単に言わない方がいいと俺は思う。俺は名前とは違う。嬉しいなんて思えない。

「ありがとね、アキくん」

「ああ、」

「ね、コーヒー一本貰っていい?喉乾いちゃった」

 テーブルに残された飲みかけの二本の缶。左は天使の悪魔のもので、右は俺のものだった。かつての話だ。
 一瞬の迷いのあと、俺は右の缶コーヒーを名前に手渡した。どちらだって大した差はない。名前は気にしないだろう。でも左は俺のものになって、右は名前のものになった。それが俺の選択だった。ガキなのは俺も一緒だった。

「はぁ……」

「なになにどうしたの?溜め息なんかついちゃって」

「いや……、俺もまだまだガキだなって」

「……?よくわかんないけど、子供の頃のアキくんも可愛かったんだろうね。見たかったなぁ」

「……そう言うお前は、」

「ん?」

「……昔からコーヒー、好きだったのか?」

「唐突だね」

 それは俺も思う。脈絡ってものがまるでない。第一、本当に聞きたかったことは他にある。あるのだけど、それを一から百まで言葉にするのは困難で、今はそのうちの一つを口にすることくらいしかできなかった。
 名前は不思議そうに目を瞬かせる。その後で、「うーん」と顎に手をやる仕草。どうやら素直に答えてくれるらしい。
 『惚れた弱みってやつか』──どうして今、天使の悪魔の台詞を思い出すのか。

「たぶん、最初はマキマさんが飲んでたから……ってだけな気がする。苦いだけで美味しいなんてちっとも思えなくて。でもマキマさんが飲んでたし……、」

 ……まぁ、大方そんなところじゃないかとは思っていた。マキマさん、信仰の悪魔に名前をつけ、保護してくれたひと。死してなお、名前の心を捕らえて離さないひと。納得の理由だ、これじゃ反抗心も湧きやしない。
 俺は『そうか』と頷こうとして──「それに、ほら!」と朗らかに手を叩く名前に遮られる。

「アキくんは覚えてないかもしれないけど、オススメのコーヒーだって、お店を紹介してくれたことがあったでしょう?だからその味を理解したくて、飲み続けてるうちになんだかクセになっちゃった。……あはは、私の方が子供っぽい理由だね」

 手にしたコーヒーを落としそうになって、慌てて踏みとどまる。何を言われたのか、頭が理解するより先に身体が動揺してしまいかけた。
 そんな俺をよそに、名前は呑気にコーヒーを飲んでいる。その姿が憎らしいような、愛おしいような。
 ──愛おしい?

「はぁぁ……」

「あ、溜め息が深くなった」

 『お前のお陰でな』という言葉を寸でのところで呑み込む。それを言ったらおしまいだ。子供じみた八つ当たり。そんなのは心のうちに留めておかなければ、自分で自分が許せなくなる。
 俺は窓の向こうに目をやった。眼下に広がる大都会。勝手気ままに乱立するビル群と、その間を通る曲がりくねった小道。雑然とした街並みに、妙な親近感を覚える。
 ……と、スーツの袖を引かれた。

「どうした?」

「……っ、な、なんでもない」

「……それが何でもないって顔か?」

 知らず、眉が寄る。手首を掴み、覗き込むと、名前は小さくたじろいだ。ほんの少しの揺らぎ。さざ波が立った双眸を、じいっと見つめる。
 持久戦だった。何秒か、何分か。無言の攻防の後で、白旗を上げたのは名前だった。
 だらりと力の抜けた手。何かを探すように泳ぐ視線。「……バカなことを、ってキミには笑われそうだけど」そう呟いた名前の口端にこそ笑みが上っている。自嘲の、笑みが。

「ふとした瞬間、怖くなるんだ。キミを喪うことを想像して、その先も続く時間を思って、ゾッとする。キミがいなくちゃ私は罪を償うこともできないのに、贖罪すら果たせずのうのうと生き続ける自分が、恐ろしくてたまらない」

「……贖罪?」

「……キミたちからパワーちゃんを奪ってしまったから。だから私が彼女を見つけないと」

「……それで公安に戻ったのか。悪魔だって、隠さなくなったのも」

「うん、その方が動きやすいからね」

 一見すると名前の話は筋が通っている。確かに公安で活動した方が色々な情報が入ってくるだろう。積極的に戦ってくれる悪魔ともなれば、なおさら。血の悪魔を見つけ出すという目標も、案外簡単に達成できるかもしれない。
 ──でも、そもそもの前提が間違ってるとしたら?
 俺は握る手に力を込めた。

「パワーがいなくなったのはお前のせいじゃない」

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないでしょう?」

「……何でも救えるなんて、思い上がりも甚だしいと思わないのか?」

「思わないよ。だって救いこそが私の存在意義だもの」

 見つめ合う。今度は真っ直ぐ、睨むような鋭さをもって。
 じっと見据えても、名前は揺らがない。見つめ返してくる眼の、その硬質さ。春はまだ遠く、夜明けの凍てついた空気を思わせた。しん、と底冷えする。こころ。

「……死なせないって言ったのは嘘なのか?」

 そこではじめて、長いまつげが震えた。遠くを見ているようだった蒼い眼が焦点を結び、俺の姿を捉える。捕らえて離さない、夜明けの色。朝と夜の間、束の間のひと時──永遠にはなり得ないもの。
 でもほしいのは永遠じゃなかった。永遠なんかなくたってよかった。今この瞬間さえ手に入れることができたら、それでよかったんだ。

「言っただろ。俺だって、お前が死ぬのはいやだ」

「……私の方がずっと、キミに生きててほしいと思ってるよ」

「そこで張り合うのかよ」

 ふ、と息つくように笑うと、釣られて名前も目許を和らげた。
 そういう顔は嫌いじゃないな、と俺は思う。溶けた薄氷で僅かに潤んだ瞳、赤みの差した頬。手のひらの下で脈打つ血管に、ホッとする。結局言い負かすことはできなかったけれど、ようやく名前の心に触れられた気がした。

「だって絶対、私の方がキミのこと、大好きだもの」

 ……………………、

「はぁぁ…………」

「どうしてそこで溜め息?」

「……さあな」

 名前は不思議そうに首を傾げる。
 でも教えてなんてやらない。精々悩めばいいと思う。悩んで、それで頭がいっぱいになってしまえばいい。他のことなんか考えられないくらい、いっぱいに。