名前が熱を出したらしい。ディエゴがそれを知ったのはクリスマス当日、昼すぎのこと。カントリー・ハウスを訪うと、見知った顔の使用人がいかにも哀れっぽい様子で『お可哀想に』と目元を拭う真似をした。──せっかくのクリスマス、数少ない家族団らんのひと時が!……とでも言いたいのだろうが、この家の実情を知っているディエゴからすれば滑稽なことこの上ない。が、話を合わせることにした。
「そんなに酷いのか?」
「いえ、今朝方にはだいぶ熱も下がりましたが……、ご家族と過ごすのは難しいでしょう」
「そうか……」
ふむ、と一考してみる。
彼女は身体が弱く、季節の変わり目には床に臥せることが多い……らしい。ディエゴが彼女と出会ったのはおよそ三年前。ジョースター家に連れられて訪ねたカントリー・ハウス。ここで侯爵に騎手としての腕を買われ、ディエゴは男爵家の養子に迎えられた。恩義なぞは感じちゃいないが、利用価値はある。この家にも、彼女自身にも。
「見舞ってもいいだろうか?少しでも顔が見たいんだ」
あることを思いついたディエゴは、そう控えめに申し出てみることにした。使用人風情にへいこらするのは、まァ、将来への投資だと思えば我慢のひとつもできるというもの。事実、この家の者たちはディエゴに対して些かの警戒心も抱いていない。だから今回も「ええ、ええ。ぜひに」の一言で歓迎の門は開かれた。
しんと静まり返った侯爵邸。連日友人知人を招いてのパーティーが盛況なこの家も、さすがのクリスマスは毎年こうだ。
クリスマスは家族と過ごすもの。一般的にはそう定義されているから外面だけは取り繕っているだけ。実際のところ、侯爵家の家庭は明け方の空気よりも冷え切っている。でなければ奥方がヒステリーを起こすことも、旦那が愛人を囲うこともなかったろう。原因がどちらにあったか、そもそも双方にか。そんなものに興味はない。
使用人たちのところに顔を出してから、ディエゴは階段を上る。絡まるツタとケルビムの
ディエゴは前時代的な四柱式寝台に歩を進めた。天蓋から下ろされた分厚いカーテン。それを遠慮なくこじ開ける。
白いベッドリネンの中に名前はいた。
彼女は眠っていた。膚が白いせいか、いつもより顔が赤いのがよくわかった。呼気からも仄かな熱を感じた。息苦しいのか、時折眉根を寄せる仕草を見せた。
元々眠りは浅かったのだろう、ディエゴが見下ろしていると彼女の睫毛が震えた。
「…………?」
唇がディエゴの名を形作る。不思議そうに細められた目は、未だ微睡みのなか。茫洋とした蒼色は見ていてあまり気分のいいものではない。なんだか無性にイライラして、ディエゴは鼻を鳴らした。
「まったく、軟弱なものだな。君が寝こけている間にオレがいったい何冊の本を読み終えたと思う?『ユートピア』『統治二論』『自分だけの部屋』……」
「……『自分だけの部屋』……」
覚醒しきっていないのか。呟く声は掠れ、明瞭としない。
彼女は数度、瞬きをした。それからほぅっと息をついて、「それならわたしも読んだことがあるわ」と先程よりも芯のある声で返してきた。
「お父さまには内緒にしてね。メイドに頼んでこっそり読ませてもらったのよ。……でも知らなかったわ、貴方が女性の権利に興味を持っているなんて」
「…………」
「怒らないで、からかっているわけではないの。うれしいの、本当よ」
彼女はゆっくりと身を起こす。
それから乾いた咳をするものだから、ディエゴは仏頂面のままティーセットを差し向けた。彼女は「ありがとう」と言って、柔く笑んだ。どうしてそんな顔ができるのかディエゴにはわからなかった。たぶんこの女はイカれているのだ。ディエゴがそう思ったのはもう何度目か。
「……知識のひとつとして読んだだけだ。深い意味はない」
「関心を持ってくれるだけで嬉しいと言っているのよ」
「会話にならないな、まだ熱が高いんじゃあないのか」
「薬は飲んだから大丈夫」
「じゃあソイツはヤブ医者なんだな」と言って、ディエゴはベッド脇のソファに腰を下ろす。スプリングの入った肘掛け椅子。それもまた例に洩れず少女趣味な代物で内心辟易とする。
『自分だけの部屋』はヴァージニア・ウルフが大学で行った講演を基にしたエッセイだ。『もし女性が小説を書こうとするなら、お金と自分だけの部屋をもつ必要があります。……女性たちはアテネの奴隷の息子よりも知的自由がありませんでした』……ディエゴの視線に気づいた彼女は「どうかした?」と小首を傾げる。趣味の悪い部屋のなかで、文句のひとつも言わず。
哀れなものだな、と思わないでもない。彼女は女で、泥水を啜って生きていけるほど強い身体を持っているわけでもない。身の丈に合わぬ願いを抱いて、ベッドの中で朽ちていくだけの凡庸な人間。……そんなことは彼女とて理解しているだろう。
「……君が死んだ時のことを考えていた」
「貴方の中の私ってずいぶんか弱いのね……?」
「まぁ聞け。……君が死んだその時にはこの家のものすべて、このディエゴが有効に使ってやるからな」
そう言い放つと、彼女は目を瞬かせる。
何を言われたのか飲み込めないって顔。ノロマなヤツ。だからオレが目を光らせておく必要がある。じゃなきゃたちの悪い人間に骨の髄までしゃぶりつくされるに違いない。この女に目をつけたのはオレなのだ。赤の他人に奪われてなるものか。
ディエゴは大真面目に言った。言ってやった。だというのに言われた張本人はマヌケ面を晒したあとで俯きがちに肩を震わせていた。どうやら笑っている──らしい。
「おい……」
「あぁごめんなさい、ちがうの。冗談だと思ってるとか貴方を馬鹿にしているとか、そういうことではなくて──」
ティーセットがサイドテーブルに置かれる。すっかり空いた手が被うのは口許。それでも雪解けた眦だけは隠しおおせるものではなく。はにかみながら、彼女は口を開く。
「好きだなぁと思ったの。あなたの、そういうところ」
──は、あ?
「矜持があって、もちろん口先だけというのでもなくて。私ね、尊敬してるのよ、貴方のこと」
ディエゴは眼の前の不可解な生き物を視た。無邪気さなどとうに奪われたはずの、なのにどうしてか眩い星を湛えた双眸を。
「でも貴方ってすっごく悪い大人にもなりそう。だからほどほどにしてちょうだいね、私、貴方の棺を埋めるのは嫌よ」
途端に生意気なことを口走る名前に、ハッと我に返る。と同時に先刻味わった感覚を払いのけるべく、ディエゴは舌打ちをした。
「無用な心配だな。そんな下らないことを考える暇があるのか?自由でいられるのもあと数年だろうに」
「そうね、だから今度『統治二論』を貸してくださる?私も読みたいわ。でもお父さまは書庫に入れてくださらないのよ、知っているでしょう?」
「なにが『だから』なんだ。そんなことをしてオレになんのメリットが?」
「……私に差し出せるものは何もないわ。選ぶのは貴方よ。……私はね、ディエゴ、あなたに選んでほしいだけなの」
眼差しが落ちる。彼女の指先によって波が立つリネン。金糸は力なく胸元に垂れ下がり、肩の薄さが目についた。
そういえば今日は曇り空だったな、とディエゴは唐突に思った。昨日も、その前も。……明日はどうだろうか。明日こそは快晴だといい。その方がディエゴの馬も喜んで走ってくれる、だから──
「……そういえば君のところの使用人がこれを、と」
ディエゴは重苦しい天幕を乗り越えて、持ってきたバスケットを彼女の胸元に押しつけた。
「……これは、クリスマスプディング?」
「……あぁ。お前が食べられないのは可哀想だって」
「それをわざわざ届けてくれたの?ありがとう、ディエゴ。ごめんなさいね、手間を掛けさせてしまって」
彼女はディエゴを真正面から見る。先程の会話などまるでなかった風で。すっかりいつもの調子を取り戻して、名前は微笑んだ。
己は弁が立つと思っていた。事実、口八丁手八丁で今の地位まで上り詰めた。だから弱っているお嬢様を慰めるなんて容易いことだった。
なのに今!なんてザマだ!そう、ディエゴの心のうちには苛立ちが渦巻いていた。物で釣るなんて──それも、他人の持ち物でなんて!
つまるところ、自尊心が傷つけられたのだ。
ささくれだった気持ちのまま、ソファの上で足を組み替える。オレの方が具合が悪くなってきたぞ、と言いたかった。彼女を責め立てる言葉なら幾らでも言えそうな気がした。昨日も、その前も。たぶん明日も明後日も、その先も。
「ねぇディエゴ、貴方の手で切り分けてくれない?」
「はァ?なんだってこのオレがそんなことしてやらなくちゃならないっていうんだ?」
「だって私、ベッドにいるのよ?貴方が食べさせてくれなきゃプディングが可哀想なことになってしまうわ」
「そうか、わかったぞ。君はオレを使用人にしたいんだな」
「違うわ、大切なお友だちよ」
ディエゴは反論しようとした。「他に友人なんざいないだろうに」とか「君は友人に使用人のマネをさせるのが趣味なのか」とか。けれどその手の言葉はひとつとして口をついて出なかった。
とはいえそれは病み上がりの彼女に対しての気遣いなどではない。言い連ねたらキリがなかったし、同じようなことを明日も明後日も言うことになるだろうという確信があったからだった。
そう、決して──熱を持った瞳や乾いた唇、青褪めて白い膚が気にかかったなど──そんなわけではないのだ!
「……貸しだからな」
「ええ、利子をつけて返すわね」
不承不承。ディエゴはプディングを一口大に切り分けて、名前の口許へ運ぶ。こういう時ばかり従順な雛鳥は警戒心ゼロ。与えられるものを享受すべく小さな唇を開ける。
一口食べ終えると、彼女は「久しぶりに甘いものを食べたわ」と声を弾ませた。
その姿を見て、ディエゴは『この女は飢えることを知らないのだろうな』と思った。脳裏を過ぎるのは幼少期の記憶。食べる物は施されなければ手に入れることが叶わず、圧倒的な飢餓感が己の半身であった。空腹による腹の痛みも、朦朧とする意識も、それでもなお働かなければ立ち行かない生活も。すべてこの女は知らないのだ。
記憶の中の苦痛を反芻し、噛み締める。何度も、何度も。褪せることのないよう、鈍ることのないよう、──自分以外のすべてを蹴落とすのだ、と。
「……今のうちに食べておくといい。元気になったらまた食事制限が課されるんだろう?」
この女は駒だ。踏み台であって、感情を挟む余地などない。ディエゴは善き隣人の顔で、名前の手を握った。傷ひとつない、柔らかな手。……母親のそれとは異なる手。
憎悪を掻き立てるには十分だった。
内心を隠すディエゴの口角は、間違いなく弧を描いていた。不自然ではない、親切心に満ち溢れた笑み。しかし名前は訝しげに目を細めた。
「……貴方のそれは優しさ……などではないのでしょう?怖いわね、ひとを肥えさせてどうするつもりなのかしら」
「…………君ってヤツは人を怒らせる天才だな」
──ちょっと優しくしてやったらすぐこれだ!口の減らない、生意気な女!
形の佳い──と自負している──唇が歪んでいくのが、ディエゴ自身でもわかった。
この女を前にするといつもこうだ。ディエゴだって別に憎まれ口を叩きたいわけではない。甘言を弄して信頼を勝ち取り、上手く使ってやろうと思っていた。世慣れていない女ひとり、容易いことだと考えていた。
だというのに名前ときたら──
「そんなこと初めて言われたわ。貴方が短気なだけではないの?」
「それこそあり得ないな。オレほど寛容な男もいないだろう。君の我儘にもこうして付き合ってやっているというのに、なぁ?」
「あら、貴方こそ初代ウォリック伯のマナーガイドはお読みになった?『完璧なる紳士』という本なのだけど、今の貴方に必要なことが書かれているのではないかしら」
「ご親切にどうも。だがな──、」
言い返そうとしたところで、名前が咳き込む。
ひゅーひゅーと鳴る喉は木枯らしを思い起こさせた。ブルーグレーの空。「ごめんなさい」と顔を歪めて言った彼女は、幾度この風に曝されたのだろう。
「少し調子に乗っちゃった、貴方が会いに来てくれたのが嬉しくて。でもだめね、まだおとなしくしていなくちゃいけないみたい」
「……そうだな」
ディエゴは視線を落とした。
半分ほど残されたクリスマスプディング。バカげた風習だ。風邪のひとつも治せやしないなんて。
「……ね、ディエゴ。今年のプディングには何が入ってた?」
それでも彼女が望むから、ディエゴは残ったプディングを半分に切った。
この国ではクリスマスプディングの中に入っていたもので翌年の運勢を占う。指輪が入っていれば結婚を意味し、指抜きが入っていればその逆を意味する……といった風に。
そして今回は──
「おめでとう、来年の貴方はきっとツイてるわよ」
プディングから出てきたのは六ペンス硬貨。占いでは幸運を意味するそれを、ディエゴは指でつまみ取った。
まったくくだらない、何が占いだ。ディエゴはそんな不確実なものちっとも信じちゃいなかった。
「……オレは関係ないだろう、こいつは君のケーキなんだから」
「じゃあ残りの半分は貴方が食べるといいわ。そうすれば幸運も分け合えるでしょう?」
病気も完治していないのによくもまぁ。ほんの数分前まで口論していた相手に、ディエゴは呆れるしかなかった。生意気で厭味ったらしいかと思えば、善人ぶって能天気な笑顔を見せる。──まったく、付き合いきれない。
「……あとで返せと言ってもムダだからな」
「貴方はいったい私をなんだと思ってるの」
それには答えずに、ディエゴは席を立つ。
なんだと思ってる、か。……そんなの、オレが聞きたいくらいだ!