明鏡止水


一度目の訪問の日は燦々と日差しの照り付けるそれはそれはとても暑い日で、二度目は昼夜を問わず深々と降り続けた雪が辺り一面を白銀に変えた日だった。
あんなに暑くてそして寒かった日にこの庵の主もその夫人も出掛けており、春蓉一人で対応に追われたので一行について鮮明に記憶に残っていた。


「おぉ、春蓉殿。久しいな、急ですまないが諸葛亮殿はご在宅か」


あの二度の訪問とは打って変わって三度目となる今日は今までとは違い、暑くもなく寒くもなく日差しの気持ちよい日だ。気候は文句なしなのだが……問題はこの人の好い笑みを浮かべて訪ねて来た一行の間の悪さだろう。
先程、昼餉の片付けをしていると諸葛亮が珍しく厨房までやって来て「今から私は部屋で休みます。」と一言だけ告げて消えていった。体調でも悪いのかと聞く間もなかった。それから一刻も経っていない。


「劉備様お久しぶりでございます。申し訳ございません……いるにはいるのですが生憎先生は奥で休んでおり取次ぐ事が出来ません」
(――頭が良いと未来まで見通せるのかしら)

心底困ったという表情を顔に張り付けながら春蓉は内心ぼやいていた。あの諸葛亮が昼間から休むなんて今までにない行動をとったのはこの一行の訪問を予期していたとしか思えない。そして会う気はないということだろう。


「ってーことはいるにはいるんだな!漸くのご対面と思ったが呑気に昼寝とはな」


三度目の訪問となる一行の長は安堵の表情を浮かべているが、その両隣に立つ二人の偉丈夫はずいぶん厳しい表情だ。
「起こしてこい!」と張飛は言い張ったが「起きるまで待つ」という劉備の鶴の一声で待機することになったようで春蓉はあからさまに安堵の息を吐いた。休むと言った諸葛亮を起こすことも、荒ぶる張飛をなだめることも春蓉には出来そうもない。


客間へと案内し茶の準備を終えた頃には張飛の機嫌も戻っており、今回の旅路について身振り手振りを交えて面白おかしく話してくれた。
その話に劉備と関羽が絶妙な頃合で突っ込みをいれるものだから客間には春蓉の笑い声が響いていた。

「ところで…関羽様。今回も赤兎をお連れになっているのですか」

勿論だ、とまっすぐに瞳を向けてくる春蓉に長い髭を撫でながら自慢げに関羽は答えた。

「素晴らしいですよねぇ、赤兎……」

端整な姿を思い出すだけでほぅっと溜息が出てしまう。あれ程美しい馬を春蓉は他に知らない。

「お主さえ良ければ赤兎達に新鮮な水と草でも与えてやってくれぬか。外で趙雲と待っているはずだ」
「趙雲…様?あ、先程張飛様の話に出ていたお方ですね!分かりました!」

関羽の言葉に嬉しそうに目を細め、行ってまいります!と早足に部屋を出ていった春蓉の背を三人は笑って見送っていた。

稀代の名馬である赤兎の世話を出来るだなんて物凄く運がいい。それも一度ならず三度もだ。
気位の高い赤兎は流石に初めて見る小娘に触れさせることはなく、関羽の手伝いをするだけだった。二度の訪問の際には馬着を着せて刷子をかけることを許された。
今回は手綱を引く事を許してくれるだろうか。

そんな事を考えながら外に向かっていると諸葛亮の私室の扉が見えた。
もう起きているかもしれないと扉の外側から呼びかけると、入室を許可する声が掛かる。
部屋に入ると諸葛亮は机に向かい竹簡を読んでいた。

「先生にお客様がいらっしゃっていますよ。先生が留守の時に二度ほど来られた劉備様の一行です。休んでいると伝えたんですが、起きるまで待つと仰られたので客間にお通ししています。如何しますか」

竹簡に落ちていた諸葛亮の視線が春蓉に向けられたが黙ったままだ。

「赤兎も来ているんですよ、あの赤兎が!関羽様にお世話する許可を頂きました!」

暗に早く外に行きたいと口早に話すが諸葛亮は目を細めただけだった。暫くの沈黙が続く中、白い羽扇を取り出しゆっくりと仰ぐ姿に自然と背筋が伸びる。

「劉備殿はどのような御仁でしたか」
「……とても善い人です。そう感じました」

突然の問いかけにそんな陳腐な言葉しか思い付かない自分に呆れたが口に出してみればしっくりときた。
新野に居城を構える貴人だということは訪問の報告を諸葛亮にした時に教えてもらっていたが、諸葛邸の家人にすぎない春蓉に対し高圧的に接することはなかった。
むしろ気安く話してくれるものだから少々礼節を欠いてしまっている自覚があるほどだ。
あの三人と接することで悪い方へ傾いていた貴人や武人への心象が変わっていった。

「……そうですか。世話が終わったら貴女も客人の元に来てください」

目を合わせた諸葛亮はいつもの柔和な笑みを浮かべていた。
“貴女も“という事は面会する気になったのだろう。訪問者達の苦労がようやく実を結んだことが自分のことのように嬉しい。
ほんの数回のやり取りでそう思ってしまう程、春蓉はあの一行に肩入れしていた。
分かりました。と返事すると扉に向かう諸葛亮に続いて部屋を後にし、外で待っているであろう赤兎の元へ歩みを進めた。


門外へ出るとまだ日が高く少し離れた場所にある僅かに出来た木陰に何頭かの馬が見えた。
体躯の良い馬が揃っているようだか、その中でも一際目を引く馬がいる。相変わらず赤い毛色が美しい。
馬達に気を取られていたため、こちらに視線を向けている青年に気付くのが遅れてしまった。
きっと彼が関羽が言っていた人物だろう。
精巧な龍の文様の入った銀色の鎧に日が当たりきらきらと輝いている。

「趙雲様とお見受けします。関羽様より馬達の世話を命じられましたので厩舎へとお連れします。手綱を頂いてもよろしいでしょうか」
「貴女が?申し出は有難いがとても務まるとは思えん。私が連れて行こう。案内を頼む」

拱手したまま受けた言葉は丁寧だが冷徹な響きを含んでいた。
大切な君主の馬を誰とも分からぬ小娘に触れさせることは出来ないのだろう。まして赤兎もいるのだから却下されるのも当然だ。
しかし、春蓉にとって赤兎に触れられるかもしれない好機なのだから逃す訳にはいかない。

「とは言え、お一人では大変でしょう。的盧と趙雲様の馬をお願い致します。残りは私が」

春蓉は礼を解き赤兎に歩みを進めた。我ながら強引だとは思うが関羽の許可は得ている。後で咎められることはないだろう。
趙雲の静止する声が聞こえるが無視だ。

「お久しぶりです赤兎。覚えてくれていますか、春蓉です」

近付きながら声を掛けると大きな瞳に覗きこまれた。耳をピンと立ててこちらに向けているということは触れてもいいのだろう。掌を鼻先に差し出すと赤兎自ら鼻を寄せてくれた。

「覚えてくれてたのね、ありがとう。疲れているでしょ?すぐに新鮮な草を用意しますから。案内させて下さいね」

赤兎の様子に飛び上がりたくなる程嬉しかったが、そんな事をしてしまえばこの賢い馬を驚かすだけなのでぐっと堪えた。
その代わり鼻に触れていた手をおでこやたてがみに動かす。
嫌がる素振りはないのでそのまま手綱を手に取った。
横に並ぶのは恐らく張飛の馬だろう。なかなかの体躯だ。
貴方も付いてきてね。と声を掛けると、ひと声いなないた。
承知の意なのだろう、賢い馬ばかりでありがたい。

「では趙雲様もよろしいでしょうか。」

手綱を引きながら趙雲を振り返ると、ひどく驚いた顔をしていた。そして若干だが眉根に皺が寄っている。
強引に事を進めた自覚はあるが、謝るのもおかしな気がするので春蓉はそのまま厩舎へと足を進めることにした。

乾いた空に春蓉が馬たちに一方的に喋りかける声とひづめの音が響いていた。