明鏡止水



ビィッと弦が弓を弾く音が沈黙を切り裂くと、続けてパスッと心地よい音が響く。
余韻が辺りを漂う中、すぐにギリギリと軋む音の後また心地よい音がした。狂い無く同じ動作で射っていたが、五本目の弓を射った時、的に向けた左拳が僅かに下を向いた。
トスッと間の抜けた音がする。
構えを解いて、大きく息を吐いた春蓉は何かを確かめるように拳を握ったり開いたりを繰り返す。
弓矢を放つ感覚が今ひとつしっくり来ないのは、久しぶりの射撃だからだろう。毎日欠かさなかった鍛錬を中断していたのは、刀傷のせいというより過保護な武将が理由だ。
帰還した翌日から鍛錬に参加していれば、どこからか話を聞きつけた趙雲が駆けつけ、もうしばらく大人しくしているように諭されてしまった。
酷く心配させていた自覚がある春蓉は渋々ながらもその言葉に従ったが、二日と経ってしまえば付けられた刀傷は瘡蓋になっており、痛みなどとうにない。
にも関わらず弓や撃剣を手にすると趙雲を始め、隊員達にまで止められてしまう。
このままではまずいと春蓉が逃げ出したのは、江夏からそう離れていない木々の中だった。


「見事なもんだな、あんた。うちの姫様にも引けを取らなさそうだ」


突然聞こえた声に春蓉の肩は跳ね上がる。声の方向へ勢い良く顔を向けてみると、木に体を預けて気だるげに立つ男がいた。
歳は春蓉より幾つか若そうな右目の泣き黒子が印象的な男は、長い髪を高い位置で一つ結っており、挿した簪や纏っている衣服からある程度の身分を有している事が分かる。


「失礼ですが、呉からの使者でいらっしゃいますか」


赤を基調とした平服に現在の状況と場所から推測し口にしてみたのだが、その予想は当たっていたようで男は言葉無く頷くと、そのまま春蓉に歩み寄ってきた。
春蓉は慌てて弓を下ろして両手を組み合わせて拱手の形を取る。


「凌公績だ。ま、宜しく頼むよ」

「春蓉と申します」

「あんた、劉備軍なのか?にしても、なんだってこんな所で鍛錬なんかやってんだ?」


心配性な武将が鍛錬をさせてくれないから、とは初対面の人物に言えるわけもなく。かと言って上手い言い訳も咄嗟に出ずに視線だけが宙を彷徨う。


「女だから重用されないとかか……?」

「性別で待遇が変わるような事はございません!現に私は騎馬隊を任されています」


定まっていなかった視線が一変し、睨みつけるように見上げてくる春蓉のあまりの勢いに公績は可笑しそうに笑った。


「あんたの得物は弓だけか?」

「いいえ、撃剣も少々」

「じゃあ、練習相手になってやるかね。剣は相手がいてこそだろ」


公績は腰に下げた剣をすらりと抜くと、その場で二、三度身軽に跳ねては挑戦的な笑みを春蓉に向けた。
惚けていた春蓉だが、慌てて撃剣を取りに行くと間合いを取って公績と向かいあった。


「よろしくお願い致します」

「部隊長殿のお手並み拝見ってね!」


言い終わるより早く公績が一気に間合いを詰める。刃先が首筋を狙って一閃するのを春蓉は跳び下がることで辛うじて避けた。
模擬刀ではなく真剣での撃ち合い、ましてや実力の知れない相手であるから無難な一撃がくると予想していた春蓉には驚きしかない。避けられたから良いものの、首がはねられてもおかしくない程の勢いだった。
春蓉が避けることが出来ると分かっていたのか、それともあの勢いの剣を寸でのところで止められると自信があったのか。公績の心情は、はかりかねるが春蓉のことを試していることは確かだ。
春蓉の戸惑いなど関係ないと公績は先程と同様にその場で跳ねては再び挑戦的な笑みを向ける。その笑みは春蓉の闘争心に火をつけた。
お返しとばかりに春蓉も一気に間合いを詰め首筋に向かって撃剣を突き出す。公績は最低限の動きで避けたが、その動きを追うようにして、撃剣の柄に鎖で繋がれている短剣が投げられる。
冷静に短剣を弾いた公績が攻撃に転じようとするも、僅かに斬撃の届かない位置にすでに春蓉は後退していた。その素早さに驚いた公績は、間合いを詰めようと踏み出す足が一拍遅れた。
一瞬の間を逃すことなく地を蹴った春蓉は撃剣を突き出し、その切先は公績の喉元でピタリと止められた。


「悪い、正直あんたを舐めてた」


 剣を握ったまま両手を上げる公績を気にも留めず春蓉は最初と同じように一定の間合いをとって再度撃剣を構える。


「それでは次は真面目にお相手をお願いいたします」


剣筋や癖を探り合うような撃ち合いを続けていれば、お互い似たような戦い方を好む者だとすぐに理解できた。
春蓉と違うところは相手を試すというより挑発するような動きが多いこと。それにのってみれば、誘い出した癖に熱くなって手数が増えるところだろうか。飄々とした風貌に反して割と熱しやすい男の様だ。
言葉を交わすより、手合わせした方が余程早く相手の人となりが分かる。それはきっと相手も同じだろう。



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初めて剣を交えた日から、約束などしていないが江夏の外れで鍛錬をすることが日課となっていた。
春蓉が自軍の鍛錬への参加許可が下りてからもそれは変わらなかった。もちろん約束などしていないのだから、一人で訓練をする日も多いが。


「今度は碁で相手になってもらおうか」

「勘弁して下さい。少し嗜んだというだけなので相手は務まりませんよ」

「あんた筋というか勘がよさそうだから問題なさそうだ」

「勘って……ただの指導碁になって面白くないですから」

「うーん。ま、それでも打てるんならいいよ」

「まぁ、そもそも碁盤も石もここにはないんですけどね」

「それ先に言えっての!長江渡って呉に戻ったら絶対打つからな」

「きっとそんな余裕はありませんよ」


時間なんて作ればあると言い張る公績は幼く、やはり歳下だなと感じる。現に歳を尋ねてみればその通りであった。
そんな軽口を互いに言える間柄となった公績は、呉ではそれなりに重用されているらしい。そうでなければ呉の重役と共に川を渡ってはこないだろうから、身なりから推測した事は大きく外れていないようだ。


「そのはっきりとした物言いもアンタ、姫様とそっくりだな」


この度々出てくる“姫様”という単語も、呉での立場がそれなりであるという証拠だろう。
とりあえず聞こえていない振りをしてやり過ごしているが、同盟国の姫様と並べられると些か道化を感じてしまう。


「公績殿は明日、出立でしたよね?」

「アンタのとこの殿と軍師殿と一緒にな」

「赤壁に着くといよいよ開戦ですね」

「すぐにってわけじゃない。けど、近々だね」


明日から順次この江夏を出て赤壁へと向かう。そこで呉軍と合流し、長江を挟んで魏軍を迎え撃つ。
魏軍は長きに渡る進軍で疲れた兵と新たに雇用した兵の混合で、統率がとれていないとはいえ兵力で勝る魏軍を撃ち破ることが厳しい事は誰もが承知している。
だが、地の利は蜀と呉の同盟軍にある事から軍内の雰囲気は悪いものではなかった。


「戦でもやれることをやれるだけ行う。ただそれだけ……」

「アンタが赤壁に着いたら水上戦ってやつを教えてやるよ。やれることを増やしてた方がいいだろ」


そんな約束を新たに交わして公績は先に赤壁へと向かって行った。その数日後、最後の荷役を手伝いそれらと共に春蓉は江夏を後にした。