初春
呪術高専、東京校。その旧時代的な造りの建物からは見た目に違わず古臭い匂いがする。堆積する埃と萎びた木の匂い。およそ百年ほど前に大きな戦いがあって大部分が建て直されたらしいが、敷地内の建物のどれをとっても新品の装いを思い出させてはくれない。自分にとって、祖父母の若かりし頃とやらを想像できないのと同じように。
『爺やなんか、俺が物心ついた頃から変わらねぇもんな』五条家次期当主である少年は、まだ馴染みの浅い学び舎をぐるりと見回して思う。
かつて御三家と呼ばれた名家の一角、今やその大部分が形骸化して久しいが、なおも権力を保持し続けている五条家は当初、次期当主の高専入学に難色を示していた。これもまた原因は百年ほど前の──先代『五条悟』に遡るらしいが──そんなのは知ったこっちゃない、というのが当代『五条悟』の弁だ。
同じ術式、同じ六眼の所有者。だから同じ名前をつけた、ただそれだけの呪いに縛られたくなかった。自分が『五条悟』だから高専と関わるなと言うのなら、いっそとことん同じ道を選んでやろう、と。そんなことで何かが変わるとも思えなかったが、ものは試しだ。実際、こうして校内を探索してみたところで何の変化も訪れやしない。
それ見たことか。記憶の中の親類縁者たる老人たちを鼻で笑いながら、五条は古色蒼然とした校舎を出る。
途端、風にそよぐ桜並木に包まれた。
ハラハラと舞い、視界を遮る花弁。桃色に華やぐ小道。世間一般の人々なら『見事だ』と思うかもしれない景色に、しかし少年の心は惹かれない。受け止めるのは『桜が咲いている』という事実のみで、それ以外の感情は一切湧いてこなかった。
視線を巡らしたのは、気配を感じたからだ。何者かに見つめられる気配。それを感じ取った六眼の蒼色は、つい先程まで自分のいた校舎を振り仰いだ。
木造の建物の二階、どこぞの教室の窓辺に、人影があった。それは真夏の陽炎、逃げ水のように頼りない気配だった。ともすると──瞬きのうちにでも、消えてしまいそうな。
だから目を凝らした。見つめてしまった。きっと、目を合わせてはいけなかったのに。
桜吹雪の向こうで、制服を着た女が気まずげに微笑んだ。
「……こんなにはやく見つかってしまうとは」
──高専には幽霊がいる。
そんな噂話を思い出したのは、女の身体が薄っすらと透けて見えることに気づいた後だった。
高専に棲む幽霊は、とりわけ空き教室が好きらしい。
「そういや初めて会った時もここにいたよな」
帳を下ろし忘れた咎で担任教師に言い渡されたのは反省文の提出。そんなもの書いたところで行動を改める気になどならないし、もちろん不平不満は吐き出し済み。
それでも頑として譲らない担任から不承不承受け取ったまっさらな用紙を手に、真っ先に向かったのがこの空き教室だ。ここならヤジを飛ばしてくる同級生も堅物な担任教師もいない。その代わりに、窓辺に佇む女の幽霊がいた。
……正確には幽霊ではなく、残穢に近いものらしいが。
半透明の女──名前は、「そうでしたね」と葉桜を背に微笑んだ。やっぱりどこか気まずげに。座りの悪さを滲ませて、女は笑う。
「こんななんもないとこでなんてことない景色ばっかり眺めてるとどんどん陰気になってくんじゃね?ただでさえ辛気くさい顔してんのに」
「貴方に比べたら人類皆同じような顔ですよ」
「……そりゃそーだけど。そーいう話じゃないんだって」
「あら、違いましたか?」
口許に手を当てて淑やかに笑う。その所作は実家で見かける女たちと変わりないのに、どうしてか調子が狂う。何を言っても敵わないような気にさせられる。相手はただの幽霊で、残穢のようなもので、つまりは過去の遺物だというのに。
「もういいよ」と溜め息をつき、ペンを転がす。元よりなかったやる気が今では地の底。ぎいっと木製の椅子を軋ませて、机に頬っぺたをくっつける。無機物の冷たさが心地いい。
葉桜は日増しに緑を深めていく。もうじき梅雨だ。どうせなら楽しいことだけ考えていたい。
狭まった視界に、近づく女の足先が入り込んでくる。なのに足音はしないから変な感じだ。目を閉じてしまったら、もう会えない気がする。
「こら、行儀が悪いですよ。背中が曲がったらどうするんですか」
「別にいいじゃん。そうなったって俺は最強だし」
「私は嫌ですよ。この若さで腰の曲がった五条くんなんて見たくありませんから」
「なにそれ。歳取ったらいいの?」
目を上げて、思わず吹き出す。自分のすぐ隣に、真面目くさった顔で熟考する女がいたからだ。どうやら彼女は次の百年後を想像しているらしい。それも真剣に。
「そうですね……、お爺さんになった五条くんは見てみたくはあります」
「えぇ……、年上趣味?」
「貴方がお爺さんになっても私よりは年下でしょう」
それはつまり、この距離が埋まることはないということで。昔々のアキレスと亀の話を思い出した。
「ふーん……」
肘をついて、女の顔を覗き込んでみる。
全体的に華奢な造りをした顔の中で唯一大きな一対の双眸。黒目がちな眼はその実、遠くに馳せられていることが多い。初めて逢った時も──今この瞬間も、なお。
「どうしました?」なんて気遣ってる風な言葉を吐くくせ、俺のことなんかちっとも見ちゃいないんだ。五条は思い至り、腹立たしさに顔が歪んだ。なんでかわからないしわかりたくもないけど、でも、この女の優しいようで突き放した眼が嫌いだと思った。
「……早く成仏しなよ」
「できたらしてますよ」
したいのかよ、成仏。
「ムカつく……」
「情緒不安定ですか?」
誰のせいだと、と言いかけて、呑みこむ。
お前のせいだと詰りたい気持ちはある。でも赤の他人の、それもただの亡者を相手に調子を狂わされているのだと認めるのも癪だ。『いっそ早く成仏してくれ』と願ったのだって真実だけど、でも本当にいなくなったらと考えると胃の腑が重い。だから余計、苛立つ。
それでも口を尖らすだけに留めているというのに、名前は困った様子で眉を下げた。
「貴方には心安らかでいてほしいのですが」
……どの口が言ってるんだろう。
さすがに文句を言ってやろう、言ったって許されるはずだ。と、開きかけた口は、頭を撫でる手の感触によって黙らされる。この亡霊のような女はどうしてか自分で触れるものを選択できるのだ。
だが、その力を今ここで発揮して示すのも理解不能。その上やることといったら子どもを相手にするみたいに五条の頭を撫でているのだから、これもまた意味がわからない。
もっとわからないのはその手を振り払えないでいることだ。
『ガキじゃないんだから』と反発する気持ちはもちろんある。どころか、心が視認できるなら八割方怒りや苛立ちで埋まっていることだろう。
……残りの二割が何かって?心がそんな簡単に言語化できるなら世界はもう少し平和になっているはずだ。
ともかく残りの二割が作用した結果、五条は名前の手を受け入れた。口許は相変わらずぶすくれた格好を保ったまま。
「……ならお詫びとして俺の言うこと一個聞いてよ」
「お詫び?」
「俺の機嫌を取りたいんだろ?」
「……有り体に言えばそのようなものですかね?」
「じゃあさ、」
それなら俺はこの女に何を願うだろう。──いったい、何を求めているのだろう?
考えなしに言葉を続けて、そこではたと立ち竦む。
不満はある。けれど、だからといって具体的な解決方法は思いつかない。
薄っすらと開いた窓からは春風が軽やかに吹き込んでくる。だというのに揺れるのは五条の前髪くらいなもので、名前の一つに結った黒髪は陽に透けるだけだ。そんな下らないことにさえ胸がざわつく。いやだと思わされる。
そんなこと、気づきたくもなかったのに。
「五条くん?」
「……それ、やだ」
気づかわしげに名字を呼ばれ、反射的に撥ねつける。そうしてから物言いの幼さに気づいて、「五条じゃ、他の奴らと区別つかないじゃん」と口早に言い募った。
「……名前で呼んでよ」
ガキかよ、と五条は内心で吐き捨てる。
ガキっていうか、赤ん坊だな。むずがる赤ん坊。自分の願いが叶えられるのは当然って考えてる、甘ったれの声。オッエー。気持ち悪いったらありゃしないね。そう、冷静さを取り繕って己を俯瞰してみる。
心臓がバクバクいってるのは自分の行動に引いてるせいだ。緊張しているからなどではないし、
「……悟くん?」
名前で呼ばれて嬉しかったから──というわけでもない。断じてない。天地がひっくり返ったってあり得ない。
青みがかった双眸がはじめて『五条悟』を捉えたような気がした、なんて──
なのに今度は自分の方が見つめていられなくて目を逸らしてしまう。
「……なに笑ってんの」
と、擽ったそうにさざめき笑う音が聞こえた。その軽やかさに腹が立って、自然と顔に不満の色が声に滲む。
けれど名前ときたら呑気なもので、「笑ってました?」と意外そうに目を瞬かせた。
これがしらばっくれているだけならまだよかった。でも彼女の声に嘘はない。それは特別な眼で見なくたってわかること。
「たぶん、嬉しいんだと思います」──胸に手を当てた名前のその言葉もまた、真実なのだろう。そもそもこうした勘の良さがなくっちゃ呪術師なんてやってられない。ついでに言えば予想外の事態にも動じない冷静さも必要不可欠。
だというのに後者に関してはどうだろう?はにかみ笑う女を前にして、五条悟は身動ぎひとつできなかった。
「名前で呼ぶのは特別な感じがしますね。とても親しい友人になったようで……そうですね、やはり私は喜んでいるのでしょう」
「…………あっそ」
単純なやつ。ていうか何だよその他人事みたいな物言いは。そもそも俺たち、友達じゃなかったのかよ。いや、俺は別にこれ以上親しくなりたいわけじゃないけど。お前が友達だと思ってなくたって、ぜんぜん気にしないけど。
ぐるぐると巡る感情を腹の奥に押し止めて、五条はふいと顔を背けた。
名前のやることなすことが腹立たしい。気に食わない、やたらと目につく。実体を持たない亡霊のくせに。こちらが望んだ時には触れさせてくれないくせに。
──その目が映すのは、俺ではない『五条悟』のくせに。
「ねぇ、百年前の『五条悟』ってどんなやつだったの」
「……どうしてそんなことを?」
「何となくだよ。別に、理由なんてない」
名前の声には不自然な硬さがあった。それを無視して、気づかない風を装った。
五条は今まで名前の過去に触れることはしてこなかった。知ったところで何かが変わるわけでもなし、過去は過去だ。そう思っていた。いや、言い聞かせていたといった方が適切か。
名前は何をしたって動じなかった。だから傷をつけたくなった。柔いところに触れて、傷口を抉って、爪痕に上書きしてみたくなった。
……なんて言語化してみたけれど、実際のところは後づけで、衝動でしかなかったのかもしれないが。
暫くの間沈黙があった。それはさながらこれまでの彼女の長い旅路を物語るようだった。
百年前の『五条悟』と高専に棲む亡霊にどんな関係があるのか。五条は何も知らないし、そもそも関係しているかどうかすら確証はなかった。ただ彼女が自分を通して誰かを見ているのは察していたから、五条はカマをかけた。『この俺に似てる誰かなんて同じ名を持った最強の呪術師しかいない』と考えたのだ。
果たしてそれは真実だった。蒼く澄んだ眼が揺れ惑い、遠く彼方へ馳せられたのが何よりの証拠だった。
「……とても、優しいひとでしたよ」
硬質な沈黙の後で、名前は呟いた。
それは五条に対して語るというより、ひとり噛みしめるといった調子だった。もはや手の届かないものに焦がれる──たとえばエデンを追われた原人が故郷を想うような──柔らかいのに寂寥感の抑えられない声をしていた。
「私にとっては北極星のような人でした。あの人がいなかったら、今の私はありません」
名前はそう結んで、微笑んだ。
その後ろではそよ吹く風に葉桜が啜り泣いていた。蒼く澄んだ空もじきに暮れ、この教室も物憂い黄昏色に呑まれてしまうだろう。そうなった後も名前はきっとここから動けない。輝かしい日々の名残、朽ちた楽園から彼女は離れられないのだ。
それが腹立たしいのに、今までのように詰ることができなかった。諦めと──僅かばかりの悲しみが五条の中にあった。
「……それなら尚更成仏しなきゃ。じゃなきゃそいつにはずっと会えないまんまだよ」
だから先刻と同じ台詞を、先刻よりは穏やかな声で言うことができた。
けれど名前はゆっくりと首を振る。
「それはできません。私は死んでいるわけではありませんから」
もう二度と会えない。そう言っているも同然なのに、名前の眼に悲しみはなかった。それどころか誇らしげに瞳を輝かせて、内緒話でもするみたいに五条の耳元へ顔を寄せた。
「今もまだ私の肉体は生きています。この高専で、結界術の要として」
かつて不死の術式を持った呪術師がそうであったように。その跡を継いだと語る女は笑みを深めた。──とても、満ち足りた顔で。
「だから私はもう十分に幸せなんです。みんなの……大切なお友達の助けになれるなら」
自己犠牲なんて馬鹿げてる。そう笑い飛ばすこともできた。……できたはずだ、いつもなら。
でも言えなかった。「そう」といかにも興味なさげに答えて、口を噤んだ。
名前はどこにもいかない。この場所を離れることはないし、『五条悟』の後を追うこともできない。これまでの百年もこれからの百年も、彼女は独り取り残されたまま。
『かわいそうに』と人並みに哀れむ気持ちはある。たぶんそう思うのが普通なんだろう。だけど同時に、『よかった』とも思っている。満ち足りた笑みを守りたいと思う傍らで、そんな彼女をぐちゃぐちゃに壊してやりたいとも思う。
嬉しいのに腹立たしくて、憐憫を抱きながら法悦に至る。渦巻く感情に足を取られ、だから相槌を打つことしかできなかった。
それだけのことなのに、何を勘違いしたのか。名前は「それに楽しいこともあります」と殊更明るい調子を作った。
「貴方とお友達になれました。私が『こう』ならなかったらありえないことです」
「……俺は友達になったなんて一言も言ってないけど?」
「えっ」
「まぁ?どうしてもって言うなら考えてやらなくもないけど」
意地悪く言ってやると、途端に青ざめてみせる。そのくせ、「とりあえずこの反省文、俺の代わりに埋めといてよ」と要求すれば、「こういうものは自分でやらないと意味がないですよ」などと正論で返してきた。
「ムカつくなぁ」
「悟くんったらそればっかりですね。反抗期ですか?」
「あ?」
「ふふっ、凄んでみせても無駄ですよ。貴方じゃ可愛いだけです」
「かわ……、や、それを言うならカッコイイだろ」
「そういうところが可愛いんです」
「目ん玉呪われてんじゃねぇの」
憎まれ口を叩いても名前には効かない。楽しげに目を細めているだけ。
でも『まぁいいか』と五条は思った。『可愛い』と言う名前が以前より真っ直ぐ──輝かしい日々の名残が滲んでいるとはいえ──自分を見ているように感じられたから。