引き裂いて貼り合わせて


 学校帰りにおもしろい形の尻尾を左右にぴょこぴょこ振りながら歩く黒猫を見つけた。
チラリとこっちを見たくせに意に介さず私にその尻尾を見せつけるように目の前を優雅に歩く。そういえば黒猫が横切ると不吉なことが起こるよ、なんて友達が言ってたっけ。
 不吉なことってなに?とは聞けなくて知った顔してそうなんだ、とだけ答えたことを思い出す。
 今こそ不吉とは何なのかを確かめるべきだろう。そう決めてランドセルの肩ひもをぎゅっと握る。黒猫は走ることなく未だ優雅に歩みを進めていた。

 黒猫が角を曲がる。見失わないように小走りでついていったらにゃあと可愛い声が聞こえた。小さな頭を一生懸命擦り付ける仕草もとても可愛い。そんな風に懐いてもらえるなんて羨ましいなと思いながら、擦り付けられている足から目線を上げる。
 真っ黒な瞳と視線が交わる。くりっとしながらも若干垂れている目はこれでもかと見開いていた。

「あれ?釘宮くん?」

 同じクラスの釘宮くんはとってもおとなしい。授業中に手を挙げることもないし、ばかみたいに騒がしい男子達と一緒に遊んでいるところも見たこともないからだ。あとは……難しいかなって言いながら先生が出した誰も答えられなかった問題を半ば無理矢理、前で解かされて正解してたからすごく頭が良いはず。私が知っているのはそれぐらいだ。

「その子釘宮くんが飼ってるの?ここ釘宮くんのお家?」

 そう質問すると勢いよく視線を外されてしまった。変なことは聞いてないはずなのにあからさまに無視されてムッとしてしまう。
 漫画みたいに唇がとんがってしまうのはお母さん曰く、私の悪いクセらしい。機嫌が悪いのを表して何が悪い。わかりやすくて助かるだろうに。
 そんな私の表情になんか気づくわけのない釘宮くんを残して帰ろうかとしたときに横の扉がガチャリと開いた。出てきたのはニコニコした眼鏡のおじさんだった。

「おや、方美の友達かい?珍しいね。おじさんは国枝忠。エダチューさんって呼ばれてるんだ」
「エダチューさん?……方美?」
「そう。君も方美と一緒に来るかい?きっと楽しいよ」

 これが釘宮くん……もとい方美ちゃんとエダチュー先生、そしてダンスとの出会いだった。
 それからはトントンと物事は進んで行った。方美ちゃんとカップルを組んで練習して大会に出て。初めは楽しいことばっかりだったし、注目されることが多くて褒められるし嬉しかった。いつからだろうどんどん息苦しさを覚えたのは。
 どんどん背が伸びていく方美ちゃんとちっとも変わらない私。スタンダードが好きな方美ちゃんとラテンが好きな私。
 師事するエダチュー先生はスタンダード一辺倒だから余計にラテンに憧れてしまう私の気持ちを方美ちゃんは理解できないらしい。
 そんな時からだった。大会に出ると耳に入ってくる悪気のない悪意とあからさまな悪意がグルグル回って頭から離れなくなったのは。

『今回も釘宮組が本命かな。一位間違いなしでしょ』
『でも釘宮組ってカップルバランス悪いよね。パートナーがリーダーにおんぶに抱っこって感じ』
『男のリーダーでしかも釘宮くんと組めてるからこの成績なのに』

 あんたらに言われなくたって私が一番理解してる。だからこうやって一生懸命練習してるじゃん、これ以上私にどうしろって?外野がごちゃごちゃ言わないでよ。

「ナマエ、ダンスの美しさが損なわれているよ。音をよく聞いて美しさを意識して」
「エダチュー先生、美しさってなに?優雅な振る舞い?それとも表現?……もう分かんないよ」

 方美ちゃんの二の腕に乗せるように組んでいた腕を離してギリギリと拳を握り込む。
同じフロアで練習している小学生も他の先生もこちらを見ているのがわかる。視線が刺さって痛い。
 頭冷やしてきます。の一言だけでタオルと水を手に外に飛び出す。外と言っても入口の目の前に置いてあるベンチなのが恰好が付かないところだ。
 タオルを頭から被って視界と聴覚を遮る。些細な抵抗に過ぎないのだから隣に座る気配とナマエ、と控えめに名前を呼ぶ声ははっきりと届いてきた。

「練習中断させちゃってごめんね」

 返事代わりにポンポンと撫でられた頭に置いた手はそのままに沈黙が続く。組んで数年になるのだから方美ちゃんと私のパーソナルスペースは狭い。

「あのさ、私たちってカップルバランス良くないよね」
「何それ、誰に言われたか知らないけど今更だよ。ナマエの身長は急に伸びないでしょ」

 そうだけど、そういうことじゃない。身長だけじゃないんだ。胸の大部分を占める淀みを吐き出そうと口を開きかけたところで涼しい声色で方美ちゃんは言葉を続ける。

「怖いものは……嫌なものは見えないことにするんだ。だからナマエも聞こえないことにすればいい」

 出会った頃に比べてどんどん鋭くなっていく瞳は遠くを眺めている。そこに私は映っていない。誰のための言葉なのか、どんな真意が隠されているのか、自分のことでいっぱいいっぱいだった幼い私はそんな事は全く考えもしなかった。

「方美ちゃんみたいに器用にできないよ!楽しかったダンスが今はちっとも楽しくない!期待されるのもそれに応えるのも無理、嫌!」

 ダンスから離れたくてしょうがなかった私に転校の話は渡りに船だった。
 教室に最後の挨拶をしに行ったときにダンスは続けるのかと問われて、小さい街でダンス教室がないから辞めると答えるとエダチュー先生は酷く悲しそうな顔をしていたし、方美ちゃんは睨み付けるように私を見ていた。
 そこでようやく私は気付いた。とても大切なものを放り出してまた逃げ出してしまったことに。
 タイミング良くあの黒猫が足元にすり寄ってくる。その瞬間とっくの昔に忘れ去っていた事を思い出した。大切な人達を失望させて失くしちゃうのが私にとっての不吉なことだったんだ。


 ダンス一色だった生活は引っ越してから一変した。ごく普通の学生生活ではぼんやりとする時間が多かった。
 なので何度も方美ちゃんとの一方的な喧嘩を思い返す。少しだけ大人になった私にもあの言葉の真意は分からないけれど、方美ちゃんも何か悩みがあったんじゃないのかなとは思うようになった。
 逃げ出した記憶はしこりとなり、事あるごとに蘇ってくる。だからなのか、進学のために上京しても自分から離れたダンスにすり寄ってしまう。
 手始めに大学のサークルに入ろうとしたが、踊ると方美ちゃんのリードと比較してしまって上手く踊れなかったし何より苦しくなってダメだった。
 だから見るだけ。何度目だろう、都民大会に来るのは。この熱気に充てられるのは不思議と気持ちが良かった。
 わくわくしながら見ていた一次予選でひと際目を引く一組のカップル。純然たるオールドスタイルには覚えがあった。お手本のような足型に思わず呼吸を忘れて見惚れる。
 再起不能なほどの怪我を負ったという記事を読んだのはいつだったか……まさかという気持ちと目に映る踊る姿が脳内をごちゃ混ぜにする。そんな思考をクリアにしたのは子供特有の高く響く声だった。

―間違いなく方美ちゃんって呼んだ!

 声のする方向に視線を向けると芋ようかん片手に一生懸命応援する方美ちゃんがいた。
 いやいやいやいや。流石にそれはないだろうと何度も瞬きを繰り返して件の子供をじっと見つめる。当たり前だが、よく見ると似てはいるが別人だ。私の記憶の方美ちゃんはあんなに大きな声を出さないし、礼儀正しく大人しい。でも時折見せるあの無邪気な笑顔は同じだった。

 会場のこもった空気から解放されて思わず深呼吸する。いつからか堅く握り込んだ拳を開くとじっとりと汗ばんでいた。
 駅へと続く歩道に置かれたベンチに腰を下ろすと、いくつもの街灯が照らす歩道は思いの外明るくて通る人の顔が良くわかる。
 電車を利用するのならこの道を通るはず。会える確率は低いと分かっているが待ってみることにした。
 待ち伏せを始めてものの数十分、意気込んだはいいが通るか分からない人を待つのは意外と辛く既に心折れかけていた。
 そんな中響くキャリーバッグを引く音。この人が違ったら帰ろうと決めて顔を上げると、長身の男女が目に入った。

「方美ちゃん!」

 目の前を通るタイミングで声を掛けると同時に立ち上がる。緊張のあまり無駄に声がデカくなってしまったが仕方ない。
 不審者を見る目でこちらを一瞥する男女の威圧的は半端ない。声を掛けたことをちょっと後悔したがもう後には引けない。

「ナマエです……わかりますか?」

 女性の視線が私から外れて方美ちゃんを見る。左右からじっと見つめられて方美ちゃんは居心地が悪そうだ。
 沈黙が痛い。この雰囲気を作り出した私に向かって空気が棘となって刺してくる。

「ナマエは何で敬語なの?それより、ちゃん付けはやめろって昔から言ってるよね」
「そんな事言ってたっけ?」
「何回も言った。毎回言ってた」
「……覚えてない」

 方美ちゃんの盛大な溜め息で場の空気が和らぐ。とりあえず記憶から抹消されてないみたいで良かった。

「で、ナマエは俺に何の用があるわけ?」

 事前に話すことなく一方的に辞めると言った過去の自分の言動を思い出す。
 そんな経験がありながら、今回もまた一方的に現れて話し掛ける私は厚顔無恥も過ぎるのではないのかと今更ながら気付いた。嫌な人間として記憶に残っていただけなのか……。
 ごちゃごちゃと考えるくせに身体は動かず、私はそのままフリーズしてしまった。