──酷い朝だ。
覚醒と同時に頭部を襲う鈍痛を認識し、ディエゴは顔を歪める。酷い朝だ。これ以上はないっていうくらいに、最低最悪の朝。
額を押さえ、身を起こす。波打つシーツを眺め、そのベッドの大きさに、ここが主寝室であることに気づく。
いったいいつの間に帰ってきていたのか。昨晩の記憶を辿ろうとして、視界の隅に落ちる影が目にとまる。
「名前……?」
「あら、ようやく気づきましたの。ずいぶんと遅いお目覚めですこと」
最初に見えたのはいやに優しい眼差し。朝の日差しに縁取られた、楚々とした立ち姿。カーテンを開けながら、肩越しに振り返る名前は既に身支度を整え終えている。
その和やかに緩む青の瞳は聖母子像を想起させるほど。グリーンのフレアスカートは流行の最先端だが今の彼女には悪くない。久方ぶりの晴れ間を見た気分で、ディエゴは知らず目を細める。
ふと思い浮かべるのはどこかで耳にした一節。『それを見出すことができさえすれば、人が一生幸せであるような──そんな時が人生にはあるのだ』──果たしてこれは、どこで聞いた台詞だったか。記憶を浚おうとするが、どうにも覚束ない。小説だったか、舞台だったか。ともかくどこかで聞いた一節が、ある種の閃きの如く脳裏によみがえった。
しかしまったく、些事である。こんなことで思い煩うのは愚かなことだ。ディエゴは思い直し、「具合がよくないんだ」と訴えた。いま、何より肝心なのはこの身の不幸。頭痛と吐き気、それ以外のすべては意識の外側に押しやった。
「具合が?」
「ああ、頭が割れそうだ。それに吐き気も」
「まあ!」
ディエゴの訴えは自分で思うよりもずっと哀れっぽい調子だった。そのためか、名前のその白皙の顔がさっと青ざめた。
「本当ね。顔色が悪いわ、まるで蝋みたいに……。嫌な感じの白さだわ」
名前はディエゴの顔を覗き込む。
そうすると自然、意識の多くが彼女によって占められた。名前・名字。それは頬に添えられた指先の柔らかさであり、気遣わしげに震える睫毛であった。鼻先を掠める吐息の熱量や、甘く清涼な花の香り、……そうしたものが印象深く、それ以外の何もかもがぼやけ、背景へと溶けていった。
「ともかく、」ディエゴは目を逸らした。「最低な気分なんだ。放っておいてくれ」
そうは言ったが、もしも実際名前が唯々諾々と受け入れていたならディエゴはまず間違いなく失望していた。従順な妻の方が都合がいいが、退屈すぎるのは嫌いだ。
その点で考えるなら、恐らく名前は合格と言っていい。ディエゴの冷ややかなあしらいにも、名前が恐れや悲しみなどを表すことはなかった。彼女がしたのは『やれやれ』という些か大仰な身ぶりのみ。
「簡単に言うのねぇ……。放っておけるわけないでしょうに」
名前は「そりゃああなたの望み通りにするのが一番でしょうけど」と呆れた風に肩を竦める。それはおいたをした子供を諌める母親のそれに近い。
母親。
ディエゴが思い返す時、それは怒りであり、憎しみを伴っていた。不幸にも死んでいった母親!大人たちの身勝手によって殺された母を思うのは、ディエゴが当時の激情を鮮やかによみがえらせるためであり、大いなる野望を果たすためであった。
なのにいま──思い出される母親の顔は、おとなしやかで気の優しい、穏やかな微笑の似合うそれだった。
「頭痛と吐き気なら、やっぱり二日酔いなのかしらね。そういう時はコーヒーがいいって聞いたわ。いま淹れてくるわね」
「コーヒー?いいや、そんなもので治るとは到底思えないね。これは薬がなくちゃあ見込みのない病気だ。君にはわからないだろうが」
「薬ってサリチル酸のこと?ダメよ、あれじゃあ。なんでも内臓が傷つくって話よ」
「なら君はオレが頭を叩き割って死んでもいいって言うんだな」
言いながら、『何をバカな』とディエゴは内心で思う。なんてバカげた──子供じみた癇癪。声音には甘えるような響きさえあって、ディエゴは唇を引き結んだ。調子が狂うとは──まさにこのことだ。
名前が「あなたの手にかかると一事が万事大問題になるのねぇ」と溜め息を吐くのも納得である。だからといって、弁明も賛同もできやしないのだが。
「とりあえず少しでもいいから何かお腹に入れなくちゃ。朝食を食べて、コーヒーを飲んで、それでも治らないなら薬を飲めばいいわ」
「……仕方ないな。わかった、それでいい」
ディエゴは不承不承の体で頷く。と、名前はすぐに身を翻し、次に戻ってきた時にはその手に軽食の載った盆を持っていた。サンドイッチとリンゴだ。朝食にしては少ない量。だが体調の悪い今はちょうどいい。
「さ、顔を上げて。そんなに俯いてたんじゃあ薬だって飲めやしないわよ」
名前は枕を使って、ディエゴのための背凭れを作った。不気味なくらい甲斐甲斐しい。おまけに鼻歌でも歌いかねないほどご機嫌だ。
いったい何を企んでいるのやら。油断させようって腹積もりかもしれないが──そう、ディエゴは思考する。尤も、今更どうしてそんなことをする必要があるのかまではディエゴにもわからなかった。
とはいえ彼女のペースに乗せられるのはお断りだ。だからディエゴはコーヒーを受け取りながら、鼻を鳴らした。
「ずいぶん楽しそうだな。無様な姿のオレがそんなに面白いか?」
「え?」
けれど予想に反し、名前は目を瞬かせる。その上驚きが過ぎ去った後には「案外想像力が豊かなのね」といかにもおかしそうに笑う。そこに憤慨の気配はない。
「もしかしてあなた、昨晩のこと、まるで覚えていらっしゃらないの?」
「昨晩?」
今度はディエゴが目を丸くする番だった。昨晩、昨晩のこと……名前の台詞が、頭の中で反響する。
「ゆうべは……一度帰ってからパブに行って……それから……」
それから──脳裏に浮かぶのは、怪しげな格好をした名前の姿。体をすっぽり覆うマントに、目深に被ったフード。一見すると少年のようなその姿を思い出し、ディエゴはあっと声を上げる。
「お前……あのふざけた格好はいったい何のつもりだ?しかもあんな卑しい場所……バレたら自分の評判がどうなるかわかってるのかッ!?」
「あなたが酒場になんて行かなきゃ、私だってあんな真似せずに済んだのだけれど」
声を荒げると、名前もまたムッと眉根を寄せた。
しかしそれも一瞬のこと。息継ぎを境にして、名前の唇は柔らかな笑みを取り戻す。
「そんなに怒らないで。余計に頭が痛くなったらどうするの?」
窘める調子。そして眼差しに、何故だかディエゴは無性に据わりの悪さを覚える。
「ああ……、そう、だな……」しかし万事がこんな調子では──無論機嫌が悪いよりはずっといいが──それにしてもどうしてこうも胸がざわつくのか。
まさかこれも昨晩の酒が原因とでもいうのだろうか?胃のムカつきと似た感覚に、ディエゴは強引に結論づける。何もかも酒が悪い。頭痛も吐き気も胸のざわつきも……すべての原因は己の外側にあるのだ。
そこまで考えたところで、ディエゴは自分に向けられた視線に気づく。
「……なんだ?まじまじ見て」
「いえ、本当に覚えていないのね、と思って。昨晩のこと……本当に、忘れてしまったのね」
ゆっくりと、噛み締めるように。呟いてから、名前は「まったく、薄情ですこと」と笑う。
それはいったいどういった種類の笑いだろう?妻の奇妙な態度に、ディエゴは訝る。名前の言葉は非難のそれであったが、皮肉の響きはない。本気で詰っているにしては朗らかすぎる微笑と言えた。
その上名前ときたら、「あぁでも、だからこそ真実味があっていいのかもしれないわね」と一人納得する始末。まったく意味がわからない。問い質してみても、「希少なものほど価値が高まるというだけのお話よ」と煙に巻かれるだけ。
しまいには「手が止まっていてよ。このままでは昼食になってしまうわ」などと揶揄われ、ディエゴは顰めっ面のままキューカンバー・サンドに噛みついた。
……悔しいが、美味い。
このキュウリ一切れでいったい幾らになるだろうか。そんな下らない考えをサンドイッチと共に嚥下して、ディエゴは枕元に座ったままの名前を見た。──まだ話はおわっちゃいない。
「……ともかく、今後ああいった真似はやめておいた方が賢明だな。それともいっそ、テレンスでも見張りにつかせるか」
「彼はバトラーよ、コンパニオンじゃあないわ。仕事を増やしちゃかわいそうよ」
「へえ!そりゃあ大層お優しいことで。だったら妻に好き勝手される夫のことも少しは哀れんでくれたっていいんじゃあないか?」
まったくどうして──この女ときたら!テレンスを庇う言葉に、苛立ちが募る。
そういえば、テレンスも言っていた。親愛なる友、裁縫を教え合う仲……したくもないのに、親しげに笑み交わす二人を想像してしまう。
思わず舌打ちしたディエゴに、しかし名前が向けるのは静かな眼差し。
「例えば?例えばどんなことをすればその人は喜んでくださるのかしら?」
その声があまりに透き通っているものだから、しんとした室内では明瞭に響き渡った。
「例えば……」
「あなたがそれで満足できるなら好きにしたらいいわ。見張りをつけられても構わない。もちろん、皆の迷惑にならない程度に、だけど」
──目の前にいる女は、いったい誰だ?
初めて会うような気持ちで、ディエゴはこの七年間を共にした妻を見つめ返す。端正だが、どこか冷たさを感じさせる容貌。そう思っていたが、今は果たして?古風な厳格さは溶け、オランダ派の絵画に似た穏やかなものが彼女を満たしていた。
「……いったいどういう風の吹き回しだ?」
慎重に問うと、名前は悪戯っぽく人差し指を口許に当てた。
「内緒。気になるなら頑張って思い出すことね。でもただひとつ言うなら、今の私はとても気分がいいの」
「思い出す……?」
「あぁ、だけどジョニィにはあなたからも謝っておいてね。私のはいいとしても、人の手紙を勝手に覗き見するなんていけないことだわ」
「……ジョニィ・ジョースターのことは今関係ないだろう」
ジョニィ・ジョースター。聞きたくもなければ口にしたくもない名前だ。そんなものをわざわざ思い出させてくれた名前に、一抹の憎しみすら覚える。
が、それに対する名前の反応はといえば、にこやかなもの。ディエゴの睥睨すらも小首を傾げ、「あら?嫉妬?」と受け流す。
嫉妬。──嫉妬、だって?
「ばっ……バカ言うな!誰が今更そんな……ッ!」
こいつはいったい何を言っているのか。まったく、見当違いもいいところだ!悪い冗談としか聞こえないそれに、しかしふと、脳裏を過る何かがある。何か──どこかで、似たような言葉を聞いた、ような──
「────ッ」
瞬間、頭の中に溢れたのはひどく鮮明な映像。すさまじい速さで流れていくそれが自分自身の記憶であるのだと、ディエゴは感覚で理解した。薄暗い酒場も、煙る視界も、困惑を露にする名前も、本当はすべて知っていた。
彼女の言葉──甲高い──『まるで嫉妬でもしているみたいだわ! 』──叫び。それから、自分の感じた怒り──そうだ、オレは彼女にこう返したのだ──『……したら悪いって言うのか?』──そう言って、名前の細い手を乱暴に引いて──見開かれた蒼い目、溢れる金糸、艶めく紅い唇──そして、それから────
「ふふっ、顔が赤いわよ。もしかして……思い出せた?」
「う、うるさいッ!」
──最悪の朝だ。これ以上はないっていうくらい、最低最悪の朝。何もかもが思い通りに運ばなくて、頭を掻きむしりたくなる。
「そんなに叫べるなら大丈夫そうね。元気になってよかった」
「……お前は少しくらい元気がない方がまだ可愛いげがあったな」
「まぁ酷い」
何より腹立たしいのは自分自身だ。微笑む名前に安堵するのも、サイドテーブルに飾られたクレマチスに喜びを感じるのも、何もかもが腹立たしく、自由にならない。
ディエゴは自分でもわからぬままに名前の頬に手を滑らせた。
──言い訳は、唇を封じてから考えればいいことだ。