あなたのいない広い部屋

 その日の彼は様子がおかしかった。
 もちろん朝食はいつも通り彼手製のものだったし、名前が「ブブリクはこのベーグルとどのくらい近いところにあるの」と訊ねると、ふうわり笑って「試せばいいじゃないか、作ってあげるよいくらでも」と言った。
 それに、名前の長い髪をいつも通り頭の後ろで編み込んでくれたし、プラチナブロンドのてっぺんにキスを降らせてくれた。だから名前もいつもの朝と同じように彼の頬にキスを送った。「いってらっしゃい、透」少しだけ、いつもより冷たい頬に。
 そうして、名前にとっては見慣れないスーツを着た彼は、愛車に乗ってマンションを出ていった。彼女はそれを見送るだけ。祈ることも、願うこともない。ただ彼の冷たい頬と強い眼差しを思った。
 ――透は大丈夫。名前は一人ごちて、昨日と同じ道を辿って学校に向かった。その足取りが重いのだけはどうしようもなかったのだけれど。けれど、飼われた名前には透を追いかける術も理由もないのだった。
 名前が帰宅したのは部屋の中も外も暗くなってくる時間だった。
 かちゃりと回った鍵に落胆して、紅が染み出す室内にまた肩を落とす。スマホにはメールが一件。『帰りは遅くなる』……溜め息が出る。なんだか落ち着かなくて、名前はソファの上で体を丸めた。耳を澄ませても彼のエンジン音は聴こえてこない。鼻を鳴らしても彼の匂いはしない。
 ――透のいない家は、さみしい。彼女はクッションを抱き締めたまま、時計の針が回るのをただ待った。
 透はスーツを着て出て行った。それはつまり仕事があるということで、問題はそれが安室透のものなのか、はたまたバーボンのものなのか、それとも――降谷零のものなのか、という点だ。
 私立探偵の仕事なら、これまでの経験上まず名前に言わないということはない。
 バーボンとしてのものも同じだ。第一、名前も同じ組織に所属しているわけで、組織からの任務であれば名前も猟犬として駆り出される可能性が高い。
 となると、答えはひとつ。頭がいいとはいえない名前にだって分かる。今日、彼は降谷零としての仕事をしに行ったのだ――それも、何やら訳ありの。表情が固かったところからして、危険が伴うものというより緊張感が生まれる類いのものだろう。
 たとえば、潜入捜査だとか。
 そこまで考えて、名前は首を振った。
 透は名前に何も告げなかった。それが名前にとってはすべてだ。透が名前の力を必要としていない以上、名前が彼を案ずる必要などない。彼はとても有能な人物なのだから。
 そう分かっていても気になるものは気になるわけで。名前は彼が作り置いてくれた夕御飯にも手をつけず(正確には手をつけられず)、まんじりとしていた。
 飼い主の帰りを待つ獣は、意識を耳に集中させて夜が過ぎるのを待つばかり。これではもうヴォールクというよりサバーカといった方がいい。
 ――たぶん、ジンあたりには蔑まれるだろう。『おいおい、いつからお前は家畜に成り下がったんだ?』なぁんて。だが名前にはオオカミとしての矜持はない。飼い犬よろしく御主人の帰りを待ちわび続けた。
 結局、透が帰宅したのは明け方近くだった。
 名前はまず聞き慣れたエンジン音を拾い、そしてその運転が常より荒っぽいところに嫌な予感を抱いた。廊下に響く足音も重い。
 だから扉が開かれた時、名前は既に玄関の前に立っていた。「おかえりなさい、透」そう言いかけた唇は、途中で押さえられた。
 名前は抱き締められていた。――誰に?……そんなの、ひとりしかいない!
 名前の顔は透のよれたシャツに押しつけられていた。微かに香る嫌な臭い。事故にでも遭ったのかと思ったが、透から鉄錆の香りはしない。少し、胸を撫で下ろした。だからといって、今の状況が変わることなどないのだが。
 名前は距離を取ろうとした。しかし彼女の腕が透の肩を押すより先に、彼は名前を抱く力を強めた。
 「……このままでいてくれ」掠れた声。そんな声を出されてなお抵抗できる者がいるだろうか!いるはずもない。おまけに相手は飼い犬の名前、抵抗の余地などなく、彼女の腕は透の背に回った。そう躾られているんだから、仕方がない。
 透はぽつぽつとこぼした。「組織に情報を盗られた」「いいや、それは想定の範囲だ」「でも、」「クソッ、赤井さえいなけりゃあ」「違う、これは俺の失態だ」名前は黙って聞いていた。それ以外に何ができる?名前はただの猟犬だ。組織のためのオオカミだ。出自の賎しさに悲しくなるなんて、透と出会うまでなかったのに。それでも名前は透の犬でありたかった。いつか、彼に殺されるとしても。