二部の吉田くんに軟禁される


第二部で公安によりチェンソーマンが解体されてしまったら。






 世界は悲哀と憤怒に満ちている。光あれと最初に言った神様はたぶん世界の作り方を間違えた。7日じゃ早すぎたんだ。人間は理性よりも本能を選んだ。世界は混乱のただ中にある。
 俺はカーテンを引いた。そうすれば曇り空に立ち上る黒煙も、倒壊した建物も存在しなかったことになる。世の中には知らなくていいことがあまりに多すぎる。この部屋には美しいものだけあればいい。
 けれど性善説を信じてやまない彼女は「どうしてカーテンを閉めてしまうの」と俺を糾弾する。無理もない。今の彼女にとってベッドサイドにある小さな窓は外界と繋がる唯一の手段だ。だからこそ細心の注意を払う必要がある。
 彼女の世界にチェンソーマンはいらない。

「雨が降ってきたからね。残念だけど今日の散歩は中止。このまま大人しく映画を観ていようよ」

「吉田くんは雨が嫌い?」

「好きではないかな」

 噛み合っているようで噛み合っていない会話。近頃の彼女はいつもそうだ。記憶と一緒に、何か他の大切なものも喪われてしまったらしい。
 でも別にいいじゃないか。彼女のいのち以上に大切なものなんてこの世にはない。きっと、地獄にだって。
 俺がブラシを構えると、彼女は素直に背中を向けた。といっても彼女はベッドの上から動けないから、ほんの少し体を動かしただけだ。
 天使の羽根は愚かな人間によってもがれ、彼女は自由を奪われたことにすら気づけない。自分の不自由な下肢は病によるものだと信じきっている。本当は毎晩飲まされている錠剤のせいなのに。
 彼女は自分が病弱な人間だと思いこんでいるし、そう思い込ませた張本人のことを欠片も疑っちゃいない。今だって呑気に「アイスの乗ったパイが食べたいな」なんて呟いている。自分の寝癖を直している男が善き隣人なんかじゃないって知ったらどんな顔をするだろうか。
 公安に身柄を確保されたばかりの頃の、こちらを射殺さんとする目つきを思い出す。怒りに燃える瞳、常より濃度を増した蒼。チェンソーマンの身体が解体されることが決定した時、それを教えてあげたら自分が拘束されていることすら忘れて俺に飛びかかってこようとした。
 他人のために本気で怒れる彼女は好ましいと思う。客観的にも、主観的にも。
 けれど彼女の海馬は弄られてしまった。もうあの冬の朝みたいな美しい蒼色を見ることは叶わない。
 それが時々ひどく堪える。それこそ冬の朝に冷たい水を触った瞬間みたいに。

「どうしてこんなに美味しそうに撮れるんだろう。ブルーベリー・パイなんて食べたいと思ったことないのに今は涎が出ちゃいそう」

 肩越しに彼女が俺を見る。春の日の昼下がりの、ぼやけた空みたいな蒼色。傷つけられた内側側頭葉が回復することはない。もう二度と。
 そうでなければならないし、そうあってほしいと願っている。

「吉田くん?」

「あぁごめん、どこでなら買えるかなって考えてた。今度来る時に持ってくるよ」

「いいの?誕生日でもないのに」

「誕生日にしかケーキを食べちゃいけないなんて決まりはないよ」

「そうなのかもしれないけど、なんだか罪悪感があるの。いっそ毎日が誕生日だったら良かったのかな。ほらどこかの詩人が言ったでしょう。生きるということは罰なんだって」

 『あの夜食べたブルーベリー・パイは夢のようにやわらかく、切ないほど甘酸っぱくて、失くした恋の味がした』──映画のキャッチコピーを思い出しながら、彼女の髪をひとつに束ねる。
 極彩色の画面の中、パイを侵食していくバニラアイスの白。彼女もブルーベリー・パイを食べたら失くした恋の味を思い出してしまうのだろうか。──捨てられるブルーベリー・パイの気持ちなんて知らないままで。

「大丈夫、きっと明日には別のものを食べたくなってるよ」

「そしたら吉田くんが明日の私に教えてあげて。ブルーベリー・パイがどんなに美味しそうだったかって。それなら……、ね、問題ないでしょう?」

「どうかな。また俺のことまで忘れちゃってるかも」

「さすがにもう忘れないよ。だって吉田くんがいなくちゃ私、一日どうやって過ごせばいいかわからないもの」

 「今日は一日一緒にいてくれるんだよね」と彼女は朗らかに笑う。
 不自由な下肢、昨日のことさえ覚束ない記憶力、悪魔収容センターの一室──彼女自身はただの病室だと思っているが──に囚われている身の上だとは感じさせない明るさで。
 何となく、バイオルミネセンスという語が脳裏を掠めた。俺はその光に吸い寄せられた哀れな獲物。彼女の言葉一つで気分が浮上する。ここが深海じゃなくてよかった。俺は俺が死んだ後の世界で生きる彼女のことなんか見たくない。
 俺は「うん」と頷いてからベッドの上に上がり、背後から彼女を抱き締める。彼女は何も言わない。ピクリともしないでいると精巧な作り物みたいだ。
 だけど俺は自分にとって都合のいいお人形がほしかったわけじゃない。
 首筋に顔を寄せ、スンと鼻を鳴らす。そうすると彼女は「擽ったいよ」と小さく身を捩らせる。
 何もかもなくしてしまった彼女だけど、仄かに香る百合に似た匂いだけは変わらない。……それがいいことなのか、悪いことなのか。
 白百合は聖母を象徴する花だ。

「最近あんまり会えなかったのって来年がミレニアムイヤーだからなんだね。昨日お見舞いに来てくれた……フミコさん?に教えてもらったみたい。昨日の日記にそう書いてあったの。人類滅亡の噂が流れてるから公安はとっても忙しいんだって。……だから今日会いに来てくれて、うれしい」

「……うん。俺も、会いたかった」

 自然と抱き締める腕に力が籠もる。照れた様子ではにかみ笑う彼女が愛おしい。……と同時に、余計なことを彼女に吹き込んだ三船に対して苛立ちを覚えた。この部屋には美しいものだけが存在すべきだ。彼女が最期に見るのは俺であってほしいし、俺が最期に見るのも彼女であればいいと思う。
 だからこの部屋に届けられるのは限られた情報だけ。電波を受信しないテレビは俺が選別した映画だけを流し続けるし、公安の、それも限られた人間だけしか彼女との接触は許されていない。
 不運な──或いは幸運なことに、彼女の家は火災に見舞われ私物のすべてが灰と化した。だから今この部屋にあるものすべてが彼女のためだけに誂えられたものである。
 けれど今回の映画は失敗だったかもしれない。恋人と別れたばかりの主人公と彼女に思いを寄せる男。主人公は彼を置いてひとり旅に出る。最後はこの二人が結ばれるとはいえ、置き去りにされたブルーベリー・パイに思うところがないとは言えない。
 俺は腕の中に視線を落とす。テレビに向けられた彼女の双眸。「きれいだね」と輝く目には、朝焼けの美しい部分だけ切り取った映像が映っている。

「海の向こうの空はこんな色をしているの?」

「まさか。これは映画、フィクションだよ」

 教え諭すと、すぐに興味を失ったらしい。彼女は「そうだよね」と頷いて、手慰みに俺の指先を弄り始める。
 決して柔らかくはない、それどころか刀を握るのに慣れてしまった手のひら。出逢った頃とはまるで違うな、と他人事のように思う。
 だからきっと、彼女は思い出さない。俺たちがともだちだった頃の記憶なんて。思い出は遠ざかれば遠ざかるほど輝きを増す。ほんとうに美しいものは手に入らないのだと相場が決まっている。
 彼女は鼻歌まじりに指の腹を揉んだり握ったりする。プレリュード変ニ長調。そうしたって俺たちの指先だけは冷たいまま。それでも彼女はその手を離そうとはしなかった。

「私はショパンの中なら『雨だれ』が一番すき。ねぇ、どうして三部形式なのに27、48、14小節のアンバランスな構成になっているのか知ってる?」

「それがロマン派の好みだったってだけじゃない」

「そう、時間は巻き戻らない。……この世に永遠なんてないから」

 ──なのにどうしてそんなかなしいことを言うのだろう。

「ほら、三部は一部と同じ音楽でしょう?でも二部の音楽を知ってしまった聴衆は、知らなかった頃と同じ気持ちで三部を聴くことは決してない。だから繰り返しの部分は14小節になってるんだって」

 かつてみんなの神さまだった彼女は永遠を信じていた。しかし今の彼女はまったく反対のことを得意げな顔で言う。──この世に永遠なんてないから。

「……俺は、今がずっと続けばいいと思ってるよ」

 たとえば『雨だれ』の終結部。持続音が途切れ、右手だけで奏でる旋律。たったの2小節、一瞬の晴れ間を、まるで俺たちのようだと思う。
 その穏やかなひと時が永遠であればいいと願うのは、しごく当然のことではないのか。
 俺は彼女の肩口に顔を埋めた。立ち上る清らかな香りは昔も今も変わらない。でも今の俺たちには大きなひびが刻まれてしまった。そしてその罅が塞がることは未来永劫ありえないのだ。

「吉田くん、……ないているの?」

「泣いてないよ。ただ少し、……胸が痛んだだけ」

 いつもの調子で笑みを刷いたつもりだったが、彼女は戸惑った様子で視線を彷徨わせた。

「でも今のあなたは深い青色が似合うみたい。『サン・クルーの夜』の、キャンバスの中の人みたいに。なのに私は額縁の外で見ていることしかできない、そんな感じがするの」

 途方に暮れる迷い子の顔。ひどく幼い表情で、けれどいやに慣れた手つきで彼女は俺の頭を撫でた。
 温かな手のひら。
 髪を梳く優しいばかりの指先。
 落日と曙とを含んだ眼.
 馥郁たる花の香り。
 ……あぁ、めまいがする。
 それは過ぎ去りし日の、永遠に喪われたはずの面影だ。

「名前……」

 俺は目を閉じた。そうすることで残照を噛み締めた。
 ……しかし所詮は夏の残り火。時は情け容赦なく、うつくしい思い出さえも暗闇と忘却の奥深く。やがては埋葬され、冷たい墓石が立ち並ぶ。
 そんなことは何百年も前から周知の事実。だというのに忘れていた。気づかぬよう目を逸らしてきた。
 変わったのは名前だけじゃない。自分がどんな風に彼女に笑いかけていたのか、それさえも思い出せなくなってしまった。
 底冷えする秋はもうすぐそこまで迫っている。

「……わたし、また何かを間違えてしまったのね」

 ──ちがうよ。たぶん、きっと、ぜったいに、間違えたのは俺のほう。

 しかし彼女の虚ろな呟きには答えず、俺はただ黙って彼女を掻き抱いた。
 深い悔恨がある。死体に湧く蛆虫みたいなそれは、時折思い出したように心臓に喰らいつく。
 だけども俺には確信がある。たとえ時間を巻き戻せたとしてもまた同じ選択をするという確信が。俺がデビルハンターで、名前が悪魔である以上、この誤った選択でしか共存できる道はなかったのだ。

「いいんだよ、吉田くん。いやになったら、手を離しても。わたし、恨んだりなんかしないよ」

「離さないよ。なんでそんなこと言うの」

「だって、あなたを傷つけてしまったから。傷つけてしまったことはわかるのに、あなたと同じ気持ちにはなれないから」

 それが一等かなしいのだと名前は言った。
 「こんなことなら私、あなたの一部として生まれたかった」……奇遇だね、俺も君の一部として生まれられたらよかったって思うよ。
 でもそんなのって一生のうち何度もハレー彗星を観測できるくらい奇跡的なこと。俺のところにはもう二度とハレー彗星は降ってこない。一生に一度の出逢いを、俺は経験してしまったから。
 俺は顔を上げる。彼女もまた、俺を見る。蒼白い光を放つ一対の眼。たとえかつての輝きを失ったとしても──その正体が汚れた雪玉だったとしても、俺にとってただひとつの彗星であることに変わりはない。
 俺はちいさく笑って、それから彼女のまぶたに口づけた。愛おしい、俺だけのほうき星。終末に向かう世界で、君だけがうつくしい。

「こういうのはどう?微生物によって繋がり合った常緑樹と落葉樹の関係みたいに考えるのは。夏の間は君が俺を、冬は俺が君を支えるんだ」

「だけどそれじゃあ私、またあなたを傷つけて、」

「いいんだよ、それで。俺のために胸を痛める君が見れるなら、傷つけられたって構わない」

「……ほんとうに?」

 疑わしい、と言いたげな視線。まるっきり信じてないって顔だ。
 でもその反応は正しい。何しろ俺は自他ともに認める嘘つきなので。

「本当だよ。俺って実は結構なマゾヒストなんだ」

「それはウソ。さすがの私だって騙されないよ」

 ぐっと背筋を反らして、名前は手を伸ばす。そして背後から抱き締めたままの俺の頬をきゅうっと引っ張った。生憎、ぜんぜん痛くないけど。

「見くびらないでよね。吉田くんがどんなに嘘つきでも……、色んなことを忘れてしまった私だけど、でもそんな私だからこそキミの嘘だけは見抜けるよ」

 だけど効果は抜群だ。得意の笑顔が歪に固まるのが自分でもわかった。

「……嬉しいよ、そんなに俺のこと考えてくれてるなんて」

 ほとんど無意識のうちに言葉を繋ぐ。その空虚さすらも彼女には伝わっているのかもしれない。そんな想像をしながら、それでも俺の顔は笑顔を象ったまま。過去の自分を模して表情を作る。
 嬉しいと、ただ純粋にそれだけを感じられればよかった。昔の──ただ純粋に彼女に恋をしていた頃の俺だったら容易かったはずのことが、今はこんなに難しい。

「だけどおかしいな。俺は君に嘘なんて吐いたことないのに」

「……吉田くん?」

「ねぇ教えてよ。たとえば他にどんなことが嘘だと思ったの?」

 頤に手を添え、彼女の顔を上向けさせる。そうすれば彼女は俺から逃げられない。できることといえば身体を強張らせることくらい。俺を見る目には微かな恐れが滲んでいた。
 ……そんなこと、気づきたくもなかったのに。
 本当は優しい言葉をかけてやりたかった。『冗談だよ』と笑って、『怖がらせてごめんね』って謝って。彼女は怒るかもしれないけど、最後には『仕方ないなぁ』ってビロードの目を弛ませる。その光景は簡単に思い描けるのに、俺の手が彼女を解放することはなかった。

「……それとももう俺とは話したくない?」

 囁きながら思う。
 細いくびだ。細く、脆い──少し力を込めれば折れてしまいそうな、くび。手のひらの下では危機を察した血管が忙しなく脈打ち、元から色の薄い膚が今ではかわいそうなほどに青ざめている。
 それでも名前は目を逸らさない。残光でしかないと思っていた双眸を燃やし、俺を見つめ返した。

「……もしもすべてが偽りだったとしても、それでも構わないと言いたかったの。どんな嘘も、私は赦すよ。キミに救われたのは真実だから」

 彼女は自分の首に手をかけた男へ笑みかける。かつて憎悪を向けた男へ慈愛に満ちた眼差しを寄越す。
 それはさながらパルサーの光。星はまだ燃え尽きてなどいなかったのだ。だったらいっそのこと俺のことも灼き尽くしてほしい。そしてふたり、きれいな灰になるんだ。
 でもきっと今の名前ですらそれを望まない。許してはくれない。だから俺の恋心だけが灰となって足元に吹き溜まっている。残ったのは、恋とも愛ともいえない醜い情だけ。
 ──こんな男を、名前が赦すはずがない。すべてを忘れる前の彼女だったら、絶対に。
 俺はわらった。

「残念だけど、俺がほしいのは赦しじゃないんだ。だって神様って赦しを与えるものだろ。そんな万人に与えられるものなんか俺はほしくないよ」

「……それならあなたは私に何を望むの。何を求めて、私をここに置くの」

「そんなの決まってる。君に生きていてほしいからだよ。それ以外のことなんて望んでない。残されたブルーベリー・パイのことなんて考えなくていいんだ」

「……無茶苦茶なことを言うね」

 名前は目を伏せる。悲しげに、或いは憐れみをもって。「キミの願いは叶わないよ」たぶん、きっと。何も覚えていないけれど、そんな気がするんだ。そう言った彼女に、俺は内心で頷く。
 そうだろうね、俺も俺の望みが叶わないことなんてとっくに理解してる。
 神様を模して造られた悪魔。かつての俺は名前に人としての生を望んだ。けれど人としての彼女は友人である俺よりも家族である悪魔チェンソーマンを選んだ。
 『俺の何がいけなかったの』と訊ねたことがある。深夜三時の気の迷い。名前は首を横に振った。何も、と。『キミが悪いわけじゃない』ただ俺は選ばれなかった。それだけのこと。ブルーベリー・パイと同じように、選ばれなかったことに理由などない。
 人間らしく『情』を優先した名前から、俺は記憶を奪った。そうしないと悪魔である彼女は処刑されてしまうから仕方のないことだった。とはいえ俺にとっては都合のいい結末だ。監視の名目で俺は彼女を独占できるようになったのだから。
 なのに人は我儘だ。俺はまだ、苛烈に燃える蒼い瞳を忘れられないままでいる。

「……だったらせめて、祈ってあげる。明日の私が、少しでもあなたの理想に近づけるように。いつかあなたの望む『私』と出逢えるように」

 名前は身体を反転させ、正面から俺を抱き締めた。いつの間にか俺の両手は彼女の首を諦めてしまったらしい。
 「かわいそうに」囁きが、俺の耳朶を撫でる。「私のことなんか忘れちゃえばいいのに」俺は苦笑した。だってもう手遅れだ。
 L’irréparable──取り返しのつかぬもの。どれほどの悔恨を重ねようとも、地獄堕ちの人間には瀝青タールよりも濃く、朝も夕べもない暗闇こそが相応しい。
 俺は彼女からそっと体を離した。

「……その時は一緒にブルーベリー・パイを食べながら、ハレー彗星を見よう」

 次にハレー彗星が観測できるのは、およそ60年後のことである。