明鏡止水



 蜀と呉の錚々たる人物が集まった宴会場。その場に春蓉はゆっくりと足を進める。
 ゆっくりと言うのは決して誇張した表現ではない。早足に席へ行きたいのだか、いかんせん身体が重たくてしょうがない。
 歩みを進める度に髪に刺した簪がシャラリと澄んだ音を鳴らす。

(どうしてこうなった……)

 春蓉は頭を抱えたい衝動に駆られたが綺麗に結ってもらった髪を即座に崩してしまうのは申し訳ないので、平常心を保とうと必死だった。
 宴の主催者とその隣に座る主君に挨拶を済ませたら、時を見て早々に辞することにしよう。初めからそう決めていた。
 そもそも春蓉の身分ではこのような面子の揃った宴に参加することなど到底有り得ない。それが何故こうなっているかというと、実の所、春蓉も未だ理解しきれていないのだ。


 事の始まりは春蓉が諸葛亮の元へ赤壁到着の報告に行った事だった。部屋に入ると諸葛亮と月英、それに見たことのない女官が一人いた。

「荷はそれぞれ事前に指定された場所へ持っていくよう指示しました。兵と馬は明日からの修練に備え、直ぐに休息をとるよう言っています」

「ご苦労様でした。春蓉もお疲れでしょうから直ぐに休んで下さい、と言ってあげたい所ではあるのですが……」

 諸葛亮の視線が女官に向く。心なしか言葉じりが冷たい。

「凌家当主の命により、こちらで待たせて頂いておりました。本日の宴における春蓉様のご準備を行うよう言付かっております」

 女官は少しの隙もない美しい所作の挨拶と共にそう言って、春蓉を部屋の外へと促した。女官の言葉を理解出来ない春蓉は戸惑うばかりだ。

「孫権殿が今夜歓迎の宴を開いて下さるのですが、それに春蓉も出るようにとの事。必要なものは全て用意してあるそうですよ」

 月英が顔を左右に振る。これは諦めて従えということだろう。誘いを断れる程の理由がない上に、名の知れた武将でもない春蓉を呼び付ける真意を確かめたいのだと察する。

「私達も参加しますので心配はいりませんよ。とりあえず今はその方に従うように」

 不機嫌を隠そうともしていない月英の言い方は棘しかなく雰囲気は最悪なのだが、ついて行けと言われたのならばその言葉に従うしかない春蓉は渋々ながらも部屋を後にした。

 広い城内を女官に連れられ歩く。すれ違う人達は一様に忙しそうだ。宴の準備に追われているのか、戦の準備に追われているのか判断はつかない。
 ようやく着いた部屋は香が焚かれていて何とも甘い香りがした。そう広くはない部屋に数人の女官が既に控えていた。準備万端と言ったところだろう。
 旅の汚れを落とすためにまずは湯浴みをと言われ、女官が服に手をかけた瞬間、春蓉の声が部屋に響いた。人に身体を洗ってもらった事などない春蓉は自分で出来るからと必死に固辞する。
 しかし女官達はこれが仕事だからと言って全く引かない。一対多数。且つ、押しの強い女官に敵うわけもなく結局は春蓉が折れる事となった。
 このやり取りだけでどっと疲れた春蓉は以降、なされるがままの人形と化す。この女官達と顔を合わせることは二度とないからと、羞恥心は部屋の隅に置いておくことにした。
 髪を乾かし香油を塗って梳く。口は動いているのに、動きには無駄がなくそして丁寧。慣れないことで固くなる春蓉の強ばりを少しでも解そうとお喋りをしたり、湯や菓子を差し出してきたりもした。
 どこの誰か分からない、何の手入れも行っていない女を麗人かのように持て囃すのは女官達も正直面白くないだろう。それでも全員がそんな素振りを一切見せずに仕事を行っている。凌家はよく出来た家人を従えているようだ。
 それにしても凌家の当主とやらは何故自分の面倒をみたのか。思い当たる節といえば、同じ家名を持つ公績しかいないが彼は当主と繋がりが深いのだろうか。
 宴の場に行けば当主に挨拶と礼を述べなければいけないのだから、すぐに理由も分かるだろうと思った所で思考は発散した。向けられた鏡に見たことのない人物が映っている。
 位置的に春蓉に間違いはないのだけど自分であって自分でない。そんな馬鹿げた自問自答を心の中で行ってしまうほど女官の化粧技術も着せられた衣装も素晴らしいものだった。

 漸く解放され部屋から出た時には、とうに陽は沈んでいて宴会場へと続く廊下は既に火が灯されていた。空の暗さと遠くから聞こえてくる喧騒からすると、どうやら宴会は既に開始しているらしい。

そうして話は冒頭へ戻る。

 慣れない髪結いと衣装では無様な歩き方にならないよう努めるだけで精一杯だ。出来うる限りの早足で上座に共にいる劉備と孫権の元を目指す。二人の周りに控えている人は直ぐに強ばった顔で近付く春蓉に気付いたようで、それぞれの主君に耳打ちする。
 揃ってこちらに視線を向けた二人は、酒により随分ご機嫌な様子である事が伺える。遅刻を詫びるには都合が良い。

「ご歓談のところ申し訳ございません。蜀軍配下、春蓉遅参致しました。お時間を頂戴してご挨拶させて頂いてもよろしいでしょうか」

 膝を付きうやうやしく頭を下げる。視線を上げると孫権は大きく頷き、劉備は孫権に向けていた身体をわざわざ春蓉の方へ向け直したがその表情は驚愕していた。

「お前が春蓉か。凌統から話は聞いていたが想像とは違うものだな……宴のために呼ばれた芸妓だと言われても分からんぞ」

「ちょっと権兄様!そんな言い方どうかと思うわ。素直に綺麗だって言ったらいいのに!」

「なっ……!尚香!」

「権兄様は女性の褒め方をちっとも分かってないの、ごめんなさいね。私は孫尚香。凌統から貴方のこと聞いて話をしたいって思ってたの。会えて良かったわ」

「全ては凌家、強いては呉当主の恩恵によるものです。このような厚遇身に余る光栄です」

 尚香が傍に控えた女官に合図をすると新しい盃と酒瓶が運ばれて来た。それからは勧められるまま酒を口にし、同様に孫権に酌をしながら当たり障りのない話をする。
 早々に辞すると決意して臨んだ宴なのに、このままではずるずると長居してしまうことになりそうだ。

「凌家当主にも礼を述べたいのですが、恥ずかしながら存じておらず……どちらにいらっしゃるのでしょうか」

盃も空き、話が一段落ついた所でそう春蓉が言うと孫家の二人が顔を合わせ一瞬間を置いて可笑しそうに笑った。息の合った笑みは兄弟仲の良いことを如実に表す。

「じゃあ私が連れて行ってあげる。こっちよ」

 春蓉を連れ出す尚香の横顔を覗き見ると、目鼻立ちがとても整っており溌剌とした美しさと強さが溢れ出ているように感じた。加えて呉の姫君であるのにとても気さくで親しみやすい。姫であるならそれだけでも充分なのに、武芸にも通じていて弓腰姫とまで称されるのだから驚きだ。こんな完璧な人間が世の中に存在するとは。
 見惚れていた所で尚香の足が止まる。前方を見ると久し振りに見る人物がそこにはいた。

「凌統、貴方の待ち人を連れて来てあげたわよ」

「主賓の所に迎えに行くわけにもいかなかったんで助かりましたよ、姫様」

「公績……?凌統?凌家の当主!?そんなの聞いてない!」

 立ち上がって機嫌良く笑う凌統と突き付けられた事実に頭が追いつかずに混乱する春蓉、そんな二人を見て必死に笑いを堪える尚香の三人は周りの目を存分に集めていた。
 そんな周囲に気付くことなく凌統と春蓉はそのまま言った、言ってないの口論を始める。見かねた尚香が二人の腕を取り外に向かって歩き出した。

「もぅ!あんなとこで口喧嘩なんてやめなさいよ。きっと凌統の説明が足りてないのよね?ゆっくり向こうで話してくるといいわ!」

 侍女から受け取った酒や肴の乗った盆を公績に預けると、尚香は手を振りながらさっさと宴会場へと戻って行く。当たり前のように手を振り返す公績は憂いを帯びた眼差しでその後ろ姿を見送っていた。
尚香の姿が見えなくなると、そのまま空いた手で春蓉の手を取り歩き始めた。慣れぬ衣装と重たい頭では支えがあるのは正直有難く、流されるまま歩みを進める。
 そして座らせられたのは、宴会場の灯りが仄かに届く庭園に作られた泉を臨む位置に佇む屋根の下だった。壁もなく、二脚の椅子と机が置かれた空間に向かい合って座る。

「やっぱり俺の見立ては間違ってなかったみたいだね、良く似合ってる」

「この様な美しい衣装お貸りするなど恐縮です。汚さぬ内にお返ししなければいけませんね」

「返すも何も合わせて作らせたものだから、それはもうアンタのものなんだけどね」

 凌統の向こうに見える泉がぐらつくような眩暈を春蓉は覚えた。
 柿色の長い流れるようなゆったりとした上衣には真っ赤な椿の刺繍が施されており、隙間から覗く黒の下衣は金糸がふんだんに使用されている。帯には銀糸が使用されているようで、錦を纏う絹織物は煌びやかさに比例してずしりと重い。
こんな見るからに高価なものと思ったがそこで目の前で機嫌良く酒を煽る人物が凌家当主だと言うことを思い出した。凌統の金銭感覚ではさして高価なものではないのだろう。

「私では持て余してしまうのが目に見えています。それに贈り物を頂く道理がありません」

「俺が送りたいから送る。ただそれだけだっての」

こんな高価な服を、まして何処と無く凌統の戦闘服を彷彿とさせる意匠の服を送られるのだから、凌統の気持ちが自身にあるのかと自惚れそうになる。しかし、向けられた視線には情も熱量も感じられずそれどころか、どこか遠くを見ている気がした。
重々しい沈黙を切り開くかのように春蓉が意を決して口を開いた。

「もし……私に姫様を重ねているのであればそれは……」

「何でそう思う?」

間髪入れずにそう問うてくる凌統の目はとても鋭かった。たじろいでしまうのは仕方がないがここまで言ってしまったのだから、もう後に引くことはできない。

「私が姫様と似ている、とよく話していましたから。それと先程のやり取りから何となくそうではないかと……」

「アンタは鈍いと思ってたけどそーでもなかったんだな。……悪い、嫌な気分だったよな」

椅子に座ったまま真摯に頭を下げる凌統に向かって春蓉は大きく首を横に振る。

「公績殿ほどの人であれば、武勲をたてれば姫様と婚姻も可能なのではないのですか?」

「どうだろうね。今は内政は割と落ち着いてるから可能性は低そうだ。それに姫様を嫁にしたい訳じゃないしね」

「えっ!?好きだから婚姻したいという訳じゃないのですか?」

 いつもの雰囲気に戻った二人がちびちび酒を飲みながら話す内容はは尚香と凌統の話になっており、今まで恋愛話なんかしたことのない春蓉は何時になく気分が高揚していた。なので思わぬ回答に声が大きくなるのも致し方がないことだ。

「そもそも好意なのか、子供の頃の憧れの延長なのか俺自身も分かってないのに婚姻も何もないつーの。第一、俺の場合は自分の希望だけで決めれるわけないだろうし。周瑜殿辺りが話持ってくるだろうさ」

「そっか……そうですよね、責任あるお立場ですからね。でも公績殿ならきっと素敵な奥方と巡り会える気がします!」

無責任とも取れる楽観的な言い方に思わず吹き出して笑い出した凌統だったが、耳は微かに聞こえる砂利を踏みしめる音を捉えていた。興奮しきりの春蓉は気付いた素振りがない。

「やっぱり服も飾りもアンタに貰って欲しい。で、今度は俺の為に着飾って」

立ち上がった凌統が、春蓉のこめかみから垂れているひと房の髪に口付ける。そのまま髪は凌統の手から滑り落ちていった。

「春蓉!」

瞬間、聞き慣れた澄んだ声が若干の焦りを滲ませて春蓉を呼んだ。色々な意味で春蓉の心臓は大きく脈を打つ。正面に見えた趙雲だがこちらに来るには泉を大きく迂回しなければいけない。

「そろそろ迎えが来る頃だと思ってたよ。なんせあの方、宴会場でずっと怖い顔して見てたからね」

「私が怪我を負った事に責任感じてらっしゃっていて、すごく心配して下さるんです。もう完治しているので問題ないんですけどね」

不思議そうな春蓉の物言いに、凌統は趙雲に対して同情を禁じえない。どう見ても趙雲のあれは嫉妬だ。周りはほぼ確実に気付いているだろうに当の本人だけが気付いていない状況だろう。やはり春蓉は鈍い。
二人きりになる機会なんて、そうそうないだろうから本当はもう少しゆっくりと語り合いたかったというのが凌統の本音だ。だが、突如春蓉に対して芽生えた今までにない感情と向き合うには一人の方が好都合だ。それに趙雲を上手く追い返せるような言葉はどうにも浮かばない。

「俺はもう少しここで呑んでおくから今日はここで解散だ。次の船上訓練の時はアンタも誘うから準備しておいてくれよ」

肯定の意を示すように春蓉は立ち上がり拱手するとにこやかに去っていった。
すぐに趙雲に話し掛けているであろう春蓉の声が聞こえてきたが、凌統は聞き入れないように努めた。
今は何も聞きたくなかった。そして春蓉が去ったあとも辺りを漂う甘い香りに、その存在を感じようと必死になる。 こんなにも女々しい男だったのかと夜空を見つめては自身を嘲笑っていた。