明鏡止水



「これより私は劉備殿にお仕えすることにしました」

馬達の世話を終え客間へと戻った矢先のことだった。
そんな予感はあったのでとりわけ驚くこともなく春蓉は頷いた。

「では私も先生に従います。劉備様よろしいでしょうか」

春蓉の言葉には有無を言わせない強い意志があった。
劉備に断る道理はなかったようでこれを二つ返事で承諾してくれた。

「誠心誠意お仕えします。皆様宜しくお願い致します!」
「おぬしも付いてくるとは頼もしい」
「これでまた兄者の周りが賑やかになるな!」

腕を組んで深く頭を下げている春蓉の上から関羽と張飛の嬉しそうな声が降ってくる。
どうやらすんなりとこの三人に受け入れられたようだ。

「春蓉は明朝出立する劉備殿と共に出てください。私と月英はこの邸を片付け次第向かいます」

諸葛亮の膨大な書物と月英の数々の発明品は春蓉には手を出せそうにない。
それならば新天地での生活の基盤を整えるほうが懸命だということだろう。
承知の意を伝え出立に備えるべく部屋を後にしようとした所で今もまだ厩舎にいるであろう趙雲のことを思い出した。


厩舎に着いても延々と馬達に話し掛けながら世話を焼いていた春蓉だったが、先程まで的盧の傍にいた趙雲がいなくなったことに気付いた。
馬房の外に出てきょろきょろと辺りを見渡すと厩舎の入口に立つ趙雲を見つけた。
劉備の所へ向かうのかと思い、客間まで案内を申し出たがにべもなく突っぱねられた。
それではと再び馬房に戻り馬達の世話を続け、ようやく終わった頃には日が暮れ始めていた。

「趙雲様、馬達の世話も終わりましたので劉備様の元へご案内します」
「ご苦労だった。私はここに残るので戻るといい」
「ですが……」
「私のことは気にせずとも良い」

言い淀む春蓉に向けられたのは、はっきりとした拒否だった。
龍槍を手に凛と立つ姿にそれ以上言う事は出来ず春蓉は厩舎から客間へと来た、というのが先程までの話だ。


「趙雲様ですが、まだ厩舎にいらっしゃるようです。こちらにお連れしようとしたのですが残ると言われましたので……」
「私が的盧を頼むと言ったからな、春蓉が気に病むことは無い」

目敏く春蓉の顔色を察して劉備は苦笑する。

「生真面目なやつだから兄者の言葉に忠実に従ってるんだろうよ。まぁ後で俺様が行くから心配すんな」

しょうがない奴だと笑う張飛の言葉に、知らぬ間に粗相でもしたのかと思っていた春蓉はふっと息をついた。
警戒されていたのは間違いないのだろう。
初対面で馬を勝手に引っ張っていった女だ、それも仕方ない。
同じ主に仕える者として明日改めて挨拶します、と宣言すると
存外おぬしも生真面目だな、と関羽に呆れられてしまった。


まずは自分の荷物を纏めようと与えられた室に戻った。明かりを灯し、室を見回すとここに来た時の事が思い出される。
北方にある故郷を追われ、空腹と怪我で途方に暮れていた春蓉とその愛馬が諸葛亮と月英に救われたのはほんの数年前である。
行くあてのない春蓉に夫婦はこのまま諸葛邸にとどまるよう提案してくれた。
諸葛亮が伏龍や臥龍と称せられる人物と知ったのは一緒に住むようになってすぐだった。
正直その別名が何を意味するかは分かっていなかったが、とにかく頭の切れる人だという事は日々の生活で痛感していた。
なのでこの夫婦が衣食住を与えてくれるだけではなく、文字を教え武芸を磨かせてくれたのは春蓉の中にある何かを諸葛亮が見出したからだと自分に言い聞かせ今日まで懸命に励んできた。

室の真ん中で物思いにふけっていた春蓉はようやく我に返ると手を動かし出した。
春蓉には私物がほとんど無い。
武器である撃剣と弓矢、それに僅かな衣類をまとめて早々に準備を終わらせた。

−−ようやくご恩をお返しすることが出来る!

そう思うと勝手に頬が緩んでくる。
次の準備に取り掛かるため明かりを消して室を飛び出した。
その夜春蓉の軽い足音は遅くまで邸の中に響いていた。



2018.2.15 加筆修正