久々に舞い込んできた仕事に張り切って取り掛かっているその間、時間が経つのは恐ろしく早い。昼食はかろうじてとったけれどもようやく納得のいくところまで区切りをつけた時には、外はとっぷり日が暮れていた。時計を見れば21時を過ぎている。8時間以上只管に作業していたのかと思うとどっと肩やら腰やら目の奥やらに疲れが押し寄せてきて、この疲弊した体に鞭打って今から自宅へ帰るのはどうにも面倒臭い。今日は事務所へ泊まってしまおうか。 「ああ、水がない」 事務所の冷蔵庫を開くと中はほぼ空だった。暫く買い出しを怠けていた自分を叱咤しつつ、どちらにせよ水がないのなら買いに行かなければいけない訳だしと渋々鞄を手に取る。私が面倒だと思っていたのは主に帰り支度をしてこの事務所から出るところまでだったので、こうなればもう今日は家まで帰ろうとパソコンの電源を落とす。 事務所の戸締りをして、エレベーターが来るのを待った。そういえば今日は、探偵社は静かだったなと、別に上階の彼らが毎日騒がしい訳ではないのに考えてみれば、やってきたエレベーターに乗っていたのは国木田さんと太宰さんだった。 「嗚呼!美しい人よ。貴女とこんな所で会えるとは最早我々は運命の赤い糸で結ばれているとしか言いようがない。斯くなる上はこの私と心中…」 「止めんか太宰!」 この遅い時間まで仕事をしていたのであろう太宰さんはそれでも何時もの如くつらつらと甘ったるい台詞を並べては艶めかしく笑った。彼の隣に立っていた国木田さんが勘弁してくれと言わんばかりに怒鳴る。此方はえらくお疲れのようだ。 「お疲れ様です。太宰さん、国木田さん。こんな遅くまでお仕事ですか?」 「そうなんだよ。国木田君が何時まで経っても報告書を書き終えないものだから…」 「その報告書を書く羽目になった原因は貴様だろうが!太宰!」 成る程それでこの苛つき様である。 国木田さんとは時折顔を合わせた時に挨拶をするか、襲撃やら何やらの騒音の謝罪にやって来た時に言葉を交わす程度なのだけれど、探偵社の面々から聞いた所によると何時も肌身離さず持っている手帖に書かれた計画に寸分違わぬ様に行動する事を至上としているらしい。確かに少し話しただけでも伝わってくる彼の性格は律儀で生真面目、私の肩を抱いてヘラヘラと笑っている太宰さんとは大違いだなと思う。 「ところでなまえちゃんは?こんな時間まで仕事かい?」 「えぇ。お恥ずかしながら、集中するとつい寝食を忘れてしまうところがあって。気がついたらこんな時間に」 エレベーターの様な狭い個室で挟まれると、知ってはいたけれども二人とも随分と背が高い。そう思っていたところでエレベーターが1階へ到着し、レディファーストよろしく扉の脇へ立った国木田さんに会釈して降りようとすると、するりと手をとられた。勿論太宰さんにだ。 「ところで美しい人よ、良ければ今から一杯どうだい?近くにとても良い雰囲気の店があるのだけれど」 「太宰!こんな時間に御婦人を酒の席へ誘う等…」 「何だい国木田君、一緒に行きたいのなら素直にそう言い給えよ」 「俺が何時一緒に行きたい等と言った!」 大体俺の計画ではもう自宅に着き食事を済ませている時間だ、お前はどれだけ人の計画を乱せば気が済むのだ云々、と怒鳴り散らす国木田さんに対して太宰さんは涼しい顔だ。 二人はコンビを組んでいるそうなのだが、こんなに犬猿の仲の様に見えるのに何故、と思う。 「あのう、」 待っていたところでこの言い合いに終わりが見えないので、仕方なく声を上げると意外にもピタリと言い合いは止まり二人が同時に此方を見る。そりが合わない様に見えてこういうところは息ぴったりなんだなと笑いそうになった。 「すみません太宰さん、せっかくのお誘いなのですが今日はもう遅いですので…」 「そうかい?それは残念。じゃあ私は一人で飲みに行く事にしよう。国木田君」 「何だ」 「もう夜も遅いのだから、なまえちゃんを送って差し上げたら如何かな?」 太宰さんの言葉に国木田さんの眉間の皺が更に深くなる。 「貴様に言われんでも元よりそのつもりだ。さっさと酒でも毒でも飲みに行け」 「はいはい。それじゃあなまえちゃん、くれぐれも国木田君には気をつけて」 「如何いう意味だ!」 ヒラヒラと手を振りながら太宰さんが私の向かう方向とは反対へと歩いていく。 その背中を見送りため息をついた国木田さんはこちらを振り返って「行きましょうか」と言った。如何やら本当に送り届けてくれるようだ。てっきり計画を乱された国木田さんは断るかも知れないと思っていたので、思わぬ申出に驚いた。 「すみません、国木田さん。わざわざ送って頂くなんて」 「こんな遅い時間に御婦人を一人で帰らせる訳にはいかない」 「ありがとうございます」 よく考えればこの生真面目な人が女性を夜道に放り出すなんてことはしないな、と思いながら、隣を歩く国木田さんを見上げる。背筋を伸ばして歩くこの人の眉間に皺が寄せられていないところを見かけたことがないけれど、果たして寝ている時なんかも皺は刻まれたままなのだろうか。そんな如何でもいいような事を考えていると私の視線を感じたらしい国木田さんがこちらをちらりと見やった。 「もうこの辺りには慣れましたか?」 不意にそんな事を尋ねられたので私はまたもや驚いた。どうやら私はこの国木田さんと云う人物を誤解していたらしい、以前私がボソッと口にした、この辺りには越してきたばかりで友達どころか知り合いすら居ないのです、という言葉をしっかり覚えていてくれたようだ。 彼は律儀で生真面目だけれどもそれは仕事の上のことで、もっと淡々とした冷たい人間ではないのかと思っていた自分が酷く恥ずかしくなる。 「ありがとうございます、お陰様で。探偵社の皆さんが親切にしてくださるのでとても心強いです。…今日もこうして送っていただいて」 「いやそれは、」 「はい」 国木田さんは私の方を振り返り何か言いかけたけれど、しかし言うべきか否かを思案しているようにも見えた。 「…仮に俺が探偵社の人間でなくとも、貴女がこんな時間に帰宅するところに出くわせば家まで送るくらいのことはします」 そうやって口を開いて、何故だか罰が悪そうに国木田さんが言ったので、私はぽかんとしてふいと逸らされた顔を見つめる。 眉間の皺の深さに変わりはないけれど、何となく、顔が赤い。 「優しいんですね」 「別にそんな事はない」 「国木田さん、ひとつお願いがあるんですが」 「お願い?」 「敬語、やめていただけませんか?」 今度は国木田さんが惚けた顔をする番だった。 常にという訳ではないのだけれど、何故か国木田さんは自分の方が年が一つ上にも関わらず私に対して敬語混じりに話すので、それが何時も少し距離を取られているような気がして、どうにも引っかかっていたのだ。 「そのう、私は国木田さんよりも年下ですし、それに仕事の依頼者という訳でもないですし。普通に接していただけると、私も嬉しいのですが…」 名前も呼び捨てにしていただいて結構ですので。そう付け足すと国木田さんは少しずり落ちた眼鏡を元の位置に戻して咳払いする。 「すまない、そんなつもりは無かったのだが…」 「いえあの、気になさらないでください。私が勝手に気にしていただけです」 そうこうしている内に自宅のアパートのすぐ側へ来ていた。あとは路地を曲がってすぐなので、立ち止まってその旨を国木田さんに告げる。 「ここで大丈夫なのか?」 「はい。本当にありがとうございます。帰り、お気をつけて」 「俺の事は心配ない」 そう言って国木田さんは颯爽と歩いていく。向かっていく方向からして彼の自宅は私の家と同じ方向という訳ではないらしかったので、何だか申し訳ない事をしたなあと思った。 「国木田さん、」 夜の住宅街は思いの外静かで、控えめに呼びかけた声も簡単に相手に届いてしまった。足を止めた国木田さんが、怪訝な顔をして振り返る。 「もし良ければ、お礼がしたいので、今度お茶でもご馳走させてください」 「いや、しかし…」 「お忙しいようであれば私の事務所ででも。私の方は暇なことが多いですので、お時間あるときにいつでもいらして下さい」 ちょっと強引だっただろうか、思いながら笑いかけると国木田さんは瞬きをしてから何故か小脇に抱えていた手帖を開いた。それからペンを取り出し何かを書き込んでいる。 「来週の火曜日」 「はい?」 「来週の火曜日なら、業務に余裕ができる。午後3時にはそちらへ行けると思う」 そうやって国木田さんが余りにも生真面目で律儀な彼らしく言ってみせたので、私は思わず笑ってしまった。 なんとまあ、不器用で優しい人なのだろう。 「楽しみにしていますね」 会釈して踵を返した後の彼に声が届いたかは定かでは無かったけれど、私は妙に嬉しくなって、疲れている筈の足腰は自宅までの道をいとも軽快に歩き出していた。 160903 戻る |