驟雨
いつだったか城で開かれた宴の席で招かれた詩人が歌っていた情景。その声を耳にするとありありとその風景が脳裏に浮かんだ。
感動のあまりもっと詳しく話を聞きたくなって場を辞した詩人を捕まえてみたが、なんとその詩人は実際にその場所に足を運んだことはなく、詩は代々伝えられたものだと言う。
見てもいないのにあんなにも情緒たっぷりに歌えるものなのかとえらく感心してしまった。
とりあえず場所だけは聞き出したが、如何せん遠い。休日だけでは行くことが出来ない場所だった。
遠いが行けない場所ではないというのが余計に悔しい。纏まった休日があれば……そう思うと諦めるに諦められない。なので、意地でも休暇をもぎ取る事にした。
現在、内政を重視しているため遠征の予定が当分ないこと。目的地は戦火の及んでいない地域であること。休暇の前後は馬車馬の如く働くこと。
これらと合わせて私のまだ見ぬ情景への切々たる思いを先生と法正殿に説く。小細工は通用しないので、真っ向勝負。
どんなに冷めた目で見られようと、隠そうともしない嫌味をぶつけられようと折れることのなかった心を賞賛してほしい。さすがに二人揃ってやって来た時は肝が冷えたが。冷えたけれども負けなかった。あの二人が揃って呆れ顔なんて今後誰も見ることがないだろう。
そんなこんなを乗り越えて今がある。皆が働いている中、馬旅というのは実に気持ちがいい。戻れば再びあの軍師達の手足とならなければいけないことは、この際忘れておこう。実際、休暇前の仕事量は膨大すぎて覚えていない。あんな激務思い出したくもない。
そんな夢にまで見た悠々自適な一人旅はもうすぐで目的地に着く。はやる気持ちから少しでも近道をしようと僅かに街道を逸れた林の中を進んで行く。
雲行きが怪しいなと感じた数刻の後、雨が降り出してきた。降り始めから雨足が強かったので外套を被ったのに随分と濡れてしまった。
すぐに寒さが身体を襲ってくる。早く乾かさないと風邪をひいてしまう。
風邪をひいてのご帰還なんてもっての外だ。なんと言われることやら想像したくもない。少しでも雨露を凌げる場所を見つけなくては……その一心で馬を走らせていると街道にほど近い所にポツリと建つ家を見つけた。
こじんまりとしたその家には厩もあって、馬が一頭いることからどうやら誰か在宅らしい。
勝手に軒先を借りて雨宿りするのも忍びない。ここは一言告げておくのが礼儀だろう。そう結論付けて扉を叩く。
街道から近いと言えど、少し外れている場所なのだから山賊や人攫いが根城としている可能性があることに今更ながら気付くが時すでに遅し。
山賊の類いなら逃げ出そうと構えていたところに、家から顔を出したのが見たことのある人物だったので心底驚いた。
「荀文若……!」
ここは魏の支配下ではないはずだ。こんな僻地で敵の軍師に出会うなんてそんな偶然あってたまるか。心の中でそう悪態を付くも思わず出してしまった名前に慌てて口を閉ざす。
知らぬ振りをすべきだったのに初期対応を完全に間違えてしまった。
「劉備配下の春蓉……でしたか?何故こんな所に……。見たところ偵察、というわけではなさそうですね」
相手が私の事を知っていたことにさらに驚いて逃げ出す機会を失ってしまった。訝しむような視線を上から下に送られているが、武器を向けられる素振りはない。
「個人的な理由でちょっと……」
「……厩には充分に干し草があります。あるものはご自由にお使い下さい」
どうして軍師というものはこうなのか。私が言葉にするより先に察して促してくる。そして、その言葉通りに私が行動すると確信している。それはどうにも心地が悪くてお腹の辺りがざわつく。
正直なところ有り難い申し出なのだが、素直に受け取るには互いに抱えている背景が邪魔をする。それでも愛馬を冷たい雨にさらし続けるのは心が痛いので結局、言葉に甘えてしまった。
「これってどんな状況よ……雨、早く上がんないかな」
「この感じだともうしばらく降り続くでしょうね」
独り言に反応があってぶるりと肩が震えた。
気を抜いていたわけではないのに、気配に気付いていなかった。
さすが魏の軍師であり戦場に立つ男だ、といったところか。これが戦場なら刺されておしまいだ、なんて悠長に考えてしまった。
「貴女も寒いのでしょう?お茶を用意しましたのでどうぞ」
いやいや何言ってんだ、この男は。耳を疑う。目線で拒否を表す。
こんな状況、万が一でも誰かに知れたら処刑ものだろう。
軍師という立場上、そんなこと百も承知だろうに涼しい顔をしてさらに言葉を続ける。
「雨宿りの場ぐらい提供しますよ、あなたの言葉に嘘はないようですから。それに、外で雨に打たれている人がいると知っていて寛ぐというのは中々に難しいものです」
言うだけ言って背中を向けて歩いていく。
まただ。掛けられた言葉に従うべきではないのに足が動きだそうとする。
荀文若の思い描く通りに、言われるままに行動してしまうのはこの男が言霊を操れるからなのか。それとも私が単純なだけなのか。
腹にざわつきを抱えたまま、せめてもの抵抗とばかりに綺麗に残っている足跡をゆっくりと踏みつけ穢していく。