鼻がいいのも考えもの

 透を出迎えた数時間後、名前はベルモットと共にいた。
 『仕事よ、ノーリ』そう言われてしまっては断ることもできない。シャワーを浴び、残してしまった夕御飯を二人で分け合い、先刻よりすっきりした透の顔に満たされていた心が一気に沈んだ。
 よほど分かりやすかったのだろう。透は笑って、「事が済んだら二人でどこかに行こう」と言ってくれた。
 名前は考えた。小さなプールのついたモーテルのこと。ワシントンの古い果樹園のこと。
 名前は色々考えて、それから答えた。「東都水族館に行きたい」ベルモットに呼び出された場所の近くに、ニュースで特集が組まれるほどの建造物がリニューアルしたことを思い出したのだ。
 透は「約束するよ」と言って、やっぱり名前の頭にキスを落とした。
 そんなことを思っていたのがバレたのか、ベルモットは名前に訊ねた。「今日は飼い主と一緒じゃないのね」……よく言う。名前だけを呼び出したのはベルモットだというのに。

「透は仕事」

 それだけ答える。「ふぅん?」ベルモットの探るような目。「そういえば探偵なんてものやってたわね」……太陽よりも白々しい。実際、透は零としての仕事に向かった。
 ベルモットはバーボンを疑っている。名前は透から聞いた話を思い出す。組織の人間(透の言う特徴からして、恐らくラムの腹心、キュラソーだろう)が、警察庁に入り込み機密データを盗んでいったこと。そのせいで透たちスパイの身が危ういこと。そして、そのデータがどれだけ組織に渡ったか分からないこと。
 ベルモットの様子からして、バーボンが裏切り者であるという確信は抱いていない。あくまで疑惑。それでも透が動きにくくなったのは事実だ。名前にできるのは、バーボンへの疑いを少しでも軽くするために任務を確実に遂行することくらい。気を引きしめなくちゃ、と厳しい表情でキュラソーの匂いを辿る。
 名前に任されたのはキュラソーの捜索だ。ついでに仕留めることもできたらいいのだが――ベルモットにリードを繋がれたままでは上手くはいくまい。キュラソーが組織に帰るより先に、透に居所を知らせるくらいならできるだろうが。

「どうかしら、見つかりそう?」

「匂いは近い。大丈夫、見つける」

「頼もしいわ」

 信じてるわね、とベルモットは言った。それはキュラソーの件だけではない気がした。名前がどちら側か――透に飼われるようになってからの名前が、組織の猟犬のままか、それとも。ベルモットが危惧するということは、ジンには既に危険視されてるということだろう。彼は用心深い男だから。
 路地裏を歩くこと数分。二人は無造作に捨てられた女性もののジャケットを見つけた。染み付いたガソリンの臭いと散らばるガラス片。「キュラソーのだわ」ベルモットは呟く。
 キュラソーは東都水族館にいるのだろう。「人混みに紛れてやり過ごすつもりでしょうね」ベルモットはそう推察したけれど、キュラソーが人混みに紛れられるとは思えない。

「あそこなら建物たくさんある、と思うから、物影に隠れてるのかもしれない」

「そうね、怪我もして、おまけに変装も解けてるでしょうし」

 とはいえ、出血量は多くない。酷い怪我ではないのだろう。
 名前の言葉に、ベルモットは安堵してみせた。その様子からして、やはりキュラソーの生存を彼女たちは求めている。つまり、組織の得たキュラソーのデータは完全なものではない、ということだろう。……早く、キュラソーの口を封じなければ。
 そう考えていたから、「もう少し付き合ってもらうわよ」とベルモットに言われても、名前は素直に頷いた。
 しかし、名前はすぐに後悔した。

「人、多い……」

 オープンされたばかりの娯楽施設の混雑を名前は知らなかったのだ。子供の甲高い声。バニラアイスの甘さ。機械の鈍い音。汗のしょっぱさ。中でも一番鼻を悩ませたのは、香水や制汗剤の人工的な香りだ。名前は頭を押さえた。やっぱり、透とは別のところに行こう。

「ちょっとノーリ、あなた大丈夫なの?」

「へいき、だいじょうぶ。キュラソーは見つける。だいじょうぶ」

 フラフラと歩く名前を、ベルモットは支えた。「私が言ってるのはあなたの体調のことよ」呆れた声。やることはやるけれど、基本的にベルモットは優しい。名前に演技をするということを教えてくれたのもベルモットだった。

「……ありがとう」

「……任務のためよ。私が支えててあげるから、さっさとキュラソーを見つけなさい」

 ベルモットはそう言ったが、キュラソーの匂いは点々としていた。「あちこち移動してる。規則性はない」名前が言うと、ベルモットは考える仕草をした。

「追われてるってこと?」

「追われてる……ようではない。ただ、彼女と共に行動する者たちがいる。この臭いは、恐らく江戸川コナンの友人たち」

「どういうこと……?」

 それは名前も聞きたい。困惑するベルモットを連れ、名前はキュラソーの臭いを追った。人混みを抜けた先には、東都水族館の目玉のひとつ、巨大観覧車と。

「キュラソー……」

 その観覧車に並ぶ銀髪の女性がいた。江戸川コナンの仲間たちに囲まれた、キュラソーが。だが、コナンもシェリーも今は彼らから離れているようだ。
 何がキュラソーの身にあったのか分からないが、ベルモットは彼女を取り戻さなくてはならない。名前はベルモットを止めるわけにもいかず、彼女がキュラソーに近づいていくのをただ見守った。
 しかし、ベルモットはキュラソーを連れて戻らなかった。キュラソーはベルモットに気づかなかったのだ。
 調べる必要がある。というわけで、今度は名前の優れた視力聴力を使い、キュラソーの言動を見守ることとなった。どうやら、名前が雑踏から抜け出せるのは随分先になりそうだ。
 「今度何か奢ってあげるわ」とベルモットは言ってくれたけれど、それよりも早く透の元に返してほしいと思った。