2025年10月時点での原作最新話までのネタバレあり。
原作程度のグロ表現あり。
実際の食事シーンは少ないですが、カニバリズムメインの話です。
【死ネタです】
冷蔵庫の扉を開けると、むわっとした生温かい空気が顔にかかる。『まさか』と嫌な予感に襲われながら、手を伸ばした先はペットボトル。外での仕事を終え、カラカラに渇いた喉を潤そうと思っていたのに、それはすっかり常温へと返っていた。
「どうかした?」
冷蔵庫の前で立ち尽くしているのは端から見てもおかしかったらしい。私の後から家に入ってきた吉田くんが、背後から声をかけてくる。
べちゃべちゃに濡れてしまった右手を仕方なくシャツで拭いながら、私は振り返る。
「冷蔵庫の中身、ダメになっちゃったみたい」
「あ、あー……、そっか、停電……」
吉田くんは電気スイッチを押した。一回、二回、三回。それでも室内に明かりは灯らない。黄昏の橙色が深い影を落としている。
世はまさに世紀末を迎えていた。戦争の悪魔は縦横無尽に大暴れ。下々の生活など知ったこっちゃないとばかりに好き放題悪魔の力を行使している。そんな悪魔にインフラにだけは手を出さないでくれと祈ったところで聞く耳を持ってくれるはずもない。結果、我が家の電気は止まってしまい、冷蔵庫の中身は見るも無惨な姿と化した。
私は開封済みのヨーグルトに鼻を近づけてみる。いつから電気が止まっていたか定かではないが、ここ一時間二時間の話ではないだろう。ヨーグルトからは僅かに酸っぱい臭いがするような気がした。
私は悩んだ末、中身が三分の一程度残っていたヨーグルトを捨てることにした。
「冷凍庫って開けなければしばらく保つって聞いたけど、どのくらい平気なんだっけ?」
隣で牛乳を流しに捨てていた吉田くんが言う。私は充満する臭いに顔を歪めながら答える。「半日?とかそのくらいじゃない?」と。そうしながらも頭では別のことを思い出していた。
以前にも停電に見舞われたことがあった。今よりはずっと平和だった頃。その時も原因は悪魔で、けれど家事が得意だった彼は平然としていた。実際8時間ほどで復旧し、ダメになってしまったのはアイスくらいだった。
ベタベタになってしまったぶどう味のアイス。元は丸かったそれがひしゃげてしまったのが悲しくて、思わず指で掬って食べたら、彼に怒られてしまったのも覚えている。
どうしてそんなことをしたのか。今ならわかる。私はたぶん、彼の目に似たそのアイスが何の意味も持たず捨てられてしまうのが悲しかったのだ。
果汁を含んだアイスは甘くて、彼の目玉も甘いのだろうかとその時の私は思った。……本当は、そんなことなかったけど。
「でもいつ直るかわからないし……どうしよっか」
「っていうかそもそも、復旧する前に世界が滅んじゃうかもね」
吉田くんは笑う。でもそれが冗談で済まないと彼もわかっている。世界は終末に向かっている。今この瞬間も、間違いなく。
私たちは顔を見合わせて、それから冷凍庫を開けた。途端、湿り気を帯びた甘い匂いが鼻腔を舐める。そこには悲惨な光景が広がっていた。バニラアイスはもはや見る影もなくドロドロに溶けて、冷凍室を侵食していた。
私は親指と人差し指で
「どうする?これも捨てる?」
「食べられだけ食べようよ、もったいないじゃない」
幸いなことに、私たちは多くの食材を溜め込んではいなかった。それでも不幸に見舞われたすべてのものを救うことはできそうにない。私は役割を果たせなかったバニラアイスのことを思う。こんなことなら大型パックなんて買わなきゃよかった。私はただ、吉田くんと同じものを同じ時間に同じ場所で食べたかっただけなのに。
私たちは使えそうな食材をテーブルに並べていくことにした。冷凍されたブロッコリー、アスパラ、チーズ、ドライカレー、ミートソース……
「……お腹いっぱいで明日動けないかも」
「そうなったら作戦は失敗。人類は滅亡の一途を辿る、と」
「じゃあ私たち、人類滅亡の前に殺されちゃうね。公安の、うんと偉い人とかに。それで報告書には『デビルハンター二名、食あたりにより作戦決行ならず』って書かれちゃうんだ」
「だろうね。でも関係ないよ、死んだ後のことなんて」
私は「そうだね」と頷く。そうだ、吉田くんの言う通り。私たちが死んだ後、どんな不名誉を被ったとて私たちには関係ない。
昔はそんな風に考えることなんてしなかった。自分が死んだあとのこと。地続きの世界に、かつては寄り添うことができた。
でも今は違う。私が──私たちが死んだあと、世界が滅んだってなんとも思わない。だって、そこにはもう吉田くんがいないのだから。私の大切なものはみんな、喪われてしまうのだから。
私はコンロのつまみを捻る。カチカチカチ。三度火花が散って、青い炎が点る。
ガスはまだ生きていた。それもいつまで保つかわからない。安堵と焦燥と、少しの親近感。油を敷いたフライパンの上にハンバーグを転がす。その横で吉田くんはドロドロになった食材を掬い上げては洗っていった。
私たちはハンバーグを焼き、ドライカレーをレンジで温め、サラダを用意した。
「あとは明日の朝に食べるしかないか」
冷蔵庫を掃除するのは途中で諦めた。だって世界が終わるかもしれないのにこんなことに時間を使うなんてバカらしい。おかしくて、二人して笑って、グチャグチャの冷凍庫の戸を閉めた。
テーブルにつく頃には日も暮れ、懐中電灯をつけなくてはならなくなっていた。とっても非日常。まさしく災厄。そんな感じがして、落ち着かない。反対に吉田くんは冷静で、「アイスの味がしなくてよかったね」と言った。
僅かに傾けられた首。額に落ちる、長い前髪。目元に差す影の濃さ。じいっと見つめていると、「どうしたの」と問いかけられる。
でも私は上手く答えられない。冷蔵庫がダメになって、世界もダメになって、それでも目の前の彼だけが無事であるとどうして言えよう?呆気なく失われたこの部屋の灯りと同じように、彼もまた──、
「ねぇ、ホントにどうしたの?」
私は手を伸ばしていた。吉田くんの前髪を撫で、額に落ちる影を消そうとした。
「……髪、」
「髪?」
「邪魔じゃない?結んであげようか。……きっと可愛いよ」
私が言うと、吉田くんは「遠慮しとくよ」と少し困った風だった。
私は伸ばした手はそのままに親指でまぶたの縁をなぞり、眼球の柔らかさを知った。吉田くんの皮膚は薄くて、少し蒼白い。歯を立てたらすぐに血が出てしまうだろう。……犬歯が疼く。
「食べないの?」
「ううん、」
「……それとも、食べたいの?」
吉田くんと目を合わせる。煙る黒曜石は視線を逸らさない。確信を持った問いかけ。彼は悪魔である私を受け入れてくれている。
そうわかっていたから、私は素直に頷いた。
「うん」
はじめてだった。はじめて、吉田くんに対して慾を抱いた。眼球を舌先で転がす想像をし、血を啜る己の姿を幻視した。血も肉も骨もぜんぶ、彼のすべてを腹のうちに収めてしまいたかった。世界に奪われる前に、私のものにしてしまいたかった。
「いやなの。吉田くんがこのバニラアイスみたいに溶けて、食べることもできなくなって、どこにもその存在を感じられなくなって、そうなってしまうことが嫌だって、強く思ってしまったの」
私の告白に、吉田くんは「そっか」と頷いた。その後でもう一度、「そうなんだね」と口にする。それはまるで噛み締めるみたいな言い方だった。
私が反応する前に、吉田くんが動いた。彼は自分の頬に添えられた私の手に、己のそれを重ねた。擦り寄せられた頬の柔らかさを、私の掌は甘受する。少し冷たくて、心地のいいもの。誰にも渡したくなくて、いとおしいもの。
「それならちゃんと食べてね。ひとつも残さず、欠片すら取りこぼさず、ぜんぶぜんぶ、名前の口で」
吉田くんは目を細めてわらった。私には彼の感情など読めなかったけれど、その表情に擽ったさを覚えた。
私は「もちろんだよ」と応じた。
「ひと欠片も捨てたりなんかしない。ぜんぶ呑み込んじゃうんだから」
「たとえお腹を壊したってね」と冗談めかして言い添える。でも冗談なんかじゃなかった。牛乳みたいに、ヨーグルトみたいに、アイスクリームみたいに、そんな風に捨てたりなんかしない。
私は吉田くんの手を、指を絡ませ引き寄せる。筋肉のついた硬い腕。しなやかな指の、そのひとつ。薬指の根元に歯を立てる。
「約束、ね」
味なんてしなかった。美味しいなんて思わなかった。でもそのまま噛み切って、お腹の中に入れられたらどんなに安心できるだろうと思った。
しかし私はそうしなかった。口を離してから、吉田くんの前に自分の左手を差し伸べた。
何も言わなくてもよかった。すべて諒解したとばかりに、吉田くんは私の行動を真似た。彼の薄い唇が開かれ、薬指が招かれ、熱い舌が這わされるのを私は知覚した。犬歯の与える鋭い痛みも、深い満足感も。
そして今、私の前には黒い塊が転がっている。周囲に充満する、焼け焦げた肉の臭い。でもここはキッチンじゃないし、手元にはフライパンもない。黒い塊は吉田くんで、彼はずいぶんと小さくなってしまっていて、背中を丸めた格好をしていた。
私は彼のすぐそばに膝をついた。せめて煤を払ってあげたいと思ったのだけれど、触れた途端にすべて崩れ落ちてしまいそうだった。
「……キミはこうなること、知っていたのかな」
知っていたのだろう、と己の問いかけに対して内心で答える。知った上で、いつも通りの『吉田ヒロフミ』を演じきった。「かなわないなぁ」と独りごちて、私は身を屈める。
焼けた薬指には私の跡なんてもう残っていなくて、焦げすぎた肉は喉に張りついてしまうし、眼球は液化してしまっていたし、美味しいところなんてひとつもなかった。
それでも私は彼のすべてを腹の中に収めた。私という神の、その中に存在するであろう天国に彼だけを招き入れた。これでもう、誰にも奪われない。誰にも汚されない。
「ありがとう、吉田くん」
すべてが終わったあと、私は自身の腹部を撫でた。かなしくてさみしくて、痛くて苦しくて。でもその中に一片だけ安堵感があって、私の頬に一筋の涙が伝った。