1999年のバレンタイン(前)の話。
付き合ってません。
吉田くんは公安勤めになってます。
風が吹いて、ビルの谷間をごうごうと鳴らす。冷たく険しい、世紀末の冬。せっかく温まった体も映画館を出た途端に冷やされてしまう。辺りをゆく人々も気持ち足早、屋内への避難を目指しているようだ。
悴む指先に息を吹きかけ、そうしながらもしかし、名前の表情は明るい。何しろまったく期待していなかった所謂B級映画が予想外に面白かったのだ。その名も『キラーコンドーム』。タイトルと伝え聞いたストーリーの下品さ故に最初は観るつもりのなかった作品であったが、何事も食わず嫌いはよくないと痛感させられた。こういう意外性に驚かされるから映画を観るのはやめられない。
そのきっかけをくれた友人──兼、現在ではバディでもあるヒロフミを見上げ、名前は「誘ってくれてありがとう」と礼を言う。
「お陰でまたひとつ、好きな作品が増えたよ」
「よかった。こういう系のってあんまり得意そうじゃないからどうかなって心配してたんだ」
「それはそうなんだけど……。なんだろう、今日のは必要な下品さだったっていうか……メッセージ性があったせいかな。それにあんまりにもバカバカしかったから愉快さが先に立っちゃった」
噛み千切った陰茎を咥えてコンドームが逃げ回るシーンなんかは特に傑作だった。そんなコメディ要素盛りだくさんのホラー映画であったけど、終わってみれば根本はラブストーリーなんじゃないかと思う。性的嗜好なんて関係ない、どんな人を愛したっていい。『普通』じゃない人が真実の愛を見つける物語……そう考えると素晴らしい純愛映画ではなかろうか。
興奮のあまり拳を握ると、ヒロフミに笑われた。
「鼻まで赤くなってるよ」
からかいを多分に含んだ声。けれど鼻先をつまむ指は優しいのだから不思議だ。むず痒いような気持ちになって、名前は目を逸らす。
そりゃあだって、ね。「寒いんだもの、仕方ないじゃない」拗ねた声を洩らすと、余計に笑みが深まった。何がそんなに面白いんだか、名前にはさっぱりわからないのだけど。
「それじゃあ一杯、付き合ってもらおうかな」
「あら、一杯でいいのかしら?」
「寂しいけどいいよ。その間に次の約束を取りつけるから」
気取ったことを言ってみても、彼はちっとも狼狽えない。さらりと言い返して、余裕のある微笑を浮かべる。
少しは焦ったり、慌てたりしてくれてもいいのに。だいたい、お茶の一杯だけでさよならなんて。本当にそれで満足なの、と肩を揺さぶりたくなる。友達ならもっと一緒にいたいと思うのが普通じゃなかろうか。……少なくとも、私はそう思っているのに。
悔しくて、名前は口をへの字に曲げた。休日の午後。太陽は未だ天高く、頭上には痛いほどに冷めた青空が広がっている。
──と、同時に降ってくるのは抑えきれない笑い声で。
「……何がおかしいの?」
「いや、別に。ただかわいいなぁって」
甘ったるい声に騙されてはいけない。彼の言うところの『かわいい』とは即ち『からかいがいがある』と同義なのだ。
それがわかっているから名前は意識して眉根を寄せた。喜んでなどいないと、誰が見てもわかるように。
「……あんまりからかわないで」
「楽しんではいるけど本気だよ」
「はいはい」
いつものことだ。彼の軽口を聞き流すのも、休日には彼と映画を観に行くのも。その後で彼おすすめの喫茶店に立ち寄るのだって、お決まりのルーティン。だから名前は促されるがまま歩を進めた。
こうも寒いと温かい飲み物がほしくなる。たとえ悪魔の身であったとしても、だ。
乱暴な風を逃れ、店内に入る。迎えてくれるのは暖かな空気と、珈琲豆の香ばしい香り。心地のいい空間に、ほう、と吐息が洩れる。
「吉田くんはやっぱりコーヒー?」
「うん、名前は?」
「今はデザートをつけるか悩んでるとこ」
「悩む必要ある?」
「あるでしょ。だってその方が人間らしいもの」
普通の女の子は欲求と理性の間で揺れ動くものだと名前は知っている。甘いものが食べたいけど、太りたくはない。悪魔である名前その板挟みは味わえないけれど、それらしく振る舞うことはできる。ごっこ遊びなのだ、要するに。
そう、メニュー表を睨みながら言うと、正面に座ったヒロフミは「ふうん?」と相槌。顎に手をやって、何やら思案げな顔。
「じゃあイベントごとにも興味あるの?普通の人間らしく」たとえば──バレンタインデーだとか。
「あぁ、そういえばもうすぐだね」
ホットコーヒーとガトーショコラのセットにしよう。バレンタインといえばチョコレートだし、と会話の流れから選択をする。
脳内に浮かぶのは今朝通ってきた駅前の光景。ビルにかけられた大きな垂れ幕には『バレンタインフェア』などとピンク色が踊っていた。催事場では甘い香りが充満していることだろう。甘いものは好きだ。
「でも吉田くんは甘いもの、好きじゃないでしょう?」
「嫌いではないよ。進んで食べないだけで」
その言葉通り、ヒロフミの注文はホットコーヒーのみ。おまけにミルクも砂糖もなし。注文を受け取った店員が去っていくのを見送って、「それを嫌いって言うんじゃないの」と名前は答える。
進んで食べないと言うなら、この時期はさぞかし憂鬱なことだろう。何せこの顔だ、と真正面に鎮座する整った容貌を眺めながら名前は思う。学生時代からイケメンだ何だと騒がれていた吉田くんのことだから、公安勤めとなった今年も苦労するんじゃないかしら。
「去年だよね、高校最後だからって例年以上のチョコレートを押しつけられて困ってるって言ってたのは」
「あの時はデンジくんに助けられたよ。まぁでも、今年はそんなこともないんじゃないかな」
「そうなの?どうして?」
「さぁ、どうしてだろう」
にっこり。人を煙に巻く言い方をして、ヒロフミは微笑む。何かの謎かけだろうか?
私の知らない何か特殊な事情が……たとえば世界的なチョコレート不足だとか、そういう類のことでも?答えを求めてヒロフミを見つめるが、彼は「そんなに見つめられると照れるな」なんて、そんなことこれっぽっちも思っていない顔で宣う。
「私がものを知らないからってすぐそうやってからかうんだから」
「からかってるわけじゃないよ」
「じゃあなんなの?」
「そうだな……、少しでも長く、名前に俺のことを考えててほしい……っていうのが正解かな」
「いま以上に?」
仕事でもバディを組んでいて、こうして休日だって同じ時間を過ごして。それより長く、なんて……「そんなの、一日24時間じゃあ足りなくなっちゃうよ」物理的に不可能だ。叶えられるとすれば永遠の悪魔くらいだろう。
おかしなことを言うなぁ、と名前は笑う。けれど、笑い声はひとり分だけ。相変わらず悠然とした表情を崩さない──そう思っていたはずの彼が、虚を衝かれたような顔をしていた。
おまけに訝しんだ名前が「吉田くん?」と声をかけると、口早に「なんでもないよ」と言い、口許を手で覆った。
……なんでもないようには見えないけど。
「本当に?」
「うん、ちょっと……いや、かなり嬉しかっただけ」
ありがとう、とお礼まで言われて、名前は首を傾げる。変なひと。思えば初めて会った時からそうだった。人間のくせに
尤も、普通の人間じゃあデビルハンターなんて仕事、やってられないんだろうけど、ね。名前は内心で苦笑する。彼のそういうところに救われているのも事実だ。多くのものを取り零してきた私にとって、この人ほど失い難い人間はいない。幸せになってほしいと、心から願っている。
「えっと、何の話してたんだっけ」
運ばれてきたコーヒーをひと口、飲んでから「あぁ、」と名前は手を叩く。そうそう、バレンタインの話をしていたんだった。
「だからね、あんまり関心はないかなぁ。吉田くんが甘いもの好きだったら話は別だったんだけど」
「え」
「だって好きでもないものを貰ったってしょうがないでしょう?他にあげるような友達、私にはいないし」
去年も一昨年も、そういう理由で見送ったイベント。だから今年も『そういえばそんな季節だなぁ』と思うくらいで、元より参加するつもりはなかった。そう答えて、ガトーショコラの一切れを口に運ぶ。うん、美味しい。
美味しいけれど、でも、自分ひとりで楽しめるものじゃない。甘いものは好きだけど、それはこうして同じ時間を過ごしてくれる人がいるからだ。たった一人でチョコレートを食べたってなんにも嬉しくない。そもそも、悪魔の身体には不要な代物。本来であれば血と肉さえ食せれば生きていける。それが悪魔というものだ。
「……じゃあ俺が欲しいって言ったらくれるの?」
「そりゃあ……」
『当たり前じゃない』と答えかけ、はた、と気づく。抑えられた声音、それを発した彼が、いやに真剣な目をしていることに。この国のバレンタインデーが本来、恋人たちのものであることを思い出して、名前は答えに詰まった。
……幸せになってほしいと心から願っている。──普通の、人間みたいに。
そしてそれを叶えてやれるのは
「……友達としてなら、いくらでも。私にあげられるものならなんだって差し出せるよ」
「うん、今はそれでいいよ」
「……お菓子作りなんて、ぜんぜん、やったことないんだけど」
「俺だけにくれるならどんなに不味くても嬉しいよ」
「そこは嘘でも『美味しい』って言うところじゃないの?」
「でも名前に嘘はつきたくないし」
「……変なの」
理解できない。ただの人間が見返りのない愛情を向けてくれることも、その相手が敵であるはずの悪魔であることも。慈しむような目で見つめられ、据わりの悪さに名前は顔を顰めた。
愛することは神さまの──私の役割のはずなのに。なのにどうして、と唇を噛む。どうしてこんなに、手放し難いと思ってしまうのだろう。応えられないのに、そんなのは決して『善いこと』ではないのに。
それでも彼は「いいんだよ、俺が好きでやってることだから」と笑う。
「知ってる?あの岸辺さんが何年同じ人に振られ続けたか。それも手酷く」
それに比べたらやさしい方だよ、と肩を竦めてみせる。いつもの軽口。冗談めかした物言いは、罪悪感を抱かせないためのものなのだと名前は知っている。
「……吉田くん、」
「ん?」
「くち、開けて」
言われるがまま。大人しく従う彼の口に、ガトーショコラの一切れを押しつける。彼は逆らわない。疑問符を浮かべながらも素直に咀嚼する様を眺め、何ともいえない気持ちになる。
『悪魔相手に無防備すぎでは』と心配しながらも、胸に込み上げるのは温かなもの。相反する感情に名前は戸惑った。
彼といるとこんなことばかりだ。厭じゃないのがまたおかしくて、わけもなく溜め息をつきたくなる。
「どういうこと?」
「だってバレンタインは二週間も先の話でしょ。そんな先の約束をして、守れなかったら私、地獄に落ちても後悔しそうなんだもの。だからとりあえずはこれで我慢して」
守れない約束はもう二度としたくない。続く言葉を呑み込んで、名前は目を伏せる。無論、この命を擲ってでも吉田くんのことは守り通したい。そのつもりで彼とバディを組んだ。
だけど、しょせん人間の肉体は脆い。目を閉じれは眼裏に浮かぶいつもの光景。こびりついた血と硝煙の臭い。嫌というほど思い知らされた、喪失の痛み。人間も悪魔も、その首筋にはいつだって死神の鎌がかかっている。
「……名前はさ、俺のこと、大好きだよね」
「何を今さら。いつも言ってるでしょ。今の私に、吉田くん以上に好きな人はいないよ」
友達として、だけど。
「あぁ、うん、友達として……ね」
名前の台詞を復唱し、頷く彼は意味深長。「あと一歩からが長いなぁ」……今度はなんの話だろう。
「まぁいいや。チョコレート、楽しみにしてるね」
「ちょっと、あんまり期待しないでよ。そんな大層なものは作れないんだからね」
「失敗したらしたで来年が余計楽しみになるから気負わなくていいよ」
「だからそんな先のこと……」
名前が顔を曇らせると、彼の方は対照的な笑みを浮かべた。
「俺は守れない約束があってもいいと思ってるよ。地獄にいっても俺のこと忘れないでいてほしいからね」
「……悪趣味」
「知らなかった?」
「……知ってたけど」
「でもそんな俺でも好きでいてくれるんでしょ」
そうだけど。そうなんだけど、素直に肯定するのは悔しい。手のひらで踊らされている気持ちになる。実際、その通りなのだけど。
きゅうっと眉を寄せながら、せめてもの抵抗とばかりに名前は無言を貫く。頬に宿った熱が室温のせいでないことは、自分が一番よくわかっていた。