吉田くんと共依存


【設定】
・銃の悪魔編後
・公安から逃亡済み
・お互いに『幸せになってほしい』と願っているけれど、思い描く幸福の形が違うので一生わかり合えない二人
・夢主→吉田『(無理やり人間にさせられたけど、それが彼なりの優しさであると理解しているので)(私以外の普通の人間と)幸せになってほしい』
・吉田→夢主『(普通の人間らしく)幸せになってほしい(のに、自分に対して神様らしく振る舞う夢主に情緒がめちゃくちゃ)』
・吉田視点






 灰色の雲が重く垂れ込める正午。何の気なしに入った定食屋で、初雪観測の報を聞く。どうやら今年の冬は暖冬傾向にあるらしい。尤も、去年も同じ話を聞いた気がするのだが。そう考えていると、おしゃべりな店主から「温暖化ってやつかねぇ」と声をかけられた。
 世界は少しずつ変質していく。やがてはそれが当たり前になって、かつてのことを覚えている人もいなくなるのだろう。そうであってほしいと思いながら、俺は心とは真逆のことを口にする。「困ったものですね」と。
 本当は地球の存亡になんてちっとも興味ないくせに。俺は心にもないことを言って、嘘くさい笑顔を貼りつけて、美味いとも不味いとも感じられない食事を喉に流し込み、そうして店を後にした。
 駅前の広場には大きなクリスマスツリーが立っていた。耳馴染みの深い、軽快な音楽が流れるせいか、道行く人の顔も明るいものに見える。
 あちこちから聞こえる甲高い笑い声に、思い出すのは彼女のこと。家でひとり、俺の帰りを待つ彼女の姿が眼裏に浮かぶ。

 今ごろ名前は何をしているだろうか。

 住み慣れた土地を離れ、親しい者は誰ひとりとしていない街。『好きなことをしていいんだよ』と言い聞かせているが、彼女の日々は予想の範疇を超えたことがない。本を読むか、映画を観るか。時々散歩に出ているようだが、遠くに足を伸ばした形跡はなかった。
 そう、すべてが想定の範囲内。人間を救うことばかり考えていた彼女から、神の如き力を奪った。翼を喪った天使がどうなるかなんて、神話の時代から決まっているのに。

 ──最後に彼女の笑った顔を見たのはいつだったろう。

 ……なんて、笑顔を奪った張本人が言えた義理ではないのだけれど。
 でもどうすればいいか皆目見当がつかない。ツリーのてっぺんに輝くベツレヘムの星を眺めやり、息をつく。せっかくのクリスマス、何かプレゼントでも贈ってみようか。少しでも慰めとなるような何かを。
 そんなことを考えている時だった。一際強い風が吹いて、土煙が上がった。一拍ののちに耳をつんざくのは、悪魔の襲来を報せるサイレン。悲鳴は北の方角からだった。
 逃げ惑う人々の向こう、身をくねらせ暴れているのは頭頂部が五つの花弁の形をした異形。煙る視界の中で、乳白色の液体を撒き散らす悪魔の姿が見える。そのすぐ近くには嘔吐する者や手で顔を覆っている者、倒れ伏したまま震えている者たちがいた。
 近づくのは得策ではないなと判断し、蛸で壁を作りながら触手を伸ばす。兎にも角にも悪魔の動きを封じなければ。デビルハンターとしての最優先事項は民間人の保護である。……と、名前なら言うだろうから。
 被害者たちから距離を取るべく、触手で悪魔の胴体を絡め取り、ビルに叩きつけた。
 身悶えする悪魔の口から発せられるのは、軋むような厭な音。悲鳴か怒声か、いずれにせよ俺には関係のないこと。ただ耳障りではあったから、その首を落とした。
 それでおしまい。なんとも呆気ないものだ。まぁ相性がよかったのもあるだろう。蛸の触手は一本や二本使い物にならなくなったってどうということはない。俺は悪魔の吐いた液体のせいで爛れてしまった触手を慰撫してやる。
 嵐の過ぎ去った現場は、先ほどまでの喧騒が嘘のよう。建物や瓦礫の陰からは恐る恐るといった体で人々が這い出てくる。
 その様子は哀れを誘うものだが、この世界ではしごくありふれた光景。俺は外面を貼りつけて、「もう大丈夫ですよ」と声をかける。
 だけどしょせんは猿真似だ。人類愛に満ちた彼女の、優しいひとの真似事。それをいつものように機械的に行いながら──負傷者の中に見慣れた顔を見つけて、息を呑む。
 彼女の名前を叫んだ。……のだと思う。頭が真っ白だった。『どうして君がここに』『怪我をしているのか』『ここから一番近い病院はどこだ』『もしも君に何かあったらその時俺は、』『俺は、どうなってしまうのか』そんな内容が一瞬のうちに頭を駆け巡って、クラッシュしていた。
 名前は困ったような顔で辺りに目をやっていた。けれど俺が駆け寄り、彼女の手を取ると、僅かに目元を和らげたのがわかった。
 ──その、赤く腫れた目元を、

「この声は吉田くん?」

 言葉を詰まらせた俺とは対照的に、彼女はゆったりと落ち着いた調子で俺の名前を呼んだ。その手は俺の掌を撫で、指先の輪郭をなぞっていく。何かを確かめるみたいに。輪郭を辿り、親指の腹をつまみ、最後にぎゅうっと手を握る。
 「ごめんなさい。目、見えなくなっちゃったみたい」そう言った彼女の瞳(め)は常と変わらぬ晴天の蒼。けれどその双眸は俺を見ているようで見ていなかった。焦点が合っていないのだ。息苦しさを抑えて、俺は口を開く。

「なんで謝るの。名前のせいじゃないでしょ」

「……うん。でも、ごめんね」

 彼女は目を伏せた。何事か言いかけた唇は、けれど引き結ばれたまま。俺はそんな彼女を見ていることしかできなかった。
 昔から他人を俺の望む結果に誘導するなんてわけないことだった。明確な言葉にせずとも声の調子や目線、仕草なんかで好意を植えつけることができた。それは難しい計算の上成り立つものではなく、殆ど勘によるものだった。
 そのツケが回ってきたのだ。俺には今の彼女にどんな言葉をかけてやればいいのかわからない。沈黙がこんなに息苦しいものだなんて知らなかった。

「……帰ろうか」

 救急車のサイレンが聞こえてきて、ようやっと口がきけるようになったかと思えばこんな一言しか出てこない。そんな自分が情けなくて、でも名前に悟られるのはもっと嫌だったから、いつもの笑顔を貼りつけた。尤も、今の彼女には見えやしないのだけど。

「……っ」

「ごめん、驚かせちゃったね」

 誘導しようと腰に手を回したところ、名前は体を強張らせた。
 ……あぁそうか、目が見えていないから。
 だからこれが当然の反応だ。そう頭では理解していても、【普通の人間】みたいな様子に、俺まで驚いてしまう。

 ──今の彼女は、悪魔でなくなった日の、はじめての朝よりずっと人間らしい。

 そう思ってしまった、自分自身に。
 ……それから、首をもたげた浅ましい考えに。

「ううん、私の方こそ。……こんなに分からなくなっちゃうものなんだね、ただ目が見えなくなっただけなのに」

「……そんな不安そうな顔しないで。大丈夫、すぐ治るよ。悪魔は倒したんだから」

「そう、だよね。……あの、ありがとう。よかったよ、助けに来てくれたのが吉田くんで」

「お礼は楽しみにしてるね」

「……もしかして今、悪い顔してる?」

「ひどいな、とんだ濡れ衣だよ」

 いつだったか──もう遠い昔のことのように思えるけれど。彼女が信仰の悪魔で、公安のデビルハンターであった頃、ただの友達だった頃みたいに軽口を叩きながら、でも彼女は俺が手を引かなきゃ家にも帰れなくて。信頼しきってるかのように身を預けられて、そんな彼女を堪らなく愛おしく思うと同時に、どうしようもなく憎らしくも思えて。こんなことなら、俺は、

 ──いっそ君を殺して、君に殺されてしまえたら、そうしたらようよう満足できるのだろうか。





「……酷い面だな」

「開口一番それですか、久しぶりに会えたってのに」

 「心にもないことを言うな」と、アルコールの回っていない岸辺さんはしごく真っ当なことを言う。
 結論からいえば、一週間経っても名前の視力は回復しなかった。既に元凶である悪魔を片付けてしまった以上、他に手立てが見つけられず、俺は岸辺さんに助けを求めることにした。
 近頃ようやく公安の方も落ち着いてきたらしい。とはいえ名前が追われる身であることに変わりはないとのこと。なので俺たちはスパイ映画の定番よろしく、背中合わせで公園のベンチに座り、素知らぬ顔で言葉を交わしていた。

「戻ってくる気はないのか。公安なら治せる悪魔がいるぞ」

「ははは、それなら死体を二つ用意する方がよっぽどいいですね」

「しばらく見ないうちに随分バカになったな」

 バカで結構。「恋は人を愚かにするものですから」実際のところどうなんだろう。恋とか愛とか、そういう一般的な尺度で測られたものなんだろうか。……わからない。俺はただ、名前と一緒にいたかった。そのためにここまで来たのだ。今さら公安にだって返してやるものか。
 「まったく……」と、呆れたような溜め息が背後から聞こえてくる。

「他の被害者たちは全員完治したらしい」

「……そうですか」

「……驚かないんだな」

「まぁ、そんな気はしてましたから」

 岸辺さんは「気長に待つしかないな」と言った。

「民間人を庇ったんだろ?他の奴らより治るのに時間がかかっても、おかしくはない」

「……そうですね」

 岸辺さんは他の可能性を指摘しなかった。俺も口に出すことはしなかった。本当はもう悪魔の影響なんてないんじゃないかって。
 もしも心因性のものだと診断されて、……それでどうなる?彼女が余計に気に病むだけだ。俺は別に、今のままだって構わない。目が見えないままだって、俺は、

「……共倒れにだけはなるなよ」

 岸辺さんの声はどこか哀れむような響きをしていた。
 俺はちいさく笑った。「そういうのは彼女がゆるしてくれませんから」だから岸辺さんの懸念が現実になることはない。

「名前はね、絶対に堕ちてはくれないんですよ。せっかく公安を辞められたのに悪魔が出れば赤の他人を守ろうとするし、なんにもできなくたってただ家にいてくれるだけでいいのに、俺がそう言うとすごく申し訳なさそうにするんです」

 俺の前には長閑な光景が広がっていた。休日の午後を思い思いに過ごす人たちがいた。砂場で遊ぶ幼児と、それを穏やかな顔で見守る母親。ブランコでは小学生が漕いだ高さを競い合っている。木立の中を老夫婦は連れ歩き、緩やかな時間が流れているのがわかった。
 そのいずれもが俺にはないものだった。そのいずれも名前が手にするべきもので、喪われてしまったものだった。

「そもそも前提からして違うんですよ。……ねぇ岸辺さん、どうして名前が人間になってくれたのか、アンタはその理由がどこにあると思います?彼女が俺を受け入れてくれたとでも?」

「……違うのか?」

 どうやらこの人はとんだ勘違いをしているらしい。
 俺は息だけで笑った。岸辺さん、アンタって人は案外ロマンチストなんですね。

「名前はね、赦してくれただけなんです。彼女が選んだからでも、まして望んだわけでもない。愚かな隣人を神の如く赦した、ただそれだけのことなんです」

 俺が彼女に人間としての生を望んだ夜。彼女は最初、俺を拒んだ。人間への憧れを語った口で、それでも悪魔として生きることを選んだ。
 『ごめんなさい』と彼女は言った。

『それでも私は、大切な人を守れる力を失いたくないの』

 そのためなら神にも悪魔にもなる、と。
 俺を見る眼は濡れていた。己を組み敷く男を見上げ、瞳を揺らし、けれどそう言い切った彼女の声に震えはなかった。迷いも、後悔も。
 俺は彼女の瞳が好きだった。静謐なる蒼。浮遊感と失墜感を与えてくれる、遠い空の色。俺をまっすぐに見上げる静かなその瞳が好きだった。
 ──そのはず、なのに。

『──いちばん大切な人を守れなかったのに?』

 その時、俺の心に湧いたのは苛立ちだった。ままならない彼女が好きだったのに、そんな彼女をめちゃくちゃにしてしまいたくなった。
 俺は焦っていた。近いうちに公安で大きな戦いが行われるであろうことは岸辺さんから聞いていた。彼女が巻き込まれる可能性は高かった。早急に公安から距離を置く必要があった。けれどどこに間者が紛れているか分からない。他言無用、それが俺と名前を隔てる壁だった。
 名前は傷ついた顔をした。泣き出す瞬間の、くしゃりと歪んだ顔。
 でも泣かなかった。彼女は堪えるように唇を引き結び、それから『そうだね』と言った。

『だから私は最後までこの名を背負うと決めたの。彼が好きだと言ってくれた私のままで、死にたいの』

 彼女はまっすぐに俺を見つめていた。見つめていたけれど、真実俺を見ているわけじゃなかった。彼女の眼差しはラファエロにおける聖母のそれであり、レヴィ=デュルメルにおけるサロメだった。

『……もう、黙って』

 何も見たくなかった。何も聞きたくなかった。
 俺は名前の口を塞いだ。呻く声を俺の喉は嚥下した。それでも彼女は抵抗をやめなかった。鋭い痛みが走って、彼女の歯が俺の舌に、彼女の爪が俺の腕に立てられたのを意識の外側で理解した。征服されながらも、彼女は怒りに燃える眼で俺を睨み据えていた。
 その瞬間、彼女は人間だった。人間らしく俺を拒み、人間らしく俺を憎んでいた。はじめて見る顔だった。その顔がずっと見たかったのだとも思った。俺は俺の手で神さまを人の身に落としたのだ!
 でも喜びは長くは続かなかった。彼女は俺を殺さなかった。どんな殺し方だって選べただろうに、途中で抵抗の手を止めた。怒りが過ぎ去った後の眼には憐れみの色が宿っていた。それは赦しを与える神の眼と同じだった。

 ──そうして今もまだ、名前はこの憐れな男を見捨てられずにいるのだ。

 俺はすべてを包み隠さず詳らかにした。「……かわいそうに」というのが岸辺さんの感想だった。

「はは、本当に」

「お前もな」

 岸辺さんは「アイツのことはお前より理解してやれそうだ」と独りごちる。
 ……ちょっと、それは聞き捨てならないんですけど。

「マウントですか、それ」

「訂正する。お前はバカじゃない。大バカだ」

 好き放題言って、岸辺さんはベンチを立つ。置き土産に、「お前らはもっと言語で会話しろ」なんて、よくわからないアドバイスを残して。

「頭痛が痛いみたいなこと言われてもな……」

 言語以外でどう会話するというのか。そもそも名前とは毎日話しているし、と首を捻ったところで答えは返ってこない。背後に岸辺さんの姿は既になく、俺も公園を後にした。





 久しぶりに岸辺さんと会ったことを話すと、名前は詳しく聞きたがった。

「岸辺さん元気だった?」

「ぴんぴんしてたよ。変わったことといえば……珍しくお酒を飲んでなかったことくらいかな」

「あの岸辺さんが?信じられない、見たかったなぁ」

 「私も呼んでくれればよかったのに」と不満げな口に、就寝前のホットミルクを飲ませてやりながら、俺は「ごめんごめん」と思ってもない謝罪を口にする。

「偶然だったんだよ。本当に、たまたま」

 嘘ばっかり。
 だけどこんなことで痛む良心は生憎と持ち合わせていない。俺が気にしているのはそれ以外のこと。「それじゃあ仕方ないね」と肩を落とした名前の、その遠くに馳せられた目の見つめる先だった。

「岸辺さん、大丈夫かな。無理してないといいけど」

 続けて、「なんて、私が言えた義理じゃないか」と言った彼女の真意はどこにある?恨まれているのだろうか。憎まれているのだろうか。俺が君から存在意義を奪ってしまったから。信仰の悪魔であることに誇りを持っていた彼女から、無理やりその力を奪い取った。役割から解放されること、自由こそが幸福を齎すのだと嘯いて。
 恨んでくれればいいと思う。憎んでくれればいいと思う。そうじゃなきゃ──そんなのは【普通】じゃない、神様だ。俺(咎人)を赦す悪魔(神様)。そんなのは厭だ。自分という存在がその他大勢の中に埋没し、信者の一人として数えられてしまうくらいなら、それなら俺は、君の手で息の根を止めてほしい。

「どうしたの?」

 無意識のうち、俺の手は名前の指先を撫でていた。不思議そうではあるものの、その目に不快の色はない。──目線は、合わないけれど。
 取り繕うように、俺は笑う。

「つめ、伸びたなって」

「ほんとう?見えないからよく分からないな」

「うん、……切ってあげるね」

 爪切りを持って彼女に向き直る。警戒心の欠片もなく、俺に手を預ける彼女。決して俺を見ることのない彼女。永遠に分かり合うことのできないひと。
 ぱちり、ぱちり。静寂のなか、刃の音ばかりが響く。彼女の一部分が切り落とされていく音。悪魔である彼女が少しずつ喪われていく音。澄んだ音を聴いていると、少しずつ気が落ち着いてくるのを感じる。
 俺は彼女の爪を切るのが好きだった。爪を切ること、髪を切ること。……彼女が人間らしい活動を行うこと、そのすべてが。
 ヤスリをかけて、整えられた指先を矯めつ眇めつ眺める。

「どうかな」

「吉田くんがやってくれたなら大丈夫だよ」

「ふふ、何それ」

「私よりずっと、私を大切にしてくれるってこと」

 ありがとう、と名前は目を細める。どういたしまして、と俺は目を逸らす。
 目が見えなくなったせいか、あの日以来纏う空気が柔らかくなった。張りつめていた糸がたわんで、足元で絡まり、躓いてしまいそうになる。息が苦しい。それでも彼女の隣を離れられないのだから、俺の頭はどこかおかしくなっているのだろう。
 わざとらしく時計を見やって、「そろそろ寝ようか」と声をかける。時刻は夜の11時。今どき中学生だってベッドに入っちゃいない時間。でも名前にはわからないから、素直に頷いてくれる。そういうところがかわいくて、憎らしい。
 明かりを消し、ひとつのベッドに入る。
 目を閉じてもこういう時に限って睡魔はやってこない。左半身の感覚だけ鋭敏になって、自然な息継ぎの仕方さえ忘れてしまう。静寂が永遠のように思われて、そろそろと目を開ける。
 傍らの呼吸音は一定で、けれど窺い見た横顔は真っ暗な天井を見上げていた。

「……ねぇ。君はいま、何を考えているの」

「……ベツレヘムの星のことを、」

 名前は俺を見ることなく言った。

「私にとってベツレヘムの星は祝福で、喜ばしいことで、だからヘロデ王の気持ちなんてちっとも考えたことがなかった。自分には関係のないことだって、そう思い込んでいたの」

 室内のカーテンは閉め切られ、朧の月明かりさえ届かない。ここは138億光年より先のこの世の天涯(はて)。隣り合っていても、俺たちはこの宇宙にひとりぼっちなのだと実感させられる。

「……今は違うって?」

「……吉田くんはヘール・ボップ彗星を見た時、なにを思った?」

「なにって……」

 質問の意図が分からず、言い淀む。
 ヘール・ボップ彗星のことは俺もよく覚えている。96年から97年にかけて、およそ1年以上もの間肉眼で観測することのできた彗星だ。観測史上過去最大級と呼ばれたそれを、ある者は吉兆と、またある者は凶兆と捉えた。果たして正解はどちらだったのか。今日(こんにち)も答えは見つかっていない。

「きれいだったよね。昼の間でも……どこにいたって輝いていて、まぶしくて、……なのに絶対、私のものにはなってくれなくて」

 返事を待たずして名前が言葉を続ける。
 そう、彼女の中で答えは決まっていたのだ。俺がどう答えようが──彗星の輝きに何の意味も見出してなかろうが。
 名前の目は、遠ざかっていく彗星の尾を追いかけていた。

「それがわかっていたから、私はこわかったの。いやな予感がした。大切にしていたあらゆるものが、私の手元には何ひとつ残らないような気がして、」

「……つまりこう言いたいわけだ。ヘール・ボップ彗星は君にとってのベツレヘムの星だって」

 ヘロデ王にとってのベツレヘムの星が凶兆であったように。俺にとっての君が【そう】なのだと、彼女は言いたいんだ。

「……もしかして、怒ってる?」

 突き放したような物言いに、ようやく彼女の目が俺に向けられる。138億光年先でも、2530年先でもなく、20センチ先の俺へ。
 だから俺は「怒ってなんかないよ」と片頬でわらった。怒ってなんかない、それは本当だ。でも、少し悲しくはあるかな。

「俺は後悔してないよ。たとえどんな不幸に見舞われると知っていても、それでも俺は同じ選択をするだろうから」

「……吉田くんは強いね」

 「私は、」と名前は声を震わせる。

「今でも考えてしまうの。もしも私がキミの手を取らなかったらどうなっていたのかなって。そうしたらキミだって、こんな危ない仕事、続けてなかったかもしれないよね。キミには幾つもの選択肢があって、数多の未来が拓けていたのに」

 暗闇の中で、俺には名前の目が光って見えた。恒星の蒼。けれどそれは砕けながら発光する流星のような、痛みを伴うものだった。フラグメンテーション。バラバラと堕ちていく星のかけらたち。美しいものの、その名残。残光が、網膜に焼きつく。

「ねぇ、吉田くん。私はキミを滅ぼす神様になんかなりたくないよ」

 ──それなら君は、俺を滅ぼす女(ファム・ファタール)になってくれ。どうせ破滅するのなら、君と一緒に終わりを迎えたい。神様なんかじゃない、ただの人間として。俺と生きて、死んでほしい。
 そう願ったけれど、声に出すことはできなかった。だって俺は知っている。そんな願いを彼女が叶えてくれるわけがないって。たとえ叶えてくれたとしても、それは俺の望んだ彼女じゃないって。わかっていたから、何も言えなかった。
 俺は頬の内側を噛んだ。目の奥が熱い。こころがぐちゃぐちゃだ。隣にいるのに、こんなに遠い。だからせめて、とばかりに手を伸ばす。
 ちいさく息を呑む音がした。けれど俺は彼女の顔を見ようとはしなかったし、彼女もまた俺の手を拒むことはなかった。躊躇いがちに握り返された手。その熱だけでよかった。いいのだと思うことにした。きっと、お互いに。

 ──せめて、この寒い冬だけでも、