彼女と私は同じ色をしていた

 朝、起きた時から名前の気分は最高だった。それはいつもより早く起きたからでも、透の寝顔を見れたからでもない(――後者についてはそれが理由の一つであるということを否定できないが)。
 透が起き出したのはそれから三十分ほど後だった。二人は「おはよう」と笑み交わした。
 名前は彼の前に朝食を並べた。フレンチトーストにサラダとコンソメスープ。「至れり尽くせりだな」その言葉に名前は肩を竦めた。「あなたほど手の込んだものは作れないけどね」
 それから、二人は昨晩用意した荷物を持って駅に向かった。特急列車に揺られること一時間とちょっと。ほどよい車内温度に眠気が誘われる頃、名前の肩は叩かれた。乗り換えたバスの中で、彼女は目をこする。「少し眠る?」と透が言う。その声の柔らかさに頷きかけ、名前は慌てて首を左右に振った。

「勿体ないことはしたくないの」

「そっか」

 そんなやり取りをするうち目的地に着いた。空は快晴。抜けるようなスカイブルーと公園に広がる香りは名前の足取りを一層軽くした。チュール刺繍の入ったスカートの裾が揺れ、ストローハットのリボンがたなびく。ワルツでも踊り出したい気分だった。その手をとったのは透で、彼は空よりもずっと清かに笑んでいた。

「転ぶと危ないから、ね」

「……うん」

 まずはじめに二人を出迎えたのは、見頃を迎えたバラたちだった。清楚な純白と荘厳な濃赤色。対照的な二つが見事に融合したローズガーデン。甘く軽やかな風を、名前は舌の上で転がした。

「白がクライミング・ローズ系のアイスバーグ、赤い方がフロリバンダ系のラバグルート。フロリバンダ系は一本の枝に複数の花がつくタイプだから、色模様を楽しむといい。これらの欠点としては香りが薄いってことかな。そうそう、バラっていうのは紀元前からあったらしいよ。それが十字軍の時代に中近東からヨーロッパに伝わり、18世紀ごろにはアジアのバラがヨーロッパに入って、様々な品種が生み出されたそうだ」

「調べてきたの……?」

 息継ぐ間もない説明。呆然とする名前と、こともなげな透。「いいや?これくらい調べるほどのものじゃあないよ」……どうやら、植物に関する知識も警察学校では習うらしい。

「……それはさておき、今日は晴れてよかった」

「あぁ、絶好のドライブ日和だ」

 透は少し残念そうだった。彼の愛車、RX-7はただ今修理中である。自分の怪我には頓着しないくせ、大きく凹んだフロントドアを前にうなだれていた姿は記憶に新しい。だから「早く帰ってくるといいね」と慰める以外、名前には思いつかなかった。

「そうだね、帰ってきたら……今度こそ水族館に行こうか」

「混んでないところがいいな」

「平日に行けば平気さ」

 ローズガーデンとリナリアの花畑を抜けた先には大草原が広がっていた。見渡す限りに続く深緑。海から流れるそよ風が頬を撫ぜる。レジャーシートは豊かに葉を茂らせた木の下に広げた。大きな木陰に入ると、それだけで初夏の太陽から逃れることができた。
 名前はバスケットの蓋を開けると、中に入ったものを慎重に取り出し、皿の上に並べていった。生ハム、クリームチーズ、トマトを挟んだイタリアンブレッド。サワ―クリームをかけたベイクドポテトとシーザーサラダ。

「それから、おやつにスコーンを作ってきたの。杏子のジャムがあったから」

 今日の昼食を用意したのは名前だった。常ならば透に任せきりに――というより、彼がやりたがるのだが――なっているが、今日は特別だ。先日の水族館での一件で疲れの残る透に何かしてやりたかった。このピクニックも気分転換になればと思って名前が提案したものだ。……透は最後まで水族館じゃなくていいのかと気にしていたが。

「ん、うまい!バジルのソースがさわやかでいいね」

 頭を撫でられ、名前ははにかんだ。「それでもやっぱり透には敵わない」それは本心だったけれど、褒められて悪い気はしない。精進しよう――そう思った。名前は褒められて伸びるタイプなのだ。
 「そりゃあね、僕も日々成長してますから」ウインクひとつ。安室透という男はおどける様すら格好いい。「名前に追い抜かされないよう、僕も必死なんだよ」
 名前は片眉を上げた。「どうして?」万が一、いや、億が一にも透に勝てるとは思わないが、透がそれを危惧するというのも回避のために力を尽くす理由も、さっぱり分からない。
 真意を探ろうと、名前は透をじぃっと見つめた。ビスケット色の艶やかな髪。それが縁取る健康的な肌色の顔。挑戦的な眉と、対照的に柔和に垂れた目。青みがかった瞳には、今はいたずらっぽい光がまたたいていた。薄い唇が、くすり、と弧を描く。

「せっかく掴んだ胃袋を離したくはないんでね」

 うちのかわいいオオカミは食事に目がないようだから――。
 ……なんて甘やかな声を出すのだろう。おかげで名前はめまいに襲われた。それはもうくらっときた。天と地が逆さまになる勢いだった。

「……うぬぼれてしまいそう」

 名前は両頬を覆う。紅潮した頬は熱を帯びていただろうが、体温の上がった両手では違いなど分からなかった。なのに顔はゆるゆるに溶けてくる。しまりのない顔になっているだろうな、とどこか他人事のように思った。
 名前はいっぱいいっぱいだった。なのに透は容赦してくれない。「うぬぼれてほしいな」だなんて!こちらの太陽は大木でも遮れないようで、木陰の涼しさはどこかに追いやられてしまった。
 「それ以上は何も言わないで」名前は降参の意を示した。蚊の鳴くような声だった。透はまた彼女の頭に手をやる。「しょうがないなぁ」そう言うわりに、声音はちっとも残念そうじゃない。やっぱり、名前が透に敵うはずもないのだ。
 名前の熱が冷める頃、「そういえば」と透は切り出した。

「風見が名前の話をしていたよ」

「カザミ……、あぁ、透のところの人」

「そうそう、僕の部下で君が助けた男さ」

 「でもどうして?」名前は首を傾げる。確かに名前は公安の男を担いで、安全なところまで連れていった。けれどその時男は気絶していたはず。男からしたら、ゴンドラで記憶が途切れたと思ったら、いつの間にか駐車場で倒れていたという認識だろう。

「微かに意識はあったみたいでね、自分が誰かにおぶられたのは覚えてて。でもそれが誰なのか分からない。おかげで風見は自分には守護霊が憑いてるんじゃないかって」

「守護霊……」

 なんとも反応に困る内容だ。守護霊。それはすなわち人を守ろうとする霊的存在を指す。ということは、悪い評価ではないのだろう。恐らく。そう分かってはいても、名前の顔は微妙なものになる。「ひどい顔」と、透にまで笑われる始末。その『ひどい顔』の頬を引っ張って、さらにひどいものにしながら、彼は言った。

「安心して、ちゃんと訂正しておいたから」

「訂正?」

 伸びた頬をさすりながら聞き返す。上目で伺うと、透はそれはもういい笑顔をしていた。……嫌な予感がする。

「『それはきっと風見のじゃなくて俺の守護霊だろう』って具合にね」

 訂正すべき箇所はそこじゃない。「……風見さんに変な顔されなかった?」突然上司が大真面目に守護霊の存在を語り始めたら、普通は引く。それくらい名前にだって分かる。風見という男もさぞかし困惑したにちがいない。そう、名前は危惧したのだが。

「いや?むしろ風見は感激してたな。『そこまで部下を案じてくださるとは……!』とかなんとか」

「……そう」

 どうやら、この国でおかしいのは名前の方らしい。「透がそれでいいなら、私はなんでもいいよ」投げやりな物言いになったのはご愛敬だ。そんな名前のご機嫌取りとばかりに、透は彼女の耳元で囁いた。

「冗談だよ。名前は僕だけのla louveだ」

 けれど、名前は顔を曇らせる。「……私はそんな高貴な存在にはなれない」
 ラ・ルーヴとはただの雌オオカミではなく、魅惑的な貴婦人をも言う。護り神と呼ばれるオオカミを体現したくて、透の番犬でありたかったのに、名前は結局肝心な時に透の力になれなかった。それを悔やむ今の名前に賛辞の言葉はまぶしすぎて。自然と視線は下がってしまった。
 そんな名前を、透は黙って見ていた。急かすことなく、窘めることなく。だから名前の心の内も自然と口に乗っていた。
 「たぶん、私は嫉妬しているのだと思う」江戸川コナンに。赤井秀一に。透の力となった者たちに、名前は嫉妬していた。「それと、私自身への失望も」所在なく遊ばせた指先。その手で成せることはあまりにも少なかった。

「私は、あなたの助けとなれる彼らが羨ましい」

 そう言った声は、思っていたより弱々しいものになった。
 ……透は、どう思ったろうか。知りたくて、知りたくなくて、顔を上げることができない。その頭に、透の声が降ってきた。「なんだ、そうだったのか」それを聞き終わらないうちに、肩が引き寄せられた。真白に染まる視界。立ち上る深緑の香り。名前は目を丸くした。そして、次の言葉で息を呑む。

「僕もだよ、名前。君が赤井と消えて、心配でたまらなかった。コナン君と連れ立って行ってしまった時もそうだ。ずっと、案じてた」

 ぎゅっと、視界がさらに狭くなる。もう豊かな草原も花畑の作るスカイラインも見えない。
 ふと、赤井が言ったことを思い出した。――『君は彼のことを分かっていない』その通りだと今なら頷ける。

「私、まだまだ透のこと知らないのね」

「僕だって知らないことばかりだ」

「名探偵でも?」

 胸元から見上げると、その額に唇を落とされた。「難事件だからね」彼の笑顔に応えるように、名前も頬を緩めた。いつの間にか、強張っていた肩の力はすっかり抜けている。そうなってくると、今度は自分を包む体温が気になってきた。

「眠くなってきた?」

 昼下がり。食事を終え、満たされた体が睡眠を求めるのはごく自然なことで。おまけに安室透という男はバーボンでもあり降谷零でもあるから多忙を極めていて。だから常より高い体温に、名前はそう訊ねた。
 「そうかもしれない」目を細める透。言ったそばから小さな欠伸が漏れる。

「寝ていいよ。ブランケット、持ってきたから」

 名前はブランケットを手渡した。受け取った透は、しかし何かを考えるそぶりを見せる。どうしたの、と問いかけた名前の口はそのままの形で固まった。なぜって?その原因は名前の膝の上にある。ブランケットに包まった透が、そこにはいた。

「……寝心地はよくないと思う」

 どうにか、それだけ言った。それくらい名前は驚いていた。透がこういった行為に出ることに。それはもう驚天動地の勢いだ。

「じゃあ子守歌でも頼もうか。例えば、そうだなぁ、……『ポルトガル語からのソネット』とか」

「なんで、それ、」

 『ポルトガル語からのソネット』――E.B.ブラウニングの詩集を読んでいることは誰にも言ったことなかったのに!どうして透が知っているの!
 そんな名前の胸中を読んで、透は笑う。「探偵だからね」それが免罪符になるとでも思っているのだろうか。ベッドサイドテーブルの引き出しに隠した本のタイトルを知られているなんて、名前のプライバシーはないも同然だ。それでも、透にならいいとすぐに許してしまう。これは飼い犬の性。名前は従順なオオカミなのだ。ワン。

「もう、なんでもいいから早く眠って」

「うたってはくれないのかい」

「……それはまた今度ね」

 そんな具合に軽口を叩いていたのだが。ものの数分で透は眠りに落ちた。細い寝息。健やかな寝顔。やっぱり疲れが残ってたんだ、と名前は眉尻を下げた。
 完璧な人間なんていやしないさ。もういなくなってしまった男の言葉が蘇る。だから、できることなら助けになってやってほしい。スコッチはそう言っていた。それがバーボンの猟犬となるきっかけ。名前の始まり。
 でも、今はそれだけじゃない。

「『すべてを捧げて、あなたを愛します』――」

 ――この命が尽きても。なおいっそう、あなたを愛します。
 キュラソーが何を思ってその身を犠牲にしたのか、名前は知らない。知る術も、もはやなかった。けれど、きっと。彼女にも護りたいものがあったのだろう。組織を、自身を捨ててでも護りたいものが。それが、名前には理解できる。理解できる自分が、嬉しいと思う。

「私も、護るよ」

 だから、今日はこの安寧に身を任せてもいいだろうか。
 自分に問いかけながら、名前も目を閉じた。