国木田が初めてなまえと出会ったのは、探偵社の事務所の前だった。 妙に緊張した面持ちで、茶菓子か何か、手土産らしい紙袋を下げた女が扉をノックしようとしているところで、「ご依頼でしょうか?」と声をかけたのが最初だった。 「あ、いえ、ご挨拶に…」 そう言いながら振り返ったなまえが自分とそう年端も変わらぬうら若い乙女で、聞けば階下に一人デザイン事務所を構える事になったと言うので、少しだけ驚いたのを覚えている。 社員の方でしょうか、と控えめに聞かれたので自分の名を名乗ると、みょうじなまえと言います、と柔らかく笑いながら会釈された。それだけで無防備な耳の後ろの辺りをやんわり撫でられた様な気分になって、国木田は慌てて眼鏡を押し上げ彼女を事務所の中へと案内した。 後になって思えばみょうじなまえというのは何処か掴み所の無い女で、例えば21歳という若さで一人事務所を構えているというところから始まり、その経歴や出身地、家族構成云々、総じて謎の多い人物であった。本人はよく話す方へ分類される割には、彼女自身の事は話しているようで実の所は具体性がなかったのだ。単になまえ自身がそういった話を好まないだけかもしれなかったし、意図的に隠しているのか如何かも国木田には計り知れない事だった。 ――彼女には一切の過去と云うものが存在しないのだよ 例の誘拐事件の後、警察からの報告として確認した調書にほんの少しの違和感を覚え、確認を取っていた矢先太宰がぽつりと呟いた言葉に、何を惚けた事を、と思った。なにせその言葉を口にした本人が経歴詐称も甚だしいくらいに過去が塗り潰された男であったし、あの、人当たりのいい柔らかな空気を持つ彼女がまさか、と思うのが正直なところだった。しかしなまえが時折見せる哀しげな、孤独の匂いは、ともすれば、という気にもさせてくる。 「みょうじなまえは異能力者の可能性が高い」 頭の隅で考えていた事をそのまま太宰が口にしたので、ぐうと押し黙る。 「一切の過去の記録の無い異能力者が、態々探偵社の真下へやってきた。何かあるかもしれないねぇ」 独り言を装って呟いた太宰がにやりと笑う。 何も言い返せぬまま、国木田は彼女が淹れてくれる珈琲の香りを思い出した。真逆あのみょうじに限って。杞憂であって欲しいと思いながら、しかし矢張りそれも言葉に出せぬまま、無言で書類と睨めっこをしてその日の午後は過ぎていった。 「お前は、一体、何者なんだ?」 とうとう口にした瞬間の、なまえの顔はそれこそ一生忘れられないかもしれない、と国木田は思った。例えば銃で撃たれた時の様な、死期を悟りそれを受け入れる瞬間の様な、穏やかでいてしかし酷く狼狽えた表情を浮かべて、なまえはじっと国木田を見つめていた。 にゃあお。道を横切りひらりと塀の上に飛び乗った猫が鳴く。張り詰めた空気など読めもしないのか、身体を丸めすっかり腰を据えて、ただ睨み合う二人を眺めていた。 「………何者、とは」 暫くの沈黙の後になまえが重たい口を開いた。わずかに眉を顰めて、どうやって答えたものか、思案しているような顔つきだった。国木田の方も、何と言うべきなのか、少し考えてから恐る恐る言葉を探す。 「お前には過去がない。何故この街に来た?何故探偵社の下へ態々、」 「それは」 なまえが続きを遮る。ヒュッと二人の間を風が抜けていった。 先程まで、酒を飲み親密な雰囲気で歩いていたというのに、今や目の前の彼女との数歩の距離が、酷く遠く感じられた。 「…私は、」 なまえの目がゆらりと頼りなく揺れ、一瞬だけ足元を見つめる。細い手がぐっと拳を握り締めて微かに震えているのを、国木田は見逃さなかった。 「私は、偶々、あのビルに。探偵社の皆さんに不利益を齎す気は少しも有りません」 「ですが」と続けたその声は淡々としていて冷たい。 「もし、貴方や、他の社員の方が彼処から出て行けとおっしゃるんなら、私は其れを拒否しません」 そうじゃない。国木田は思った。こんな顔をさせたい訳ではなかったし、こんな事を言わせたい訳ではなかった。唯、なまえの口から、自分が何者で恐らくは持っているであろうその異能力がどういうもので、だとか、彼女自身の話が聞きたかったのだ。 なまえは押し黙った国木田を少しの間眺めていたが、肩を竦めて小さく息を吐きだした。 「此処で大丈夫です。ありがとうございました」 さっと踵を返したなまえの手首の辺りを、慌てて駆け寄り掴む。ひんやりと冷たい体温にギクリとしながらも、何とかそれを離さずに、顔を伏せた彼女の細い頸を見つめた。 「みょうじ、気を悪くしたなら謝る。ただ、お前の事が聞きたかっただけだ」 「……私の事?」 ふ、と短く空気を震わせたなまえが、笑っているのか泣いているのかは見えない。 街頭に照らされた白い頸が、ひどく頼りなさげでいつも以上に細く青白く光っているような気さえした。 「私の事を、話したら、きっと」 絞り出すような声で、息も絶え絶えになまえが言う。 「貴方は、二度と、私に触りたくなくなりますよ」 言葉の真意が分からずに、国木田が考えあぐねいていると、ぶるり、ひときわ大きくなまえが身体を震わせた。それでも離すまいと手首を掴んだままでいると、そろりと振り返った濡れた双眸と視線が合う。薄く氷が張った様な、ガラス玉の目だと、初めて彼女の瞳を覗き込んだわけでもないのに、そう思った。 「…今日は本当に楽しかったです、ありがとうございました」 なまえが早口でそう言うと、まるで見計らった様にビュッと風が吹いた。そうして、瞬きもしなかったというのに、次の瞬間にはあれ程しっかりとその手を掴んでいたはずのなまえの姿は何処にも無く、代わりに塀の上であくびをしていた筈の猫が足元へ擦り寄っていた。 にゃあお。呆然とするばかりの国木田を慰める様にもう一度猫が鳴いた。 161214 戻る |