芒種


 空は重たい雲に埋め尽くされている。梅雨の頃。じんわりと湿り気を帯びた空気が煩わしい。そう思っていたこともあった。およそ百年ほど前の話である。

「厭な季節だな」

 紫煙を燻らせ、何代目かの『家入硝子』は言う。
 他者への反転術式の使用という稀有なる力を持って生まれたひと。呪術界がその喪失を惜しむのは当然だ。結果として彼女は肉体のクローン化と記憶のダウンロードを可能にして、生まれ変わった。それが彼女の意思によるものなのか、呪術界からの圧力だったのか。名前が知ったのはすべてが終わった後のことだった。
 ……いや。仮に知っていたとして、その時には既に結界の要となっていた名前に干渉する権利などなかったのだろうが。
 限りなくオリジナルに近い『家入硝子』は、けれどいつの頃からか禁煙をやめた。曰く、『肉体の健康よりも精神の安寧に比重が高まった』とのこと。医務室には以前よりも深い煙草の匂いが染みついていることだろう。
 しかし五感の一部が鈍化した名前には感知できない事象なので想像することしかできない。薄氷うすらいの日常、今ではもう陽炎の中にある愛しい記憶を辿ることでしか。

「でも私、雨の音は好きですよ」

「へぇ。私には理解できない感覚だな」

 家入が息を吐くのに合わせて、か細い煙が揺らめく。それは医務室の高い天井に届く前にかき消えた。こざっぱりとした彼女に合わせてか、室内に余計な装飾はない。
 大きくくり抜かれた窓の側に立ち、名前は部屋の中を見渡した。白い壁、白い天井。テーブルと椅子と、それから患者用のベッド。百年前とさして変わりない内装に、自然と郷愁の念が高まる。名前はこの部屋と部屋の主が好きだった。

「特に無下限の中で聴く雨音が好きでした。パチパチ弾ける雨粒に包まれていると心まで踊るようで」

「なんだ、惚気か」

「ふふっ、ごめんなさい。でも思い出話ができるのは貴女しかいないから」

「それならしょうがないな。……って言ってもらえるって分かっててやってるだろ」

「ええ、硝子さんは優しいから」

 確信を持って答えると、家入は溜息をつく。目の下の隈はクローン体になっても消えることはなかった。

「まったく、嫌なところばっかり五条に似て」

 しかし言葉とは裏腹に家入の眼差しは柔らかい。
 昔のことを語る彼女はいつもそうだ。纏う空気は穏やかで、口許は微かに綻んでいて、そしてどこか遠くを見つめている。
 だから名前は思う。私もきっと同じ顔をしているのだろう、と。望郷こそが二人を繋ぐ最も色濃いものだった。

「……私はいつだって見送る側で、だけど不思議と五条のことだけはそういう想像をしたことがなかったんだ。あいつだけは特別なんだと思い込んでいた」

「それは信頼の証でしょう?それに何よりあの人自身が最強で在ろうとしてた。きっと後悔はないでしょう」

「そりゃ死人は後悔なんざしないだろうさ。……けど私は他にやりようがあったんじゃないかって、未だに思うよ」

 一呼吸置いて、家入は「この話をするのは何度目だったかな」と名前を見た。生きていた時間が長くなるにつれ、細かな記憶は曖昧になっていくばかり。だから名前も「さぁ」と首を傾げた。
 たぶん一度や二度ではなかったはず。三度や四度、それ以上だったかも。いずれにせよ、大した差ではない。聞いた家入の方もあまり気にした様子はなく、「嫌な傾向だな」と独りごちる。

「年寄りの昔話に辟易してたはずなのにな。いつの間にか自分もそっち側に仲間入りしてしまった」

 家入は煙を肺に入れ、代わりに息をふうっと吐き出す。そうするたびに彼女という個体は薄れ、『家入硝子』という集合体に集約されていく。何となくそんな想像をした。と同時に思い出したのは遠い昔に読んだ本の一節。

「例えば古くなった船の一部を修理したとして。取り除かれてしまった元々の素材、それを使った複製品と、新たな部品によって作り替えられた船、そして設計者の頭にのみ存在する観念としての船、本物と呼べるのはどの船なんでしょうか」

「……要するにアレか、砂を何粒集めたら砂山と呼べるか、っていう」

 家入は眉間のシワを揉みながら、「そういう小難しい話を私に振るのはやめてくれ」とぼやく。『五条悟』は自身の術式についてゼノンのパラドクスに喩えた。そのせいか、哲学的な思考に陥る時、彼のことを思い出してしまう。
 家入の方もそうなのか、「アレで存外、論理的思考を好むんだよな。私とは正反対だ」と灰皿に灰を落とした。

「でもさ、そんなのは結局、言葉を持った観測者がいてこそ成り立つ話だろ。そしてその観測者は……つまりは人間は『曖昧な思考』を得意とする。明確な定義づけを行うとしても万人が合意するとは限らない。だったら私は私の好きに世界を定義するよ」

 何代目かの家入硝子はそこまで言うと、顔を上げる。共に過ごした日々の記憶は薄れ、五感は鈍り、肉体は不死と化し、意識すらも明確ではなくなった名前を見る。昔と変わらぬ焦げ茶色の瞳に亡霊となった後輩の姿を映す。

「名前は名前だよ。何も変わらない。記憶も魂も心も肉体も……何も変わっちゃいない、私の大切な後輩だ」

 穏やかな眼で、穏やかな声音で、穏やかな微笑で。それはとても喜ばしいことで、実際嬉しいのに──それでも名前の心臓は凍りついたまま。心が高揚する、という感覚すらも忘れてしまった。
 いつかはこの仄かな喜びですらも感じられなくなってしまうのだろう。その時になってもまだ、彼女は同じ言葉をかけてくれるだろうか?……想像した未来は寒々しく、寂寞としていた。
 家入は「この話、前もしなかったか」と首を捻る。たぶん一度や二度ではなかったはず。三度や四度、それ以上だったかも。
 煙草の煙は医務室の天井を覆っている。光は届かない。ちょうど外の天気と同じように。

「センセー、いる?」

 ガラリと扉が開かれると、停滞していた空気も動き出し、垂れ込めていた薄靄が外界へと流れ出る。僅かに晴れた視界の中、「名前もいたんだ」と笑うのは当代の五条悟だ。

「ノックくらいしろって前にも言わなかったか?」

「言われたけど守るとは言ってないし?」

「まったく、口の減らないお坊ちゃんだな」

 とはいえ家入は大人で、校医である。どんなに憎たらしい相手でも仕事は全うしなければならないと考えている。だから煙草を灰皿に押しつけ、「それで?何の用だ」と何故だか鼻を抑えたままの五条を見上げた。

「またお友達と殴り合いでもしたか?」

「や、ちょっと術式に関して実験してたんだけど鼻血が止まんなくてさ」

「実験?」

「そ。どんだけ長く無下限を張ってられるかって実験」

 「そしたらこのザマだよ」と、五条は両手を挙げる。降参のポーズ。と、優美な線を描く鼻筋の先から、途端に赤い液体が洩れ出す。
 白い肌につぅっと走る赤い筋。それはいつか見た、『彼』の姿と重なって。

「なんか顔色悪くね?」

 顔を覗き込まれて、我に返る。一瞬の放心。その間に治療は終わったらしい。出血の痕跡は五条自身の指先によって乱暴に拭われた。白皙の美貌には傷一つない。完全なる美。損なわれることのない美しさ。『彼』と同じ魂を持ち、『彼』と同じ術式を持って生まれた美しい人。

 ──それでも彼は『あの人』ではない。

 だとするならば、人を『個』たらしめているのは記憶なのだろうか。このまま記憶が薄らいでいくままに任せたなら、私は『私』でなくなるのだろうか。魂も肉体も、記憶の付属品に過ぎないのだろうか。

 ──彼にはしあわせになってほしいと思っている。でもそれが彼個人に向けられたものなのかは分からなかった。

「……幽霊に顔色の良い悪いもないですよ」

「それはそうかもしれないけどさぁ」

 納得がいかない、と五条は腕を組む。その後ろで家入が名前を見ている。すべてを見透かす双眸が名前を見ている。だけど名前は適切な言葉を持たない。まだ頭が混乱している。しあわせなんてものは結局、逃げ水のようなものなのかもしれない。
 名前の代わりに、家入が口を開く。

「あんまり無茶するなってことだよ。あとこれ以上私の仕事を増やさないでくれ」

「でも自分の術式を識るって大事なことじゃん?」

「そうだけどさ。まだ反転術式も覚えてないのに……」

「『まだ』?」

 聞き返され、家入は『しまった』という顔をした。
 『五条悟』が反転術式を覚えたのは高専に入って二年目の夏のこと。それも瀕死の重傷を負ったことで掴んだ感覚であって、偶然の産物だ。同じ魂を持っているからといって、彼が反転術式まで扱えるようになるかはわからない。

「……悟くんなら反転術式もすぐ覚えられるだろうと硝子さんは思ってるんですよ、ね?」

「ああ、生徒の将来を買ってるってことだ」

「ふーん?」

 サングラス越しでも訝しげな目を向けられているのが分かる。冬の朝みたいに澄んだ瞳。その蒼色が、今のどんよりとした季節には特に恋しく思われる。
 暫くの間、五条は名前と家入の二人を交互に見やった。その後で「まぁいいや」と肩を竦め、纏う空気を変えた。

「俺はてっきりボケが始まったのかと思ったよ」

「は?」

「だってさぁ、センセーは名前の先輩なんだろ?ってことは少なくとも100歳は超えて……」

「それ以上口にするならもう二度と治療してやらないぞ」

「それはちょっと大人気なくない?」

「いいや、当然の報いだ」

「コワ〜」

 メスを投げる仕草をする家入に、五条は怯えた様子で両肩を抱き、「逃げよう」と名前に耳打ちする。
 持ち上がった口角は悪戯っぽく、残酷なまでに無邪気だ。根拠のない万能感に溢れていた頃、まだ最強ではなかった『彼』のように蒼く、瑞々しい笑顔。懐かしさに気を取られていると、思わず彼の後を追って医務室を飛び出していた。呼び止める声はなかった。
 校舎の外では雨が降り出していた。静かに降りしきる五月雨。線の細い雨粒が青々と茂る梢を打つ。漂う空気は水気を含むが、くん、と鼻を動かしてみてもペトリコールは感じられない。
 雨が降り出す直前の、独特の匂いが好きだった。……ような気がする。昔の話だ。それに大したことじゃない。どんな匂いだったかも思い出せやしないのだから。

「ん、」

 煙る景色にぼんやりと目を馳せていると、右の手を差し出された。
 ……これは一体、どういう意味だろう?
 疑問符を浮かべ、名前は広げられた掌をまじまじと見た。白魚の指先、傷一つない陶器の膚。唯一絶対のもの。永遠の相のもとに──その一部になれたなら、それこそが真に幸福と呼べるものではないのか。
 けれど口の悪い神様は「なにボケっとしてんだよ」と苛立たしげに頭を掻いた。

「早く手ぇ出せって。じゃないと無下限張れないだろ」

「あぁ、なるほど」

 ようよう意図を理解し、差し出された手に左手を重ね──そうしてから名前は『おや』と思う。
 雨を弾くための無下限呪術。でもそれは名前にとって意味のある行為ではない。だって名前は幽霊だ。意図的に実体化を図らなければ雨に濡れることもない。そんなことは彼だって百も承知。なのにどうして──

「雨なんてダルいだけだけどさ、このパチパチ弾ける音だけは嫌いじゃないんだよなぁ」

 薄い膜の下、永遠を繰り返す雨粒に包まれながら、五条は呟く。静謐なる横顔。凪いだ瞳からは思考の一端を読み取ることさえ難しい。
 でもその言葉を信じるなら──

「……私も好きです。こうしていると、今が永遠に続くような気がするから」

「……名前は永遠が欲しいの?」

「だって今この瞬間が永遠なら、もう二度とキミが傷つくこともないでしょう?」

 パチパチと音が弾ける。弾けて空気に溶ける。後には何も残らない。残していってはくれない。そんなのは嫌だと思う。
 ……本当は。
 本当はずっと前から厭だった。いやだったのに言い出せなかった。引き止められなかった。そんなこと、『彼』は望んでいなかったから。『彼』はとても強いひとだったから。『正しさ』を選べるひとだったから。
 だから最期まで強者として在り続けた。それこそ、神様のように。

「俺そんな弱くねーけど?」

「先ほど硝子さんの治療を受けたばかりじゃないですか」

「アレはノーカンだって。俺が強くなるために必要なことで、そんなこと言ってたら呪術師なんざやってけねーよ」

「……強くなんてならなくていいのに」

 零れ出た言葉は、恐らくずっと昔から抱いていたものだったのだろう。「は?」と目を瞬かせる五条を見上げ、名前はもう一度同じ言葉を紡ぐ。
 強くなんてならなくていい。反転術式だって使えないままでいい。

「『最強』になんか、ならないで」

 持て余していた願いが滑り落ちる。反対に両の足はすっかり動きを止めてしまった。降りしきる雨粒を吸い取ったかのように重たい。
 彼の方はどうだろう。見つめたところで思いが通じ合うなんてことはない。当たり前だ。彼とは別の個体なのだから。
 そう、これは当たり前のこと。なのにそんな当たり前がいやに気にかかる。私の半分が彼でできていたらよかったのに、と名前は思う。或いは、彼の半分が私だったなら。

「……でもさ、百年前の五条悟は反転術式だって使えたんだろ」

 ようやく口を開いたかと思えば彼はそんなことを言う。
 百年前の『五条悟』。那由多の時を経たとしても忘れられないであろうひと。今もまだ名前の、そして家入の心に巣食う後悔。百年後の五条悟は二人が誤魔化したことを正しく理解していた。

「……だとしてもキミには関係のないことです」

「あるよ、大有りだ。だって俺はソイツを超えるんだから」

 フンと鼻を鳴らす五条に、名前は眉を寄せる。人の話を聞いていなかったのだろうか?

「私はキミに強くならないでほしいと言っているのですが」

「そうだけどそうじゃないでしょ、名前が言いたいのは。『強くなるな』じゃなくて、『死ぬな』ってことじゃないの」

「それは、」

 その通りだ。極論、彼が最強であろうと最弱であろうとどうだって構わないと名前は思っている。最強であったが故に戦場を好み、強者を求め、その果てにある死を受け入れた──そんな『彼』と同じ道を辿ってほしくなかったから、だから『最強』に至ることさえ拒んだ。

「でも強くなったら……『最強』になってしまったら。そしたらキミはずっと戦い続けることになります」

 それこそ、永遠に。
 なのに永遠を纏った少年はあっけらかんと「なら勝ち続けるさ」と言い放つ。名前の抱いている不安など一欠片も伝わっているように見えない。
 それでも言葉を重ねるより他に術はなく。

「……反転術式が使えるようになってしまったらきっと無茶をするようになります。どんな怪我を負ったとしても治せるから、と」

「治せるなら別に良くない?」

「良くないです。自分の身体を軽んじるなんて、私が許しませんよ」

 きゅうっと眉を吊り上げても、五条は「コワ〜」と茶化すばかり。「許さないって、呪霊にでもなって俺のこと呪うつもり?名前なら特級も目指せるかもな」などと言う始末。

「ま、そうなったら俺が祓ってやるよ」

 なのに大人ぶった顔で──かつての『あの人』のように──笑って頭を撫でてくるものだから、懐かしさに足を取られてしまう。泥濘に嵌って抜け出せない。同一視してはいけないと理解しているのに、頷いてしまいたくなる。
 自分が誰かに殺されるなら、それは『彼』の手によるものがいい。そう望んでいたこともあった。およそ百年ほど前の話である。そんな今更の願いを思い出して、名前は唇を噛んだ。
 痛みはない。なのに身体の奥が疼き、ひびらく気がした。

「……今の悟くんでは難しいと思いますよ」

「ならもっと強くなんなきゃな」

「だから、」

「……それがイヤなら見張ってればいいじゃん。俺のこと、ずっと」

「は……?」

「あ、でも名前は高専から離れられないんだっけ。じゃあ俺が卒業するまでに抜け道探さねぇと」

 この人は自分の言っていることを正しく理解しているのだろうか。名前は呆然と瞬きを繰り返す。幽霊に見張られる生活なんて不自由極まりないだろうに、五条本人はまったく気にした様子がない。
 だから名前は思わず「正気ですか?」と聞いてしまった。答えは『イエス』。五条は「反転受けたばっかりだから超新鮮だよ」と自分の額を親指の腹で叩く。

「ていうか正確には死んでるわけじゃないんだろ。肉体が眠ってるだけで。それなら意識だけでも外に飛ばせる可能性はあるんじゃねぇの?そしたらさ、ゲーセン行ったりとか映画観に行ったりとかしようぜ」

「でも、」

「俺としてもその方がラッキーっつーか。ほら、呪術師って基本休みなしだからさ、せっかく俺が暇になってもそういう時に限ってみんな出払ってて。俺はそれでも別にいいけど遊び相手がいるなら退屈しなくていいし、それに、」

 いつもより些か口早に言い募って、そこで五条は視線を泳がす。

「……トモダチだって言ったの、名前の方じゃん」

 恨みがましく尖る唇は幼く、呟いた声は頼りなげに掠れたもの。視線は交わらないのに、繋がれた手はそのまま。永遠は相変わらず名前の世界の外側にあり、彼は『最強』を追い求め続ける。永劫回帰。歴史は繰り返されるのだ。
 だから名前がどんな選択をしたところで意味などないのかもしれない。結局のところ、行き着く先は同じだというのなら。

「……そうですね、キミの提案に乗ってみるのも悪くない」

「何その上から目線」

「だって私の方が歳上ですし」

「見た目はおんなじぐらいだろ」

「見た目関係あります?」

「てかこの後なにする?新作ゲーム買ったんだけどやる?下手そうだけど」

「やってみなくちゃわからないじゃないですか。そういうの、昔から苦手ですけど」

 名前のムッとした顔を見て、五条は声を上げて笑う。

「だろうね、そういう顔してるもん」

 ……失礼な。名前は反論しかけるが、その前に歩き出すことになる。何故だかご機嫌になった五条に腕を引っ張られたせいで。
 にんまりと上がった口角。覗き見える蒼色は雨のせいかキラキラと輝いて見える。その奥にも永遠が眠っているのではないかと思わされるほど美しい瞳。
 でもそんなのは錯覚だ。本当の永遠は手の届かないところにあると名前は知っている。知っているけれど、この時が永遠であればいいと願ってしまう。今でも、まだ。