もと来た道


【原作236話『南へ』ネタバレあり】






 五条悟が「沖縄に行こう」と言い出したのは空港のラウンジにいる時だった。12月にしては暖かい真昼のこと。疎らに客のいる店内で彼は南の方角を指差した。
 彼の真向かいに座っていた名前はつられて指の先を目で追った。行き当たったのは二人の女性客。後ろ姿でも楽しそうに談笑しているのが見て取れる。

「行儀が悪いよ、悟。人を指差しちゃダメって教わらなかった?」

 五条を窘めたのは彼の親友だった。夏油傑。いつものように子どもを教え諭す口ぶりで、でもいつもより温かい声音で、夏油は隣に座る同級生を叱った。
 五条は五条で「こんなとこまで来てお説教かよ」と舌を出しながらも、その実楽しそうに頬を緩めているから不思議だ。いつもなら……

 ──いつもなら?

 自分の思考に自分で首を傾げてしまう。自分は何に違和感を覚えていたのだったか。連続するはずの記憶の断絶。これでは世界五分前仮説も否定できない。

「沖縄かー!いいね、前に行ったのは1年の夏だっけ?」

「ああ、結局2日間空港に缶詰されただけで終わった時の……」

 左右で色の違う声がする。灰原と七海。名前の同級生。たった二人の大切な友人。灰原は「でも先輩たちは身を粉にして働いていたから!」と笑顔で握り拳を作って、七海は「身を粉にして、ねぇ……」と胡乱な目を五条に向けた。
 しかし五条の方はまったく気にもとめず、「やっぱ南っつったら沖縄だよなー」と口角を上げている。

「前は海行って、カヤック乗って、水族館行って〜……」

「そんなことしてたんですか……」

「今度はダイビングとかシュノーケリングとかやりたいよな」

「いいですね!」

「そういえば定番の青の洞窟にも行ってなかったよね」

「時間的に余裕なくて諦めたんだよな、確か」

 賑やかな会話を横目に、名前は窓ガラスを眺めた。ぼんやりと浮かぶ、高専の制服を身に纏った己の姿。その向こうに広がる光景を。
 窓の向こうには飛行場があった。着陸し、或いは飛び立っていく旅行者たち。誰もが一処には留まらない。永遠など存在しないのだ。今もまた一人また一人と、飛行機のタラップを上っていく。

「そういやこのメンツで海行くの自体初なんだっけ?」

「そうじゃない?だいたい誰かしら……っていうか悟はほぼ毎日任務で埋まってたし」

「あっ、自分たちは任務で行ったことあります!ね!」

 灰原の声で我に返る。「そうですね」と返す七海に一拍遅れて、名前は首肯する。
 あれは8月も終わりの頃だったか。『海からくるモノ』なる怪談噺由来の呪霊を調査しに1年3人でとあるビーチに足を運んだことがある。……なんだかいやに懐かしい。郷愁にも似た思いが込み上げ、名前は口端に歯を立てた。

「あの時は自分の伝達ミスで七海だけ水着持ってきてなくて……。今度は仲間外れにしないからね!」

「よし、それなら七海の水着は僕が選んであげるよ」

「悟のセンスだけじゃ不安だろうから私も選んであげるね」

「いや、結構です」

 「それなら俺が!」と手を挙げる灰原に、七海は「結構です」と繰り返す。誰も信用ならない、と書かれた顔。その理由をわかっているはずなのに、「先輩の厚意をムダにするのか」「後輩を可愛がりたいだけだよ」と大人げない先輩二人が食い下がる。
 その光景は懐かしいような、……そうでないような。どこか知らない国に来てしまったような心もとなさ。窓ガラスの向こうでまた一機、飛行機が飛び立つ。
 ……なんだか落ち着かない。店内に視線を巡らすと一枚の絵画が目に止まった。
 ティツィアーノの油彩画。正三位一体と王族たち。最後の審判、『ラ・グロリア』。描かれているのは神聖ローマ皇帝カール五世。王族とて、最後の審判からは逃れられない。誰にでも等しく訪れる唯一のもの。それが『死』だ。
 ……頭が痛い。搭乗手続きを求めるアナウンスが聞こえる。──発、──行き────。無機質な音声に重なって、耳元で囁くものがある。

 ──もう時間だ、と。

 それはカール五世の言葉であり、鎌を持った死神の声でもあった。

「と、あんまり長居をするのもよくないかな」

「あ?あー……そうだな」

 五条が頭を掻く。僅かに寄せられた眉。サングラスの奥、揺れる瞳が映すものはなんだろう。その肩を叩いて、夏油は席を立つ。
 彼だけじゃない。名前の両隣、灰原と七海も椅子を引く。「あっという間だね」「そういうものですよ」そう言って、名前を見下ろして。

「……待ってますから」

 穏やかな声だった。穏やかな眼差しだった。柔らかくて、優しくて──喪失感に、泣きたくなった。
 その瞬間、理解した。違和感の正体。懐かしさの理由。それらはすべて、喪われてしまったものだから。たった二人の友人も、尊敬していた先輩も。
 ──ただ一人この場に残った人が、自分にとって特別な存在であったことも。

「五条先輩、」

「やだな。なに、その余所余所しい呼び方」

 「いつもみたいに呼んでよ」と、五条はサングラスを外す。
 変わらぬ白皙の美貌は、けれど先刻よりも幾らか大人びて見える。出会ったばかりの頃の16歳の少年ではなく、大人になる他なかった17歳の子どもでもなく。名前が最後に見た、29歳の五条悟がそこにいた。
 だから名前も「悟さん」と呼び直した。ふたりきりの時の特別な呼び方。意識して変えていたわけではないけれど、いつからかそうなっていた。そうなるくらいの時間をつかず離れずの関係のもとで過ごしてきた。そこにあったのは恋ではなく、──ただ彼だけが『特別』だった。

「……あなたも、行ってしまうんですね」

 人の気配が絶えた店内。生き物の呼吸さえ感じられない、冷え冷えとした空気。白日だけが脚を伸ばし、目の前に座る人の顔すら呑み込んでいく。

「……ごめんね」

「私を殺すのは自分だって言ったのに、……うそつき」

「うん、ごめん」

「……思ってないくせに」

「うん、でも俺以外の誰かに殺されるのはゆるさないからね」

 温かな陽の光の中で五条は微笑を浮かべる。
 蒼く澄み渡る双眸で、静かに凪いだ笑みで、なのに酷く残酷なことを言う。あんまりな言葉だ。こんな呪い、他に知らない。

「それ、私に『死ぬな』と言ってます?」

「言ってない言ってない。ただ俺以外に殺されちゃダメってだけ」

「……つまり?」

「七海も言ってたじゃん。待ってるって」

 くしゃり、と頭を撫でられる。
 あぁ、そうだ。この温かさ、間違いない。人より低い体温。覚えのある温度に、名前は思い出す。
 私も決して体温が高い方ではなかったから、『二人でいればちょうどいい』ってあなたは言ってくれたんだった。それなのに同じ口で『一人で生きろ』と言うなんて。

「うんと長生きしたらどうするんですか。それでも待っててくれるんですか?」

「待ってるよ。ほら、俺って優しいから」

「じゃあ私が他の誰かと生きていっても許してくれるんですね」

「え?許さないけど?」

「優しいんじゃなかったんですか」

「優しいけど一途だから、俺」

 頭に置かれていた手が降りて、顎を捉える。
 「だから名前も一途でいてね」小首を傾げて言うが、ちっとも可愛くない。もう少しで首に手がかかる、という格好のせいで脅迫じみて聞こえた。
 ……尤も、たとえ『そう』なったとしても、名前は一向に構わないのだけど。

「そこでもう少し力を込めてくだされば私も楽になれるのに」

「ちょっとー、誘惑しないでよ」

「乗ってくれてもいいんですよ?」

「こらこら」

 小さく唇を尖らす。「そういうのは俺以外に言ったらダメだからね」教え諭す物言いは『五条先生』らしいものなのに、表情は学生時代の我儘を言う時のそれで、その矛盾がまた彼らしくて──名前はここに来てはじめて笑った。『あの日』以来はじめて笑うことができた。

「悟さん、あなたのことを恨みます。これから先ずっと、私の一生をかけて呪いますから」

「永遠に?」

「はい、……いえ、永遠などありませんから、私が死ぬまで……でしょうね」

 「待っててくれるんでしょう?」と聞くと、「もちろん」と頷き返された。一拍の間もなく、当然だとでもいうように。
 名前は目を瞑り、自分の頬を包む手に自身のそれを重ねた。その手の柔らかさを、優しい温もりを忘れたくない。これから彼のいない長い旅が始まるのだから。……よすがとなるものは少しでも多い方がいい。
 ──と、唇に指先よりも柔らかなものが触れる感覚があった。

「……約束、こうしたら絶対忘れられないでしょ?」

 目を開いた先にある、黄金を背負った美しいひと、その天使のように無邪気な笑み。彼の瞳の輝きを見ていると、聖書の一節が思い出される。
 『神の国はかくの如き者の国なり』──輝いていたあの幼い頃の私の毎日がどんなに幸福なものであったことか!できることなら過去を目指して旅をしたい、もと来た道を引き返したい。あの輝かしい天使たちと別れた場所へ、神の国を望み見るあの場所へ──しかしその願いは叶わない。
 他でもないこの天使が、それを否定するから。

「忘れませんよ。忘れられるわけありません。こんなに美しいもの、私はあなた以外に知らない」

 きっと生涯、折に触れて思い出す。金色に輝く雲や一輪の花を見て、この人の影を見出すことになる。そしてそれを幸福なことだと名前は思った。五条悟──私にとって、神さまにも等しいひと。最期の時に、迎えてくれるひと。
 だから──だからもう、悲しくはない。

「さよならは言わないよ」

「ええ、必ず帰ってきます。あなたのところに」

「約束だよ。まっすぐ、俺だけ目指してね」

 小指を絡ませ、ほどき、離れる。多大な喪失感と欠落に痛む心。それでも浮かべた笑みは消えない。
 彼は南へ、名前は北へ。途方もない時間が過ぎ去ろうとも、その道はいずれ交わるのだから。





 目を覚ますと星星の瞬きと共に覗き込む顔があった。その顔に浮かぶ表情が不安から安堵へと変わっていくのを眺めながら、名前は起き上がる。

「ごめんなさい乙骨くん、心配をかけましたね」

「本当ですよ……。倒れてるあなたを見つけた時は心臓が止まるかと」

「それなら私が生きているのにも意味がある、ということですね。特級のキミを私のせいで死なせるわけにはいきませんから」

「……笑えない冗談はやめてください」

 眉を寄せる青年に、ごめんなさいと謝ってから名前は自分の身体を見下ろす。特級相当の呪霊と対峙した後の、土埃と血で汚れた身体。でも問題ない。動かしてみても痛みはないし、呪力も巡っている。再会の日は、まだまだ先になりそうだ。

「……大丈夫ですよ、もう無茶はしませんから」

 険しい顔に憂慮の気配を感じ取り、名前は乙骨の肩を叩く。でも信用してもらえない。「……本当ですか?」と疑いの強い目を向けられる。
 だがそれも仕方のないこと。あの日から──今までの自分をできるだけ客観的に思い返して、名前は眉を下げる。死に急いでいると思われても否定できないし、実際そう思っているところはあった。今でも死ぬことは恐ろしくないし、むしろ楽しみですらある。
 ──けれど、

「……土産話は多い方がいいと思いませんか?」

「……っ、そう、ですね。その通りだと思います」

 その一言で彼には通じた。
 乙骨は穏やかな笑みを浮かべて、胸元を握る。その服の下に大切に仕舞われた指輪。その輝きを名前は知っている。彼もまた大切な人を喪った経験がある。それでもなお生きていく道を選択した彼を、以前よりも親しく思った。

「……帰りましょうか」

 差し出された手を躊躇うことなく握る。
 頭上に広がる星空は鈍く、天国には遠く及ばない。握った手は馴染み深いものよりも温かく、遠慮がちだ。帰ったところで親友と呼べる人も、信仰する神もいない。焦がれるものはすべて、あの輝かしい場所に置いてきてしまった。
 それでも前に進むしかない。南を旅する彼らと、また出会える日まで。彼らと共に旅する日を夢見て、名前は歩みを進めた。




────────────────────
『輝いていたあの幼い頃の私の毎日がどんなに幸福なものであったことか!(略)できることなら過去を目指して旅をしたい、もと来た道を引き返したい(略)あの輝かしい天使たちと別れた場所へ(略)神の国を望み見るあの場所へ』
ヘンリー・ヴォーン『The Retreat』より引用