流転するこの世界



 体の中にある淀みを吐き出すかのように大きく息を天井に向かって放つ。
吐き出した分、吸い込んだものは新しい淀みだ。


 唐突に現れた兵士によると、僅かにしか日が差さないこの暗く狭い部屋とはもうすぐお別れらしい。
 そう伝えられて春蓉はすぐに今から向かう最終地点は死だと確信した。
正式に申し開きをする機会も与えられず、早すぎる展開に驚きこそしたが行動を起こす気力はなかった。
 いつからこの国はこうなってしまったのだろう……
 幸か不幸か春蓉には考える時間が沢山あったのだが、明確な答えはついに出なかった。

 国の分岐点については分からないが、自身の分岐点についてはいくつか思い当たる節があった。
 第一は劉備や諸葛亮のいる成都から離れ北部にある都市の守備を任されたこと。
この都市は蜀の領土にありながら魏との関わりの深い異色の地であった。故に戦火にはここ十数年巻き込まれていない。乱世の中にあって珍しい土地だ。
 そんな背景があるものだからここの役人たちは保守的でかつ封建的だった。
よっていきなりやって来た春蓉への当たりは厳しいものだった。

 第二は過剰な責務を一人背負い込んで助けを求めることをしなかったこと。
 心の弱さと人心把握術の無さを早々に認めて成都に戻っていれば、この部屋に繋がれることにはならなかったはずだ。

 謂れ無き誹謗中傷は心を疲弊させる。そんな春蓉を慰めたのは美しい風景だった。
 昔、長期休暇を取って見に行った風景はこの都市から一日もあれば着く場所にある。
 その道すがらまたあの家を見つけてしまった。
 流石に家主は不在のようだったが、いつぞやのように厩で馬を休めさせる。
そうしていると思い出したのは、あの軍師の入れてくれたお茶の温かさだった。


***


 風景を見に行く度に家に寄る事が常になっていたある日、とうとう家主が在宅中に訪れてしまった。
 またお茶を入れてほしいという思いと、敵国の軍師なのだから近づくべきではないという矛盾した感情が春蓉の足をその場に縫い止める。
 そんな主人の葛藤などいざ知らず、愛馬は厩に颯爽と向かいそこで大きく嘶いた。
 先客……もとい厩の主はそれに呼応するかの様にさらに嘶く。
 会話しているとも取れる二頭の鳴き声が響くと間髪入れずに扉が開く音がした。
 必死で愛馬を宥めていた春蓉だったが、聞こえる足音に腹を括った。

「あなたでしたか。馬が騒いでいたの賊でも現れたのかと思いましたよ。今回は雨宿りという訳では無いようですが、またお茶でも飲んでいかれますか?」

 驚いた様子も警戒心も見られない荀ケに春蓉は戸惑っていた。そんな春蓉を気にも留めず荀ケは背を向けて歩き出す。
 まだなんの返答もしていないのに、寄っていくのは決定事項と言わんばかりの足取りだ。
 迷うのも構えるのも馬鹿らしいと諦めて、春蓉は招かれるまま家の中へと入る。
 お茶を入れるために湯を沸かす荀ケの後ろ姿を視界に留めつつ部屋を見渡すとそこは以前足を踏み入れた時となんら変わりのない空間だった。
 書簡や本が増えていたり、以前はなかった鉱物が無造作に転がっていたりするが雰囲気はそのままで自然と肩の力が抜けていくのを春蓉は感じた。
 すぐにお茶は準備され円卓に置かれた。
 向かいあって座り、出されたお茶に口を付けると自然にため息が漏れる。

「美味しい……」

 ため息と共にぽつりと零れるように出てきたのは、なんの飾り気もない心からの言葉だった。

「お気に召しましたか?よろしければ茶葉をお分けしますよ」

「その茶葉だと私でも美味しくお茶を入れる事が出来るでしょうか?自分で入れてはみるのですが、何度やっても今一つなんです」

「手順やお湯に問題があるのかもしれませんね。一度私にお茶を入れて下さいませんか?教示出来ることがあるかもしれません」

 それから二人台所に並び立ち春蓉は荀ケから手ほどきを受けた。
 言われた通りにやってみると流石と言わざるを得ない香り高いお茶となった。自己流で入れたものとは全く違うと春蓉は関心しっぱなしだった。
 再び円卓に向かいあって座り入れたばかりのお茶を飲むと、荀ケの顔に驚きの表情が浮かんだ。

「あなたの入れたお茶は美味しいですね。同じ入れ方をしたのに不思議です」

「私はやはり先程頂いたお茶の方が美味しかったです」

 互いの言葉に声を出して笑い合う。
 敵対する国の者同士とは思えない穏やかな空気が流れていた。

「以前と比べて浮かない顔をしているように見えましたが……少し元気になったようですね。なにか考え事でも?」

 柔らかい笑みを浮かべたまま話す荀ケとは対称的に春蓉の顔から笑みは消える。

「あぁ、詮索するつもりはありませんので……言い方がよくありませんでしたね、申し訳ありません。単純に何かお力になれればと」

「そんなに酷い顔をしていましたか?」

「女性には失礼かと思いますが、問いたくなる程度には」

 その言葉に今更と分かっていても、春蓉は必死に笑顔をとりつくろった。

「考え事というほど大それたことではありません。先程見たこの辺りの風景の雄大さに自身の存在は小さいものだな、と感じてしまって。それが表情に出ていたのかもしれません」

「自然の前ではそうかもしれませんね。ただ、人の世にあれば別です。あなたの存在が物事を動かしていく」

「それは買いかぶりすぎです。私は未だ何一つ成し遂げられていないし、私がいなくとも世の中は進んで行く」

「確かに自らの意志と関係なく世の中は進む。そんな世は受け入れられないですか?」

「受け入れざるを得ないのでは?私はこの世を変えられる器ではありませんから。そんな世の中でも存在していたいという意思だけはあります」

 春蓉の言葉に荀ケは無言で頷く。
 そしていつの間にか用意されていたお茶請けの菓子を差し出されたことでこの話はおしまいとなり、それからは互いの背景には触れない差しさわりのない会話が続いた。

 帰り際、春蓉は土産と言われ残っていた茶葉を持たされた。
 こんな高級なものをもらえないと断ったが、荀ケは引かず初めてみるその頑なな態度に春蓉が折れる形となった。

「あなたの知や才がなくなったとしてもあなたに変わりないし、その存在は決して小さくないと私は思います」

 それは背を向け家を出た瞬間だった。
 唐突に掛けられた言葉の意味が分からず振り返ってみるが、すでに扉は閉められており問いかけることは憚れた。
 落ち込んでいる自分を励ましてくれたのだろうとその言葉を嬉しく思いながら愛馬と共に帰路についた。
 閉門間際にたどり着き、一息ついたその時に数人の屈強な兵と共に大臣が部屋にやってきた。

「貴殿には魏国の間諜の疑がかけられている。これに対し異議があれば述べよ」

 つらつらと読み上げられる内容は、これまでの春蓉の行動を誇大に解釈したものだった。
 足しげく人里離れた隠れ家に通っていた。その家で魏国の者から報酬を受け取っていた。など真実に近いものが織り込まれているものだから、いくらありのままを話したところで逆に隠れ家に通っていたこと、そこで人に会ったことを認める形となってしまう。
 春蓉を良く思わない者たちに尾行されていたことに気付いていなかった自身の落ち度が大きいものだから歯噛みしつつ、冒頭の部屋に繋がれるしか道はなかった。


***

 まるで夜逃げかのように人目を避けて乗せられた荷馬車の周りが騒がしくなったのは、出発してしばらく経ったときだった。
 手かせを握っていた男が、賊がでたと叫ぶ。
 御者の男が必死に馬に鞭を入れるが速度は上がることなくすぐに追いつかれた。

「金目のものはなにもない!食い物なら渡すから見逃してくれ!」

 止められた荷馬車の上で交渉するも賊からは何の返答もなかった。
 男の舌打ちが響くと、春蓉は荷馬車から蹴り落とされた。
 少しでも軽くして逃げるつもりなのだろう。
 手かせは付けられたままなので満足に受け身を取ることも出来ず地面に叩きつけられる。
 体の両側の痛みに耐えていると男の断末魔と鞭の音、それと馬の足音が響き渡る。
 隣にいた男は殺され、御者の男は逃げたのだろうと推測する。
 春蓉は次は自分の番だと思う一方、先程まで思っていた人生の終わり方とは違うなどと考えていた。
 死はすぐそこまで来ているのに頭は割と冷静だった。
 予想と異なり、近づいてきた人物に腕を引かれて立ち上げられた際には少し驚いたが迎える顛末は同じだ。
 このまま売られるか賊の奴隷となるか。その先で死を迎えるだけ。

「豪胆にも程がありますね。普通は暴れるなり、叫ぶなり何かしら抵抗するものですよ」

 僅かな松明の灯りを頼りに声の主をみると、服こそ簡素だが相も変わらず端正な顔立ちの荀ケが呆れ顔で立っていた。
 自死を防ぐためにくわえさせられた布と手かせを外してもらって久しぶりに大きく吸い込んだ新鮮な空気には血の匂いが混ざっていた。

「場所を変えましょうか。ついて来てください」

 亡骸のある場所で灯りもなく佇んでいるわけにもいかず荀ケの後を春蓉はついていく。
 今になって震えはじめた体をぎゅっと抱きしめるが震えは止まりそうになかった。

「どうしてここに、と問うても?」

「あの都市には情報をもたらしてくれる者が何人もいますので」

「何故助けてくれたのですか?」

「……助けるつもりはありません」

 立ち止まり振り向いた荀ケが手にする松明が辺りを照らす。
 荀ケの後ろに道はなかった。恐らく崖なのだろう、僅かに川の流れる音が聞こえる。

「このまま蜀に帰りますか?あなたを可愛がっている諸葛亮に助けを求めれば何とかなるでしょう。掛けられた嫌疑もきっと晴れる。でもここで起きた出来事はあなたの心を蝕む」

 荀ケの言葉にすぐに返答が出来なかった。
 助けられた恩義のために諸葛亮の力になろうとそれだけを胸に働いてきたが、一国の重鎮となった諸葛亮の周りには知と武に優れたものが多く集まっている。
 その中にあって春蓉は自身の力量の無さをまざまざと見せつけられた。
 地方といえど政の知略の攻防についていけず、その結果一方的に与えられる死に抗うこともできない。
 自身の価値とはなんなのだろうか。答えは出そうにない。

「だから、あなたには死んでもらいます」

 反射的に腰に手をやるが、そこに愛刀はなく宙を掴む。
 一歩一歩近づく荀ケから逃げるように後ずさるが無駄な抵抗だと悟り目をつぶって瞬間を待つ。
 いつになっても与えられない痛みにたまらず目を開くと、存外穏やかな表情を浮かべて荀ケが目の前に立っていた。

「蜀の春蓉には死んでもらい、ただの春蓉になってもらいます」

 理解が追いつかず春蓉の眉間に皺が寄る。
 そんな様子を気にも留めずにくすくすと笑いながら荀ケは言葉を続ける。

「街で見初めた天涯孤独の子を連れ帰った、ということにでもしましょうか」

「意味が分からない!殺すなら早く殺せばいい!」

「傷付ける気は毛頭ありません。蜀があなたを不要とするのなら私が貰い受けましょう」

「だから意味が分からないと言っている!大国の軍師が私なんかを欲しがるわけがない。私は蜀において大した地位もなく何の影響力もない、人質というには無意味だ!それに今の私は剣も馬もなく、この身があるのみでなんの価値もない!」

 全身で叫ぶよう吐き捨てる。
 今まで生きてきてこんなに大声を出したのは初めてで、渇いた喉で慣れない大声を出したものだから咳き込んでしまう。

「私は私の持つ全てを使ってあなたを奪いに来ました。魏国はなんの関係もありません」

 春蓉が落ち着くのを待って淡々と話し出した荀ケに再び春蓉の呼吸がおかしくなる。

「何を無くしてもあなたに変わりはないと言ったのを覚えていますか?」

 視線が交わった瞬間、今度は心臓を掴まれたかのように苦しくなった。
 あの遭遇からそう時間は経っていない。それにあの言葉で心が軽くなったのだから忘れるはずがない。
 小さく頷くと荀ケは嬉しそうに笑った。

「あなたの存在が私を動かしました。何をどうやっても手に入れたいと思ってしまった」

 真っすぐに差し出された手は揺らめく松明の灯りのせいなのか僅かに震えているように見えた。
 その震えが言葉に真実味を持たせていて、春蓉の腕が思わず動いたが手を取るには至らなかった。

「……どうか私にあなたに触れる権利を与えてください」

 相変わらず笑顔のままだが、荀ケの瞳には悲哀の色が浮かんでいた。
 その瞳を曇らせている原因が自分なのかと思うとさらに胸が苦しくなり、思わず手を重ねてしまった。


***


 明け方の街道を一路荀ケの住まう家まで相乗りする馬で疾走する。
 背後から抱きかかえるように馬に乗るのは幼い頃父に乗馬を教えられた時以来なのだが、今回は相手が相手なのでこの零距離に緊張しっぱなしで疲労感が半端ない。
 開門時間には少し早いらしく、馬は先程までの速度とはうって変わってゆっくりと進んで行く。
 道すがら荀ケは常に春蓉を気にかけ甘やかすように声を掛ける。
 そんな様子だから春蓉は最大の疑問を早々にぶつけてしまった。

「私の何があなたをそんなにも動かしたのですか?」

「笑った顔がとても素敵で……それを曇らせたくありませんでした。それにまたあの美味しいお茶を入れてほしいと思ったのです」

 同じようなことを思っていたと驚いてしまったが、それを荀ケに伝えることは出来なかった。
 この数日色々なことが起こりすぎて、とっくに春蓉の思考力は上限を超えており照れたように話す荀ケを眺めることで精一杯だった。

「これからは堂々とあなたの名を呼べる。それが今なによりも嬉しいです。春蓉、帰ったらまた私にお茶を入れてくださいませんか?」

 荀ケが褒めてくれた笑みを浮かべようよう返事をする。
 例え騙されていたとしてもこんなにも満ちた気持ちを与えてくれたのならば後悔はないと微睡みに落ちていった。